3. 第1章|1945年・ミュンヘン近郊

 全身がずっしりと重く、指一本動かすことすら億劫だった。

 まるで身体中が水に濡れた砂にでもなったような気分。そのままどこか深い場所まで沈んでいきそうな、ばらばらに砕けてしまいそうな感覚は、不快なようでいてどこか懐かしくもある。

 もう少し堪えればこの重さから解放されるのだろうか。砂山が解け崩れるようにはらはらと、このまま形をなくしてしまえるのならばそれも悪くない。

 流れに身を任せ、あと少しというときに崩れそうな体に何かが触れた。

「だめだ」という声はどこか懐かしい。耳を塞いでやり過ごそうとするが、声は切実に、思いがけない強さで呼びかけ続ける。

「だめだ、こんなところで行かせたりはしない」

 伸ばされた手の冷たい感触に、解けた体が再び形を取り戻す。反射的に体を丸めて逃がれようとするが、執拗に伸ばされた腕に捕まり強い力でぐっと引き寄せられた。

 嫌だ。せっかく何もかも終わろうとしているというのに、そっちの世界には戻りたくない。冷たい手を振り払おうと左腕に渾身の力を込めた。

 そして――最初に耳に飛び込んできたのは、甲高い小さな悲鳴だった。

 声の方向に顔を向けようとしたが、激しい頭の痛みにうめき声をあげてそのまま凍りつく。半分しかない視界に飛び込んできたのは殺風景なコンクリートの天井。鈍器で殴られるような頭痛に加えて暑さと圧迫感に息苦しさすら感じる。

 今の今まで夢を見ていたような気がするが、あまりの苦しさに、思い出す努力すら放棄した。いや、思い出さずにすむのならばそのほうがいい。だって見ていたのは間違いなく悪夢なのだから。

 おそるおそるといった様子で見知らぬ女が顔をのぞき込んできた。きっとさっきの悲鳴の主だ。白い帽子と白衣を身につけていることから、看護婦だろうと想像する。だとすれば、ここは病院か。女は早口で何ごとか話しかけてくるが、理解できない。

 急に激しい渇きを感じて声を出そうとするが、口はからからでうまく動かない。

「水を……」

 苦労しながら絞り出した声はひどくかすれて小さく、まるで老人のように響いた。

みずwasser……? み、水」

 要求をおうむ返しにする女のぎこちない発音に、相手が異国の人間だと知る。どうりでこちらも彼女の言葉が理解できないはずだ。

 水差しいっぱいの水を一気に飲み干したい気分でいるにも関わらず、やがて唇に押し込まれたのは綿に含んだごく少量の水だった。

 くそ、これじゃあまるで虫に水をやっているみたいじゃないか。腹の奥で毒づきながらも、わずかな水を求め蜜を吸う甲虫のように濡れた綿にむしゃぶりついた。

 ようやく喉と唇が多少湿ったせいか、再度口を開いたときには少しだけ話すのが楽になっていた。

「ここは……病院?」

 できるだけゆっくりはっきりした発声で女に話しかけてみるが、返事はなかった。

「あの子なら、医者を呼びに出て行ったよ」

 少し離れた場所から、同室患者と思しき声が聞こえてくる。しゃがれた、あまり若くはない男の声だった。

「ほとんど死にかけてると思ってたあんたが急に動いて話したから動転してるのさ。若い娘だから仕方ない。だが大丈夫。ここには言葉が通じる医者も看護人もいるから」

 その言葉を聞きながら、「大丈夫」とは一体何のことだろうと思う。

 ほとんど死にかけていることが問題であるならば、今だって変わらない。頭が割れるように痛む。左目には何も見えていないが、うっすら光は感じるのでおそらく頭ごと包帯でぐるぐる巻きにされているのだろう。四肢はいずれも固定されているか感覚がないかで、おかげでほとんど身動きが取れない。唯一動く左腕を痛みにうなされて思わず動かしてしまったのを見て、若い看護婦は驚き悲鳴をあげたのだろうか。

