ウィーン再訪編(1)|1961年・ウィーン

 半日以上かけて幾度もの乗り換えを繰り返し、ウィーン中央駅に降り立つと一気に長旅の疲れが押し寄せた。

「ニコ、持とうか?」

「ありがとう、大丈夫だよ」

 疲れを顔に出してしまったことを反省しながらユリウスが差し出す手に礼を断り、ニコは網棚から降ろしたスーツケースを抱えた。

 改札を抜けて大きな駅舎の外に出ると抜けるような青空が広がっている。思わずその場に立ち止まって、きょろきょろと周囲を見回した。

 ニコがウィーンで暮らしたのは終戦後のほんの半年ほどにすぎず、あれからはもう十五年近くが経っている。ナチスドイツの一部として第二次世界大戦を戦ったオーストリアは一九五五年に主権を回復し、ウィーンも今や美と芸術の都としての姿を取り戻しつつある。

 ほんの数ヶ月前にはアメリカの新しい大統領であるジョン・F・ケネディと、ソビエト連邦の第一書記フルシチョフがこの地で会談を行った。

 東ドイツ領域内に飛地とびちのように存在している西ベルリンを巡って、西側世界にとっての重要な拠点として防衛を強化するアメリカと、西ベルリンを経由して共産圏からの脱出を図る亡命者への対応に苦慮する東ドイツやソ連の対立が深まっていた。

 二年前に故郷であるハンブルクに移り住んではいるものの、戦後の長い時期を西ベルリンで過ごしたニコにとって第二の故郷を巡る緊迫した状況は胸が痛んだ。ユリウスが知人に譲ってもらったという中古の白黒テレビでニュース映像に釘付けになり、と同時にかつて暮らしたウィーンの街に懐かしい面影を見出そうとした。――残念ながら打開策を探るための会談は決裂し、今月に入ってから東ドイツ政府が東西ベルリンを隔てる物理的な壁を建造するに至っているのだが。

「やっぱり、あんな小さい画面で見るのとはずいぶん違って見えるな」

 ちょうど同じことを考えていたのか、ユリウスがそう口を開いた。

「うん、街並みがきれいになっているのはテレビ越しでもわかったけど、白黒の画面だと薄暗く見えたし……今はこんなに明るいんだね」

 ニコは目を細めてうっすらと記憶に残る自分の知るウィーンと目の前の景色を重ねることを試みた。

 確かにかつてのウィーンは暗かった。空襲の名残で崩れかけた建物や瓦礫の山があちらこちらに残っていて、街には戦争で住む場所や仕事を失った人間があふれていた。だがニコにはわかっている。この街のイメージを暗くしていたのは他でもない自分の心だったのだと。

 戦争が終わった次の年、ちょうど冬がはじまる頃にニコはユリウスを連れてこの街にやってきた。ユリウス──いや、ニコは当時彼を「レオ」と呼び、ユリウスも自身がニコの兄であるレオポルド・グロスマンであることを疑いはしなかった。

 記憶を失った彼に偽りの過去を与え、兄弟のふりさえ続けていれば自分たちは平穏に、共に生きることができるのだというそれだけがニコにとっての希望だった。誰ひとり知り合いのいない場所で二人きりの家族として。だがそんな幻影は冬が終わる頃には儚く崩れ、ニコはそっとウィーンを去った。

 この街を再訪することは、ニコにとっては大きな宿題のようなものだった。正規の滞在許可も持たない怪しげな兄弟に部屋を貸して、何かと気にかけてくれた大家の老婦人。短い間だが仕事を介して世話になった人々。人懐っこく部屋に通ってきていた金髪碧眼の美しい少年ラインハルトはその後どうしているだろうか。

 善意の人々に対して多くの嘘をついていたことや何も言わずに姿を消したことを、いつかは直接謝りたいと思いながらも、罪悪感すら日々の慌ただしさに紛れる。気づけば戦犯として服役していた刑務所を出所したユリウスとニコが再び一緒に暮らすようになってから数年の月日が流れていた。

 今回の旅のきっかけは、夏の終わり。ニコとユリウスが故郷への移住に続き、ふたつめの夢を叶えたことだった。

 戦争が終わった後で偶然西ベルリンの小さな出版社に雇われたのをきっかけに、ニコは書籍の編集を仕事とするようになった。当初は雑用係だったのに、語学の堪能さを買われて翻訳の手伝い、やがて編集者の真似事のをするようになった。人手が足りないからと請われてのことだったが、今思えばきちんと仕事を手につけられるよう社長が配慮してくれたのだと思う。

 一方のユリウスは刑務所で技術を学んだ活版工の仕事についた。最初は活字を拾って本を刷るだけだったのだが、手先の器用さと覚えの速さを買われていつからか製本の過程にも関わるようになり、気づけば家の中でも製本や書籍の装丁に関する本を読むことが増えていた。

「編集者と、製本家兼印刷工。その気になれば二人だけでも本が作れる」

 そんなことを言い出したのはどちらが先だったか。気に入った本だけを小部数で、徹底的に手をかけて作るというのはいつからかユリウスとニコ双方にとっての夢になった。それに人に雇われるのでなく自分たちだけで仕事をするということはつまり──離れることなくいつも一緒にいられるということでもある。

 望まぬかたちで別れ、離れて暮らすあいだに多くの誤解や苦しみを味わった。これからあと何年生きるのかもわからないが、せめてその間は少しでも長くユリウスと一緒に過ごしたい。例え日中仕事に出かけている数時間すら惜しく思う自分はおかしいのだろうかと思わなくはない。だがニコにとってユリウスは今やそれほどまでに大切な、この世界のすべてといえるほどの存在だった。

