6. 第1章|1946年・ウィーン

 街に出ると、最初にウィーンにやって来た日のことを思い出す。列車の窓からシェーンブルン宮殿が見えたときに、ようやく自分は本当にウィーンにやってきたのだと実感した。

 越境するための正規の書類を持っていない自分たちが本当に国境を越えられるのかが不安で、列車に乗って以降うとうとすることすらできなかった。しかし、ニコがいくらかの現金とたばこを渡すと国境警備のソ連兵は何も言わず二人を見逃した。ほっとして緊張の糸が切れたレオはそこから眠り込んでしまい、ニコに揺り起こされるとそこはもうウィーンだった。

 ミュンヘンをはじめドイツ方面からの列車は全てウィーン西駅に着くことになっている。到着の少し前に列車が横を駆け抜けるシェーンブルン宮殿は、かつてはハプスブルグ家の人々が夏を過ごした離宮であり、美しい庭と泉はかのナポレオンにも愛されたそうだ。だが、今では空襲に何とか耐えた煤けた建物のかたわらに荒れ果てた庭が横たわっているだけだ。

 ウィーンの中心部は、百年近く前に都市を守っていた壁を取り除いた後に作られた大きな環状道路リンクシュトラーセに囲まれた区域にある。レオとニコが間借りしている部屋は労働者が多く住む南西部にあるので、中心部へ行くには公共交通機関を使うか、一時間近く歩く必要がある。交通費すら持たないレオは、もちろん後者を選んだ

 道端には浮浪者が点々と座り込んで休息している。彼らは凍えないよう夜の間は歩き回り、比較的暖かい昼間にこうして路上で眠るのだ。戦争で家を失ったオーストリア人なのか、戦後のどさくさにウィーンに紛れ混んだ自分と同じ難民なのか、レオには判然としない。

 すれ違うジープは占領軍のものばかり。ソ連兵の姿が多いようだが、よく見ると複数の国の軍服を着た兵士が乗り合わせている車両もある。

 彼らは占領下の市民とは違い、食料や燃料どころか酒、たばこといった嗜好品に困ることすらない。まじめくさった顔で街を監視している者もいるが、楽しそうにたばこをくゆらせガムを噛み、仲間同士で笑い合っている姿を見かけることもあった。歓楽街には彼らを目当てに営業している売春宿が相当数あるとも聞く。

 立場の違いゆえなのか、連合国の軍人に対して羨ましいとか妬ましいとかいった感情は浮かんでこない。何より、窮する人間があふれかえっている街に彼らの監視の目がなければ治安はどこまでも悪化するだろう。

 ちょうどそんなことを考えているときだった。背後から男の怒鳴り声が聞こえた。

「引ったくりだ! 捕まえてくれ」

 声のした方向を振り向くと、大きなカバンを抱えて帽子を目深に被った男が走ってくるところだった。レオは思わず男の進行方向に脚を出す。

 引ったくりらしき男はもののみごとに足を取られ、「うわっ」と叫び声を上げてところどころ石畳の剥げた歩道に顔から勢いよく倒れ込んだ。同時に抱え込んだカバンが彼の手を離れる。レオは男が起き上がろうとしたところに後ろから飛びつき、動けないよう腕を締め上げた。

 少し遅れて叫び声の主が追いついてきた。レオと年端の変わらないそばかすの目立つ若い男で、伸びすぎた栗色の髪を首の後ろで一つにくくってあった。

 彼は肩で息をしながら地面に落ちたカバンを拾い上げようとするが、一瞬早くレオが足を出す。肩掛けカバンの紐をぐっと踏みつけられ、彼はカバンを取り上げることができなくなった。

「おい、足をどけろよ」

 怒りと戸惑い半々の言葉にレオは質問で返す。

「これは本当におまえのものなのか? 引ったくりって言われても、俺は現場を見たわけじゃないからな」

 このご時世、いくら一見被害者らしく振舞っているからといって人の言っていることを素直に信じるわけにはいかない。

「疑う気か? こいつが逃げて俺が追っかけてたんだ。見りゃわかるだろ」

 苛立ったのか、栗毛の彼がレオの胸ぐらにつかみかかろうとしたそのとき、強い力で体を押された。「引ったくり」が渾身の力でレオを突き飛ばしたのだ。若い男に気を取られてそちらへの注意がおろそかになっていたレオの体はぐらりとかしいだ。自由になった「引ったくり」はすぐさま一目散に走り出し、あっという間に角を曲がって見えなくなった。

