4. 第1章|1946年・ウィーン

 物音で夢から引き戻された。

 目を覚ましたときの夢というのもおかしなものだが、それよりも古い記憶をなくしてしまったせいか、レオはミュンヘンの病院で目覚めた日の夢を頻繁にみる。すべての過去を失っていることに気づいたときの動揺にうなされては、「大丈夫」と触れてきたニコのひんやりと優しい手に安堵することを毎夜のように繰り返すのだ。

 あれからはもう一年以上。ずいぶん遠くに来てしまった。

 壁の上の方に申し訳程度に開いた窓からはうっすら光が差し込みはじめているものの、部屋はまだ暗い。窓の大きさは灯りを取るにも換気をするにも不十分で、半地下にあるレンガむき出しの部屋は狭い上にいつも暗くじめじめとしていた。

 テーブルと椅子が二脚。腐った脚が折れかかっている背の低いタンス。左右の壁際には一つずつ簡素なベッドが備え付けられていて寝具の上だけがレオとニコそれぞれのわずかな私的空間だが、建物の多くが戦争で被害を受け住宅不足にあえぐウィーンで、まっとうな旅券も持たない自分たちが雨風しのげる部屋を見つけただけでも奇跡に等しい。

 部屋の貸し主であるシュルツという老婦人は夫を空襲で亡くしていた。戦場に送り出した二人の息子も東部戦線から戻らず、戦後は一人で暮らしていたのだという。

 オーストリア人の彼女は家族そろって敬虔なクリスチャンで、戦時中は夫と共に密かにユダヤ人を支援する活動をしていた。今もレオとニコの素性を知った上で部屋を格安で貸してくれている。電気も通っていない暗い部屋だけど、と申し訳なさそうに、彼女は失った息子の面影を二人に重ねているようでもあった。

 薄闇に目が馴染むのを待ってからレオは上半身を起こした。ポケットから時計を取り出し、目をすがめて針の位置を確かめる。ちょうど夜が明けはじめる時分だ。

 さっき聞こえたのはドアの閉まる音だったのか、見渡すほどの広さもない部屋の中にニコの姿はない。向かいのベッドの上にはすでにそれだけで夜を越すのが厳しくなりつつある薄いブランケットがきれいに畳んで置いてあった。

 やがてゆっくりとした足音が近づいてきて、大きなやかんを重そうに持ったニコがドアを開ける。

「おはよう兄さん。良かった、ちょうどお湯をもらってきたよ」

 レオは慌ててベッドから立ち上がると、ニコの手からやかんを受け取る。元々小柄な上に痩せ細ったニコにとって、熱湯で満たされた大きなやかんを持って階段を降りるのは楽でない。いや、足を踏み外せば大火傷するであろうことを思えば危険ですらある。

 同じように痩せてはいるものの、それでも背が高く体格で勝るレオはできる限り自分が力仕事を引き受けようと努力をしているのだが、少し目覚めるのが遅れただけでこうしてニコに先んじられてしまう。

 部屋に備え付けられている煮炊きができる小さなストーブには火を入れようにも燃料がない。終戦後も石炭は値上がりを続け、この建物のヒーティングも入居して以来一度も稼働したことはなかった。本格的な冬に入ってからの生活を思うと頭が痛い。

 部屋で火を起こすことのできない二人にとっては朝と晩に大家の部屋まで行き、老婦人がなけなしの薪で沸かした湯をわけてもらうのが精一杯だ。しかも重いやかんを苦労して運んできたところで、いざ熱いお茶を飲み大人二人が順番に体を拭けば、それだけでもうおしまいだ。

 ニコは慣れた手つきでふちの欠けたポットに茶葉を入れ、湯を注いだ。少し待ってから、申し訳程度に色のついた薄いお茶にかろうじて甘さを感じる程度の砂糖を入れる。貧しい二人にはこれが毎日の朝食代わりだった。

 燃料以外についてもウィーンの物資不足は深刻で、戦勝国から食糧支援や経済支援を受けているはずなのに、食料・雑貨を問わず店にはほとんど品物が並んでいない。占領軍や武装警察の取り締まりにも関わらず闇市は盛況だが、売られているものには驚くような値段がつけられていて高嶺の花だ。

「夜になると、ウィーンの森にこっそり木を切りに来る人がいるって、おばさんが言っていたよ」

 茶器と食器を兼ねている茶碗から茶をすすりながら、ニコが言う。

 家族を失った寂しさからか、シュルツ夫人は顔を合わせるたび世間話や思い出話をひとしきり聞かせるまで離してくれない。ときに面倒くさそうな態度を隠しきれなくなるレオと比べて、望ましいタイミングで相づちを打ちながらひたすら話を聞いてやるニコは、彼女にとって理想的な話し相手であるに違いない。