 とはいえいくら小さくとも、出版社――とりわけ印刷製本の工房を作るには場所も金も必要だ。「いつか」の夢はきっと夢のまま。そう思っていたところに意外な話が飛び込んできた。

「印刷所をやめると言っている知り合いがいるんだが」

 毎週末の見舞いのときに、ユリウスの父が突然切り出した。

「……それがどうかしたのか?」

 ユリウスの返答ははそっけない。おそらくは照れ隠しなのだろうが、彼は実の父親にあからさまな優しい態度をとることを得意としない。だが、戦争で片脚を失い施設で暮らす父に週一、二度の見舞いを欠かさない彼のぶっきらぼうな態度や言動の中に不器用な優しさが満ちていることは、周囲の誰もが気づいている。それに、優しさを態度に出すのが苦手という意味では彼ら親子は似たようなものだ。

「馬鹿、そんなこともわからんのか。おまえいくつになった」

「今年、三十六歳」

「そんな年にもなって印刷工場で下働きみたいな仕事ばかり続けているなんて、まったく情けない奴だな」

 またはじまった、とニコは苦笑いしながら一歩後ろに下がる。これもユリウスと父にとってはある種のコミュニケーションなので、他人である自分はできるだけ介入すべきでないことは理解している。ただ、たまに白熱しすぎて本気の喧嘩になってしまうこともあるので、そんなときは頃合いをみて止めに入ることにしていた。

 ユリウスは自身の仕事に文句をつけられたと思ったのか、顔をしかめて言い返す。

「あのさ、わかってる? 俺は元ナチ親衛隊で戦犯で、服役していた男なんだ。そんな人間を雇ってくれるところがあるだけでありがたいんだって。いいかげん現実見ろよ」

 その言葉にニコを責める意図などないとわかっているのだが、それでも胸は痛んだ。なんせ、元々は頑固なまでにナチ嫌いだったユリウスが親衛隊に身を置き絶滅収容所に勤務するに至ったのは、ただニコを救うためだったのだから。

 人を死なせることに手を貸し、命を落としかけ、戦犯の汚辱を受けてもユリウスはニコの手を離さなかった。彼はその決断を後悔していないと今も断言するし、ニコだってユリウスの言葉を信じている。それでも自分のためにユリウスが潰した未来がどれほどのものだったかを考えると胸が塞がるようだった。

 父親に対する売り言葉に買い言葉で激しい言葉を発しただけで、悪意ないユリウスはニコの表情に気づいてはいない。代わりにユリウスの父がちらりとニコの方に目をやり、それから息子に向かって大きなため息を吐いた。

「相変わらず考えの足りない奴め。おまえにそういう過去があるからこそ、自分で商売のひとつでも起こす気概を見せろと言っているんだ」

「自分で?」

「ああ、ここの三階に新しく入所してきた人だが、事故で指を失って仕事は引退するらしい。印刷機材も活字も、新しくはないがまだまだ使えるそうだ。丸ごと引き取るなら相場より相当安くしてくれるそうだぞ」

 そして小さな声で──少なくともその方がまだ将来への不安はないだろう、と付け加えた。

 終戦からじき二十年が経とうとしている。日常に不穏を感じることは少ないが、ベルリンを巡る緊迫した情勢をはじめとして世界にはまだまだ火種が満ちあふれている。それに、ナチスドイツは決して過去のものではない。

 戦後に捕虜収容所から逃亡してアルゼンチンに渡っていた元ナチ高官アドルフ・アイヒマンがイスラエル諜報特務庁モサドにより拘束されたのは昨年のこと。今年四月からはエルサレムで彼の裁判が行われ、再びナチスドイツとその戦争犯罪について世界中の注目が集まっている。

 アイヒマンだけではない。新聞の片隅に逃亡戦犯の拘束や裁判の記事が載り、そういったことがきっかけで元ナチへの批判が再燃することは今も珍しくない。

 もちろんユリウスは自ら出頭しすでに法の裁きを受けた身であるのだが、必ずしもそれで納得する人間ばかりではないのが現実だ。今のところ自分たちの身辺に大きなトラブルは起こっていないが、何かがきっかけで元ナチへの反対運動が沸き起こり、ユリウスが仕事を失うことも荒唐無稽な想像とはいえない。

「でも一緒だろう。自分で仕事をしたところで、誰かが俺の過去をあげっつらって騒げば取引はなくなる」

 父親の意図を理解して感情は落ち着いたようだが、それでもユリウスは急な話に戸惑っているようだった。しかしニコはこれを一世一代のチャンスだと思った。ユリウスが家で手慰みに本のデザインを描いているのも知っている。今勤めている印刷所で作っているような平凡な量産品ではなくて、小部数でもこだわって作られた美しい本。そういったものに彼が惹かれているのだと。

 だからニコは手を伸ばし、ユリウスの肩をそっと叩いた。

「戦前、ユダヤ人が職を追われて僕の父は自分の会計事務所を閉じることになった。でも世の中の動きとは関係なしに、父の人柄や能力を信頼してくれている人たちは密かに仕事を頼んでくれていたよ」

 ユリウスの懸念はもっともだ。でも、ユリウスが決して望んで人を傷つけるような人間ではないことも、自らの過去に誠実に向き合っていることも、誰より熱心に仕事に取り組んでいることも、きっとわかってくれる人はいる。そして誰かがユリウスの過去を掘り起こし問題にしたところで、手を差し伸べてくれる人は必ずどこかにいるのだ。

「ニコ……」

 父親相手であれば意地を張りがちなユリウスもニコの言葉には耳を傾ける。戸惑いを顔に浮かべながら振り向いた恋人にニコはうなずいた。

「僕も手伝うから」