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「……主文、被告人を無期懲役に処する」

 裁判長の言葉に、はっとして律は顔を上げる。

 傍聴席には軽いざわめき。「無期?」「強盗殺人か」ささやき合う声に耳をそばだて、寝ぼけた自分が主文を聞き間違えたのではなかったことを確認してから手元のメモ帳に「無期」と書き殴った。

 被告席では毛玉だらけのグレーのスウェットに身を包んだ初老の男がうなだれている。猫背のせいで身長以上に小さくみすぼらしく見える彼は、場の雰囲気に圧倒され縮こまり、そのまま消えてしまいそうに見えた。

 それにしても、ずっと気にかけていた裁判の、よりによって判決が出る瞬間に居眠りしてしまうなんて自分らしくもない。それもこれも、陸が変な団体に入れ込んで失踪なんてするから……双子の兄の顔を思い浮かべて内心で悪態をつく。

 気合いを入れ直すように両手で一度ぎゅっと強く頬を挟み込むと、律は続けて読み上げられる判決理由に集中した。

 

 

 帰社してからは雑件に追われながら記事を書くうちにあっという間に時間が過ぎた。ようやく書き上げた原稿を上司のチェックに出し、ようやくひと息入れようとコーヒーを買って戻ったところで電話が鳴った。

「もしもし松江? 電話くれたんだろ。悪いな、取材で外に出てて」

 受話器から聞こえてくるのは、同期の沖川の声だった。

「ああ……ごめん、折り返してもらうほどじゃなかったのに」

 沖川雄三は、入社試験の成績が同期トップだったと噂される男だ。評判を裏付けるように、異例の早さで地方勤務を終えて今は東京本社で社会部に配属されている。正直同期として嫉妬の感情があり、律が自ら連絡をとることは少ない。

 今日だって、勢いで本社に電話をかけてから後悔した。だから沖川が外出中だと聞いてほっとしたし、電話に出た事務員にはメモを残す必要はないと告げたのだ。

「たいした内容かそうじゃないかはともかく、電話かけてきたってことは何かしら用事があるんだろ? どうした?」

 気後れしている律と対照的に、沖川は気さくに用件を問う。こういう人懐っこい人柄が、なおさら上司や周囲の好評を呼ぶのかもしれない。

「いや、実はさ……」

 自分から連絡した手前「何でもない」と言い張ることもできず、律は重い口を開いた。

 昨日一日を費やしてDNGなる団体について期待したほどの情報を得られなかった。律は、現時点でDNGは社会の敵として認定されているほど危険な団体ではないのかもしれないと期待を抱くと同時に、情報がないことへの不安におそわれた。何より、新聞記者だから役に立つ情報を得ることができるに違いないと信じている母親に、ネット検索の結果しか告げられないというのも情けない気がする。

 明け方まで眠れず悶々と考えた結果、頭に浮かんだのが沖川だった。本社の社会部に所属する沖川ならば、何らかの情報を持っているかもしれない。こんな小さな支社よりは人的資本も、社内でアクセスできる情報の量も桁違いだろう。その時点では、彼に相談することが自身の家族の恥部を明かすことになるとは、思い至らなかった。

 結局「双子の兄が」とまでは打ち明けず、あくまで大学の友人の家庭での出来事として事情を話した。

「へえ、それはご家族も心配だろうな」

 ひととおりの話を聞いた沖川は、傾聴のお手本のような同情のため息を吐いた。ごく自然にこういう態度を取ることができるのも、悔しいほどに記者向きだ。

「ああ、だから何の情報もなしって返事もしづらくて。本社にいる沖川なら何かわからないかと思ってさ」

 だが、会話内の反応で、彼がDNGという名前に聞き覚えすらないことはわかっている。改めて律は、軽率に沖川に頼ろうとした自分を恥じた。もしかして内心では「のんきな地方勤務と違ってこっちはそんなことに付き合っている暇はない」と思われているかもしれない。

「申し訳ないけど、俺は全然そういう話は詳しくなくて。一般の検索で出てこないってことは全国紙に載るようなトラブルは起こしてないってことだろうし……」

「そうだよな! ごめん、忙しいだろうに変な話に付き合わせて!」

「いや、松江。そういう意味じゃなくて」

 やんわりと迷惑だと告げられているのだとばかり思った律が前のめりに話を終えようとすると、意外にも沖川は引き留める。

「俺は残念ながら知識がないけど、悪徳商法やカルト問題に詳しい記者がいるから聞いてみるよ。ほら、前にK教団の事件あっただろ。最初に記事で取り上げたの、その人なんだ」