 栗毛は逃げる男をそれ以上追うこともせず、カバンを取りあげてぱたぱたと土埃を払う。

「いいだろ。ああやって逃げたってことは、あいつが泥棒だった証拠じゃないか」

 さっきの剣幕が嘘のように人懐こい笑顔を見せられれば、そんなものなのかと思えてきて、レオはうなずいた。

「大した値打ちのあるものじゃないけど、俺にとっては命みたいに大切な商売道具だからな。とりあえず礼を言うよ。ああ、名乗るのが遅れたけど俺はハンス。生まれも育ちもここウィーンだ」

 彼は大切そうにカバンを肩にかけると右手を差し出してきた。レオも名乗り、同じように右手を差し出す。レオより小柄なのに、ハンスの手はがっしりと肉厚で力強かった。

「おまえ、ドイツ人か?」

「どうしてそんなことを聞く?」

 質問の意味がわからずレオが問い返すと、ハンスは即答する。

「いや、ドイツ人みたいな話し方をするから」

 ドイツ人とオーストリア人は同じドイツ語を話すが、言い回しや発音には細かな違いがある。記憶を失っているとはいえレオもドイツで生まれ育った人間だ。耳もドイツ人のドイツ語に馴染んでいるせいか、ウィーンの人々の言うことを正確に聞き取るにはちょっとした集中が必要だ。

「半分当たってるな。ドイツで生まれ育った。ただ、戦時中はユダヤ人と呼ばれていたらしい」

 ドイツ、ユダヤ、どちらを出自として話したところで、この国で歓迎されるはずはない。ユダヤ人はヨーロッパにおいて歴史上嫌われ続けた厄介ものだし、ドイツはオーストリアを戦争に巻き込んだ忌むべき存在と見なされている。しかし、ハンスは特に特段の感慨もなさそうに「へえ、そうなんだ」とうなずくだけだった。

「ずいぶん大事そうに持ってるが、何が入ってるんだ?」

 さっきから気になっていたことを訊ねると、ハンスは「商売道具」と繰り返してから帆布製のカバンの蓋を少しだけ開けてみせた。布地の内側は色とりどりに汚れ、中には使いかけの絵の具や筆、紙の束が雑然と詰め込まれている。

「絵描きなのか?」

「まあね。美術アカデミーを修了したけどそれから戦争に行って、復員してからは生活のために細々と絵を描いてる……といってもまあ、主に絵葉書だがな」

「絵葉書? そんなもの、売る場所がないだろう」

 誰もが食うに困っている街で、誰が絵葉書など買い求めるのだろう。率直に思ったままを口に出したが、ハンスの答えはレオの予想を裏切るものだった。

「それが、あるんだよ」

 彼はレオの肩をひっぱり、耳元に口をくっつけるようにしてささやいた。

「占領軍だよ」

 ハンスは、この街に駐留する異国の兵士たちに絵葉書を売っていると言う。

「あいつら、金はうなるほど持ってるだろ。特にアメリカ人やソ連人はここらの風景が珍しいらしくて、国の家族に手紙を書くのや土産にするために、けっこうな需要があるんだよ。たまには頼まれて似顔絵も描く」

 ハンスの言葉にレオは率直に感心した。レオ自身は下働きでも軽作業でも自分を使ってくれる先を探すことしか考えていなかった。だがどんな時代にも何かしらの需要があり、そこに商売は生まれる。ハンスは自らの腕で生きる糧を得る方法を頭を使って生み出しているのだ。まだ出会ったばかりの男にレオは尊敬と好感を抱きはじめていた。

 二人はいつの間にか環状道路リンクの内側に入っていた。まだあちこちに崩れかけた建物が残っている中、とりとめのない話をしながら歩く。仕事を探すという外出の目的を忘れたわけではないが、ウィーンにやってきて以来、ニコと大家の老婦人以外と会話をかわすこともないレオにとって、ハンスとの会話は新鮮だった。