「あの美しいウィーンの森を切り株だらけにする気かって怒ってたよ。それに、どうせ切った木を運ぶには車が必要だから、儲かるのは闇市の売人だけだろうって」

「そりゃそうだろう。石炭を買えない奴が、ガソリンを買えるはずないんだから」

 ガソリン不足の原因はオーストリア東部に集中している製油プラントが軒並みソ連に接収されてしまったせいでもある。かつて豊かなオーストリアを支えた東部だが、食料にしても燃料にしても、今となっては貧しさにあえぐウィーンに何ももたらさない。そこはもはや、世界の西と東を分ける境目以上でも以下でもなかった。

「そうだ。今日はおばさんの手伝いに行ってくるよ。郊外の親戚が畑を持っていて、芋や野菜を分けてくれるんだって。荷物運びを手伝ったら何日かは食事を食べさせてくれるって言うから、僕も一緒に行くことにしたんだ」

 まるで近所にお使いに行くような軽さでニコが話題を変えるのを、レオは聞きとがめた。

「郊外って、遠いのか?」

「そうでもないみたいだけど、おばさん一人で荷物を運ぶのはたいへんだから。腰の具合もあまり良くはなさそうだし」

 ニコはさりげなくレオの質問をはぐらかすが、一緒に暮らすようになってからレオはニコ特有の話法を理解するようになっていた。「そうでもないみたい」というのは要するに、シュルツ夫人の田舎の親戚の畑とやらは「かなり遠い」ということだ。黙ってはいられない。

「だったら俺も行く。ばあさんとおまえの二人になったところで、大差ないだろう」

 いつまでも病人、怪我人扱いされるのにもいい加減嫌気がさしてくる頃合いだ。膝の痛みもほぼなくなった今、自分より遙かにか弱く見える弟に世話をされてばかりなのは面白くない。

 だが、この手の申し出に対するニコの答えはいつだって同じだった。

「駄目だよ。せっかく膝が治ってきたのに、今無理したらまた悪化する」

 膝に負担がかかるから。肺の病気が治って間もないから。何がきっかけで古傷が悪化するかわからないから。口数が多い方ではないくせに、こういうときの屁理屈ばかりは泉のようにとめどない。

「俺を外に出すとろくなことがないって思っているのか?」

「そんなことないよ」

 わかっている。この「そんなことないよ」は「そのとおり」という意味。要するにニコは、レオの生活能力や社会性を一切信用していないということだ。しかしレオはこんなときいつもニコの言葉にごまかされてしまう。

「大丈夫。夕方には戻ってくるし、おばさんが夜は煮込みグラーシュをごちそうしてくれるって言ってたから、兄さんは楽しみに留守番していて。もちろん肉は入ってないだろうけどね」

 子どもに言い含めるような言葉とともに、ニコは笑って見せた。

 ニコの笑い方にはちょっとした特徴がある。少し目を伏せぎみに歯を見ない控えめな笑顔をまるで人見知りの子どものようだと指摘したとき、ニコははにかみ表情を固くして目をそらしてしまった。それ以上恥ずかしがらせるのも可哀想になりレオも口をつぐむことにしたが、本当は、懐かしく安らいだ気持ちにさせてくれるその笑顔がとても好きだと言いたかったのだ。

 最近のニコは以前と比べてよく笑う。物資面や環境面だけを比較すれば、レオにとってここでの暮らしは病院よりも厳しい。にも関わらずドイツにいた頃より口数が増えて明るくなった弟の姿はどことなく奇妙だ。

 そういえばニコはドイツではどんな暮らしをしていたのだろう。ミュンヘン市内から週に何度か面会に通ってきていること以外、ニコがどこでどんな生活をしているのかをレオは知らなかった。いや、質問するたびに言葉をにごされてしまう。

 お茶を飲み終えたニコは立ち上がり、中身の減ったやかんを手にすると「先に使うね」と言ってブリキの桶に湯を注ぐと薄暗い部屋の反対側でこちらに背を向けてしゃがみ込んだ。

 体を拭くときニコはいつもわざわざ物陰に身を隠す。もちろん狭い部屋なので姿が完全に見えなくなるわけではないが、できる限りレオの目線から体を隠そうとしていることは動作から伝わってくる。見るなと言葉ではっきり告げられたわけではないが毎度その調子なので、ニコが服を脱ぐときには自然と目をそらすようになった。

 もしかしたらニコの体にも傷跡があるのかもしれないと、ぼんやりと考える。レオはたくさんの傷が残った痛々しい自分の体をとてもではないが美しいとは思えない。例え弟だろうと、できることなら見せたくないと思う。ニコが裸を隠すのと同様に、いつしかレオもニコに背中を向けて体を拭うようになっていた。

 背を向けて、薄闇の中聞こえてくるのは衣擦れと水の音。音だけを頼りに想像を巡らせるのは奇妙な感覚ではある。

 すぐそばにあるニコの体には、自分の体に刻まれているのと同じような傷があるのだろうか――現実にあるかどうかもわからない傷跡についての妄想が、レオの思い描くニコの狭く真っ白い背中に真新しい傷をつけていく。そこにじんわりと赤い血が滲むのを、レオはなすすべもなく眺める。

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