 しばらく経ってから女が医者を伴って戻ってきた。アメリカ訛りのドイツ語を話す医者は、体の何か所かに触れて状態を確かめた後で右目の上に手をかざしてきた。指をかわるがわる握ったり開いたりしながら、何本見えるかを訊ねてくる。

「二本……四本……」

「よし、右目は見えているようだ。君、どれくらい眠っていたかわかるかい?」

 首を左右に振ろうとして再び痛みにうめく羽目になる。

「悪い悪い、辛ければまだ答えなくていいよ。ともかく状況だけ簡単に説明しておくが、今は六月でここはミュンヘンの避難病院だ。つまり、君は戦争から生き延びたことになる、一ヶ月以上も昏睡が続いてどうなるかと思ったが、君の場合は幸い栄養状態がそこまで悪化していなかったから、体力に救われたんだな」

 痛みと息苦しさに邪魔されて何を言われているのかすぐには理解できなかった。しかし、医者は沈黙を理解と受け止めて言葉を重ねる。

「君が眠っている間に戦争が終わった。終戦前にヒトラーも死んだ。第三帝国の領土には連合軍が入って戦後処理もはじまった」

 戦争が終わった――その言葉を動きにくい口で繰り返してみる。

 ドイツと連合国が戦争をしていたことは知っている。その戦争が連合軍の勝利で終わり、ドイツの総統だったアドルフ・ヒトラーが死んだことも理解した。だが、淡々と理解する現実と自分自身が繋がらない。

 何かがおかしい。何かが繋がっていない。大切なものがプツンと途切れているような、ぼんやりとした違和感。頼りなさ、不安。これは何だろう。

「まあ、君も色々と心配なことはあるだろうけど、とりあえず今は命が助かったことを喜んで、回復のことだけを考えるべきだ。ええと……」

 激励の言葉の最後に名を呼ぼうとした医者が口ごもるのを見た瞬間に、うっすら感じていた不安が突然大きくなり、押し寄せた。

「俺は。俺は――」

 自ら名乗ろうとして、それ以上何も言えなくなった。

 名前が出てこない。いぶかしげに見つめてくる医者の視線に焦り、何とか思い出そうとするが、最も慣れ親しんでいるはずのその言葉がどうしても出てこなかった。

「先生。俺の名前は……?」

 問いかける声は、震えた。

 医者は少しの間黙りこみ、それから落ち着くように言い聞かせながらいくつかの質問をした。生まれた場所は、家族は、直近の記憶は。しかし、そのどれについても答えることはできなかった。頭の中がどんよりとしたもやで覆われて、中身を見ることがどうしてもできない。必死になればなるほど頭の痛みが激しくなり、焦るにつれて呼吸は浅く短くなった。発作のような息苦しさにやがて何も考えることができなくなる。

「長い昏睡から急に目が覚めて混乱してるんだ。少し薬を使おう」

 白衣の隙間からアメリカ陸軍の軍服をのぞかせた医者は、素早く指示を出し看護婦に注射器を用意させた。

「大丈夫、よくあることだ。慌てなくたって君はもう自由で、思い出す時間はいくらだってある」

 ぜえぜえと苦しい息をする喉を掻きむしろうとする左腕を医者につかまれた。注射のために袖をめくり上げられ生白く細い前腕部が露出する。そこに六桁の数字が刺青されているのが見えた。

 鎮静剤が効いて、また少し眠った。

 今度は嫌な夢も見ず、目覚めるときも看護婦を怯えさせずにすんだ。薬のおかげで頭の痛みも多少和らいでいて、ちょっとした苦痛に耐えるだけで頭を横に傾けることもできる。しかしそこには医者も看護婦もおらず、代わりに座っているのは見覚えのない若い男だった。

