というわけで、なけなしの貯金に借金を加えてニコとユリウスは自分たちだけの小さな工房を手に入れた。営業や経理といった事務仕事全般と編集はニコの担当、本のデザインや印刷製本はユリウス。分担を決めて一応は会社の体を整えたとはいえもちろん最初から苦労なく仕事が得られるわけではない。
現実は機材を遊ばせているのももったいないので、前の職場の下請けのようなかたちでちょっとしたチラシの作成などで日銭を稼ぐ日々だった。それぞれが数年間の実務経験はあるものの、これまでに業界で認められるような目立った仕事があるわけでもない。思い描くような「特別な本」の注文などそう簡単に入らないのは当然だった。
だが、こういうときに手を差し伸べてくれるのはいつだって古い友人だ。何かのきっかけにユリウスから独立したと聞いたハンスはすぐに電話をかけてきた。開口一番、それは仕事の依頼だった。
「ちょうどいい。限定小部数で凝った装丁の画集を出したいって思っていたところなんだ」
「おい、冗談はよせ」
ユリウスは即座に断ったし、受話器に耳を近づけるように二人のやりとりを聞いていたニコも同じ気持ちだった。何しろ有名画家の仲間入りをして国内外で作品を売り個展を開いているハンスだ。気づかいはありがたいが、事業を立ち上げたばかりで実績ゼロの二人が引き受けるにはあまりに不釣り合いだ。
「せっかくだけど、いくら祝儀にしたってそれは受けられないよ。おまえの作品を扱うのは今の俺たちには荷が重い」
正直な気持ちを述べるユリウスに、ハンスは言った。
「へえ、荷が重いってことは仕事への自信がないってことか。つまりおまえらは素人に毛の生えた状態でとりあえず工房だけを作って、物を知らない奴相手に適当な仕事をしながら修行しようってつもりなんだな。そりゃまあ、ずいぶんご立派な覚悟で」
笑いの混じる声に、聞いているニコの頭には意地の悪い軽口を楽しむ男のいたずらっ子のような顔が生々しく浮かんだ。まったく、最後に会ってから十年近く経つが、相変わらず人情家で――人を怒らせるのが抜群にうまい。
「そういうつもりじゃない。俺たちはただ!」
案の定、あからさまな挑発を黙ってやり過ごすことができるユリウスではない。売り言葉に買い言葉で言い返すと、計算通りとばかりにハンスの声色は弾んだ。
「あのな、こっちは今まで何冊の画集を出してきたと思ってるんだ。もちろん一度だって適当な仕事なんかしたことないし、させたこともない。俺は稀に見るうるさい客だって最近じゃ懇意の出版社にも渋い顔されるくらいだ」
「つまり?」
「おまえたちには俺の納得がいくまでとことん付き合ってもらう。泣き言はきかないが代わりに本が仕上がる頃にはプロの仕事が何かってことが嫌というほどわかってるだろう。どうだ? 俺が手取り足取り本作りを教えてやろうっていうのに不満なんかあるはずがないよな。もちろん、代わりに料金はまけろよ」
受話器に耳をくっつけるようにしてやりとりを聞いていたニコも苦笑するしかなかった。
表面的には気の良いお調子者に見えるハンスが仕事となればどれほどこだわりが強く頑固なのかは、かつて一度訪れた彼のアトリエの空気からも窺い知ることができた。ニコとユリウスの暮らす部屋には自ら買い求めたハンスの画集が何冊も置いてあるが、編集装丁ともにどれも素晴らしい。きっと編集者もデザイナーも印刷工も相応の苦労はしただろうが、だからこそ彼との仕事にやりがいを感じるプロフェッショナルは多いはずで、「懇意の出版社にも渋い顔をされている」というのは方便であるに違いない。
ハンスとの仕事はきっと簡単にはいかない。友人だから、工房を立ち上げて間もないから、そんな言い訳は通用せずたいへんな作業になるのは確実だ。でもその仕事を通じて確実にニコとユリウスは成長するし、ハンスの高い要求を満たす本を出版することができれば、生まれたての工房にとっては何よりの宣伝になる。
この男は一体どこまでお人好しで義理堅いのか。もちろん「料金をまけろ」などと言っておきながら提示された金額は相場を超えるものだった。
そして、戸惑いながらもありがたく厚意に甘えることをに決めたユリウスに、ハンスはひとつだけ注文をつけた。イメージを少しでも外れたものは作れない。だから、本を作る前には直接会って打ち合わせをしたいと。
「つまり、ハンブルクまで来る気なのか?」
「馬鹿を言うな。俺は売れっ子画家で、今もいくつもの注文を抱えている身だ。北ドイツなんてクソ田舎まで行ってる暇なんてあるものか。そっちが俺の要望を聞きにくるんだ」
「俺がウィーンまで?」
「装丁や製本はユリウス、おまえがやるんだな。もちろん中身の話や金の話も大事だから営業と編集の担当も絶対に連れて来い」