 K教団の件は、律も記憶している。違法すれすれの強引な信者勧誘を行い、さらには高額なお布施や法具の購入を強要するとかで、元信者やその家族が集団訴訟を起こした。当初は民事だと取り合わなかった警察も、マスコミが騒ぎ出したことをきっかけに重い腰を上げ、最終的には教祖が詐欺や強要で起訴され有罪判決を受けたはずだ。

 入社前の話なのではっきりと認識していたわけではないが、そういえばあの事件のきっかけは、うちの社の記事だったか。

「ほら、悪徳商法やカルトって、被害者の側も話が大きくなることを望むだろ。一度手がけた記者や弁護士のところには同じような相談が山ほど来るらしいんだ。松江が相談されたっていうその団体の話も、事件化に至らないレベルのトラブルとか聞いてるかもしれないし」

 こちらの劣等感などつゆ知らず、どこまでも親切な沖川に礼を言って電話を切る。と同時に背後から怒鳴るように名前を呼ばれた。

「おい、松江!」

「はい!」

「何のんきに電話してんだ。それとも、よっぽど自分の書いた原稿に自身があるのか?」

 ちっ、と舌打ちをしたい気持ちを堪えて立ち上がるとデスクの机に駆け寄る。デスク――新聞社においては部長直下で、記事の校閲や掲載、レイアウトに関する権限を持つ役職の田上は、律に修正指示を出したくて

苛々と電話の様子をうかがっていたのだ。

「すみません、そういうわけではありませんが……」

「何だよこれ。この記事どういうつもりで書いた」

 押し返されたのは、今日の午前中に傍聴した地裁判決についての記事だ。ワンオペの飲食店に深夜強盗に入った男が、抵抗した店員を包丁で刺して死なせてしまった事件。このあたりでは人死にがでるような刑事事件は多くないので、発生当時は大きな騒ぎになった。

 犯人の男は軽い知的障害があり、生育環境や家族環境にも恵まれず食い詰めた結果強盗に入った。強盗殺人を主張する検察と、あくまで包丁は脅しのためで強盗致死であると主張する弁護側は真っ向から対立し、今日は注目の地裁判決だったのだ。

「どういうつもりって……俺はただ、普通に」

 律にとっては入社後はじめて任された大きな事件。当時のデスクは律とは馬が合い「おまえもそろそろこういう事件を長期的に追ってみろ」と言って取材を任せてくれた。律なりに熱意を持って取り組んできた仕事だった。

 だが今年の春の異動で新しくやってきた田上は前任とはまったく異なるキャラクターで律を嫌っている。普段から記者としての振るまいから記事の「てにをは」まで何かと注意されており、今日の記事にもまた駄目出しというわけだ。

「前にも言っただろう、おまえはこの事件の犯人に肩入れしすぎてる。なんだよこの記事、まるで不当判決とでも言いたげな」

 赤ペンでコツコツと机を叩きながらの言葉に、かちんときた律は言い返す。

「だって、これまでの証言や防犯カメラの映像からして、殺意を判定するのは厳しすぎますよ。それに判決理由でも、被告の生育環境や、生活保護申請が体よく門前払いされた経緯などろくに考慮されてない。控訴審じゃこんな判決維持されませんよ……」

 そこまで言ったところで、バン! と大きな音で律の発言はさえぎられた。はっと口をつぐむと、次の瞬間目の前でびりっと原稿が破かれた。

 破られたところでデータはパソコンに残っている――だが自分なりに気合いを入れて書いた記事を真っ二つにされるのは、はっきりいってとんでもないショックだった。

 絶句する律に、田上はゆっくりと言った。

「松江、おまえは裁判官か?」

「……違います」

「新聞記者の本務は?」

「……報道です」

「だったら、私情を挟まず淡々と事実を書け。この件はストレートニュースで十分だ。どうしても私情を入れたいならもっと深く取材して特集記事や社説で扱うべきだが、おまえはまだそんなレベルじゃない」

 現時点での新聞記者としての能力と技量について、全否定されているも同然だった。

「ほら、時間がないからさっさと直せ。それすらできないなら、俺が事実だけ書き抜いて修正する」

「……いえ、自分で修正します」

 悔しさのあまり握りしめた拳がわなわなと震えた。だが若輩の自分がいくら刃向かったところで、記事の方針を決定するのは田上であることくらい、律にだってわかる。

 唇を噛みしめ自分の席に戻る律の背中に、田上が吐き捨てた。

「正義感が強いのは立派なことかもしれないが、松江、おまえは直情的で短絡的すぎる。記者としても人間としても致命的な欠点だ」