 濃い茶色の髪にヘーゼルの瞳を持つ青年は息を殺すようにしてじっとこちらを見つめていた。目が合うと「あっ」と小さく声を上げ気まずそうに視線を逸らす。

 誰だろう。洗濯されてはいるようだが、くたびれたシャツとズボンは痩せた小柄な体には大きすぎる。みすぼらしい服装は医者でも看護人でもなさそうだから、彼はもしかしたら病院の下男か何かで、寝ている自分を監視するよう頼まれているのだろうか。

 青年と呼ぶにも未成熟な細く小さな体躯の一方で、静かなたたずまいはまるで老人のように落ち着いているようにも見える。不思議な雰囲気を持つ彼は膝の上でぎゅっと拳を握りしめて、人見知りの猫のように緊張して黙ったままそこに座っていた。

「ええと、あの……」

 沈黙に耐えられなくなって何か口にしようとしたところで、隣のベッドの男が立ち上がり青年に声をかけた。

「おい良かったじゃないか。兄貴が目を覚まして」

「え?」

 思わずその顔に視線を向けると、男は今度はこちらへ言葉を向けてきた。

「弟さん、心配して毎日見舞いに来てくれてたんだぜ。あんたの体はみるからにひどい様子だが、あのひどい状況の中で身内同士で生き残れただけでも神に感謝しなきゃな」

「弟……?」

 まじまじと青年を眺めると、彼は困ったように薄く微笑み男を穏やかにいさめた。

「勘弁してくださいよ。急にたくさんの話をして驚かせるなって先生に言われてるんですから」

 柔らかい声が耳をくすぐる。以前に聞いた覚えがあるような、どこか懐かしい気がする声色だった。こいつは俺の弟なのか。記憶を探るが何も出てこない。

 薬のおかげで感情も抑制されているのか先ほどのような恐怖や焦燥はなかった。ただ、やはり自分は記憶を失っているのだということを再確認するだけだ。自分の名前はおろか、家族のことすら思い出せないなんて。

「あの、思い出せないって……本当に?」

 おそるおそるといった様子で訊ねてくる、彼の薄く開いた唇が震えるのはどことなく艶かしく見えた。

「ああ、残念ながら何もかも」

 そして、またしばらくの沈黙。次は自分から口を開いた。

「君は、俺の弟なのか?」

 問いかけを肯定することも否定することもなしに彼はうつむいてしまう。そのまま黙り込んで、やがて大きく肩を震わせる。どうやら声もなく泣いているようだった。仕方ない。昏睡状態からようやく目を覚ましたと思った家族が記憶喪失で自分のことすら覚えていないとくれば、誰だって泣きたくもなるだろう。

「ごめん」

 抱きしめてやりたいと思った。目の前にある細い体を腕に抱き込んで、肩を、背中を、柔らかい髪を優しく撫でて慰めるようにさすってやるのを想像した。しかし体を起こすことすらままならない今の状態で、してやれるのはただ彼が泣き続けるのをじっと眺めることだけだった。

 ようやく泣き止んだ〈弟〉は、ハンカチで鼻をかみ顔を上げた。目と鼻先が赤く染まり、さっきまで以上に幼く見える彼は立ち上がりベッドへ一歩近づくと、そっと手を伸ばして首に、体に、頬に触れてくる。その手はひんやりと冷たく気持ちよかった。

「大丈夫だから」と彼は言った。

 目を覚ましてから何度か耳にした「大丈夫」という言葉。そのどれもが口先ばかりの空虚なものに思えたが、今度ばかりは違い。確かめるように輪郭をなぞる冷たい指と泣き笑いのような表情に、何とも言えない安堵感と情が湧き上がるのを感じ、ああ、こいつは俺の弟なんだ、と思った。

 赤い目でうっすらと微笑み返してきた〈弟〉はもう一度、ゆっくりと噛みしめるように呟いた。

「大丈夫。これからは、兄さんのことは僕が守るから」