「レオ、ドイツから来たばかりのおまえは見たことないかもしれないが、以前のウィーンは、それは美しかったんだぜ」

 ハンスはそう切り出した。

「美しい建築物がリンクに沿って建ち並んで、夜もあっちこっちに灯りが輝いて、音楽も絵画も、この世の美しくて素晴らしいものを全部集めたような街だったんだ。でも戦争でこんな景色になってしまって、元どおりに復興できるかもわからない」

 自分の暮らす街、誇る街がこんなことになるなんて。それは正直な感想なのだろう。

 一九三八年にドイツ第三帝国に併合された――背後に武力による圧力があったとはいえ、あくまで手続きとしてはなものだった――オーストリアは先の大戦を枢軸国の一角として戦った。

 戦中のウィーンは連合軍の空襲の標的とされ、三千以上の爆弾が投下された。そして終戦直前の一九四五年四月にソ連赤軍がウィーンを包囲し、市街地占領のための攻撃をはじめたのがとどめだった。戦況はどうしようもないほど悪化していたにも関わらずドイツ部隊が徹底抗戦を行ったことが被害をより大きくしたのだ。

「知ってるか? ヒトラーは高射砲を止めるよう指示したんだってさ」

 崩れた町並みに向けた目をすがめてハンスは言う。

「あえて連合軍の爆撃機に反撃せず、ウィーンを壊したんだ。あいつは昔、画家を目指してこの街にやって来て挫折した。きっとヒトラーはこの街を憎んでいたんだ。憧れて憧れて、その反動で死ぬほど憎んでいるウィーンを手に入れて、わざと破壊したに決まってる」

 レオは言葉を返すことができず、黙ってハンスと並んで旧市街を歩いた。ただ、彼がこの街を愛している気持ちだけは痛いほど理解できた。

 結果的に言えばハンスとの出会いはレオにとって幸運だった。レオが仕事を探していることを話すと、知り合いに当たってみると申し出てくれたのだ。

 これまでレオは、店や工場を見つけるたびに飛び込みで仕事がないか聞いてはけんもほろろに断られていた。ハンスに指摘されてはじめて気づいたが、レオのドイツ北部訛りは、オーストリア人の態度をつれなくする理由のひとつだったのかもしれない。

「いいよ、おまえ良い奴そうだし。周囲に聞いてみるから何日か待ってくれ」

 別れ際に連絡先を書いた紙をもらい、今日のレオは意識を取り戻して以来といっていいくらいの晴れやかさで部屋に戻ることができた。

 日が暮れてから戻ってきたニコは、背嚢と肩掛けカバンいっぱいに芋や野菜を詰め込んでいた。もちろん体力で劣るシュルツ夫人も彼女なりに精一杯の荷物を抱えている。重い荷物を持って長い距離を歩いてきた二人は疲れ切っていたが、満足げな顔をしていた。

 老婦人の作った肉なしの薄いグラーシュと、野菜と一緒に農家から分けてもらったという自家製パンで一緒に夕食にした。普段より厚く切り分けられたパンに、ほんの少しだけ具の多いスープは今日だけはお代わりが許された。

「助かったよ。あたし一人じゃこの半分も運べなかったから、ニコのおかげだ。あんたは本当に優しくてよく働くいい子だね」

 ご機嫌なシュルツ夫人はそう言ってニコの柔らかい髪を撫でた。

 彼女がニコの気遣いや勤勉ぶりを褒めることは、普段ならばレオの居心地を悪くさせる。ニコへの称賛の裏に、弟の働きに頼って何もしないレオへの皮肉が含まれていることを百も承知でいるからだ。しかし今日のレオは違った。

 期待を持たせてうまくいかなかったら気まずいので、まだニコにも老婦人にも新しい友人が仕事探しを手伝ってくれることは話していない。ここに来てはじめて自分一人の秘密を持ったこともまた、レオの心に、嬉しいようなくすぐったいような気持ちを呼び起こすのだった。

 隠しごとをするとき、人は饒舌になる。その晩の食卓でレオはいつになくよく喋った。部屋に戻る頃は、まるで酒に酔ったかのように幸せな気分だった。

「ニコ」

 ためらいがちに肩に触れ、名前を呼ぶ。

「何?」

「いや……何でもない」

 仕事を見つければニコは少しは自分を見直すだろうか。兄として頼ってくれるだろうか。レオはその晩、甘美な妄想に耽りながら眠りについた。