仕事にかこつけてユリウスとニコをウィーンに呼びつける――もちろん経費は彼の負担で。ただの旅行名目であれば決して申し出を受けないであろうユリウスとニコの性格も知り尽くした彼らしいやり方だった。
「……まったく、どこまでお人好しなんだ」
「お人好しどころか嫌がらせのつもりだけどな。俺はおまえたちがウィーンに来ることを恐れていることなんて百も承知だ。ポンコツのおまえを置き去りに逃げたニコも、突然『実はユダヤ人難民でなくてナチの親衛隊でした』なんて手紙を残して消えたおまえも、不義理の自覚はあるだろう」
ため息をつくユリウスに、思いどおりにことが進んでいる満足感ゆえかハンスは至極上機嫌だった。
電話を終えて、勝手に話を進めてしまったことに思い至ったのかユリウスは申し訳なさそうな顔でニコを見た。いや、それだけではない。勢いにまかせてハンスの申し出を受けたものの、実際にウィーンを訪れることを考えると不安が込み上げるのだろう。それはニコだって同じだ。
「ニコ……ウィーンに行く話は」
「いつかは行かなきゃって思ってたよ」
ニコの返事にユリウスもほっとしたように微笑んだ。きっとユリウスも長い間ニコと同じようにウィーンのことを気にかけて、いつかそこを訪れなければいけないと考えていたに違いない。
「それにしてもユリウスは本当にいい友達を持ったね」
確か、ハンスがひったくりに奪われた画材鞄を偶然通りかかったユリウスが取り戻してやったのが最初だと聞いた。その偶然の出会いから幾度もハンスには助けられてきた。
ミュンヘンで出頭してから完全に投げやりになっていたユリウスに腕利きの弁護士をつけてくれ、裁判のことを知らせようとニコの居場所を探し当てて西ベルリンまでやってきた。こうしてこれまでに出会ってきた人――生きている人も亡くなった人も含めて――に思いを馳せるたび、ニコは今の自分たちの平穏な生活が、多くの人の助けによるものなのだと思い知る。
「今度こそ謝らなきゃ」
ニコが小さくつぶやくと、ユリウスが不思議そうに首をかしげる。
「何を?」
「だって僕はハンスにはいつも失礼な態度ばかりをとっていたから」
ウィーン時代は、「レオ」が本当は元親衛隊員のユリウス・シュナイダーであることに気づかれるのが怖くてニコはいつも神経を尖らせていた。自分の知らないところでユリウスと友人になったというだけで警戒対象だったハンスから兄弟関係の不自然さを指摘されたときは、動揺に我を忘れた。
裁判について知らせるため西ベルリンまでやってきたハンスと会ったときも、家族の仇であるユリウスのことを蒸し返されたくなくて冷たく追い返してしまった。思い返すと申し訳なくて恥ずかしくていたたまれない気持ちになる。
「それはあいつが悪いんだ。気にすることはない。それに」
うつむくニコを勇気づけるように肩を抱き、ユリウスは言った。――ハンスは俺のことだけでなくニコ、おまえのことも友人だと思っているよ。その言葉にニコの心は少しだけ軽くなった。
ともかくそういうわけで、二人はクリスマス休暇も近い冬の週末にウィーンを訪れることになったのだ。
駅前の風景をひとしきり堪能してからまずはタクシー乗り場を探す。あちこちを見て回りたい気持ちはあるが、今は長旅で疲れているし荷物もある。今日のところは早くホテルにチェックインして体を休めたかった。
タクシーに乗り込んで、ハンスが予約したというホテルの名前を告げる。運転手はなぜか、怪訝な顔で後部座席に座る二人の顔をじろりと眺め、それから車を発進させた。
意味ありげな視線の意味はじきにわかった。しばらく走ってからタクシーは、国立オペラ劇場からすぐの場所にある大きなホテルの車寄せにすうっと入りこんだ。
「……なんだかずいぶん豪華なところだね」
旅行自体ほとんどしたことのない二人だ。外泊というだけでも非日常なのに豪奢な建物には圧倒される。ちらりと看板に目をやるが、ホテルの名前自体は聞いているものと同じで間違いはない。
「余計なことしやがって」
小走りで近づいてきてタクシーのドアを開けようとするベルボーイを横目に、ユリウスが小さくつぶやいた。ニコもまったくの同感だった。
ぴしっとしたスーツやドレスに身を包んだ紳士淑女が行き交う中で、清潔ではあるが質素な服を着たふたりは明らかに場違いだ。しかしさすがプロフェッショナルというべきか、ベルボーイは違和感をおくびにも出さずに二人分のスーツケースをトロリーに載せてフロントを歩いた。
「お名前は」
「ユリウス・シュナイダー」
「……イェーリング様のお客様ですね。承っております」
レセプションで名前を答えると、予約カードを見つけたとたんに相手の顔色が変わった。
「はあ……」
二人は顔を見合わせてため息を吐く。それ以外にできることはなにもなかった。