7. 第1章|1946年・ウィーン

 三日後にハンスへ電話をかけたところ、病院の掃除夫をやる気はないかと聞かれた。彼の母親が看護婦として働いている病院で、掃除夫の老人が仕事を辞めることになったらしい。

「スイスに移住した息子のとこにいくんだってさ。立ったままの作業が多いから膝が悪いなら少し大変かもしれないが、足腰弱ったじいさんでもなんとかなったんだから大丈夫だろう。なんせおまえは引ったくりを捕まえるくらい元気がある奴だからな。あの身のこなし、まるで軍人みたいだったぜ」

 たった一度顔を合わせただけなのに、ハンスはまるで十年来の友人のような砕けた口調でまくし立てる。もちろんレオはその仕事を受けることを即答した。

 左膝の状態は普段の生活ではほとんど違和感がないほどまで回復していた。仕事は午前十時から午後五時で、業務内容は病棟の床や水回りの掃除、ゴミ捨てといった雑務。決して多くはないが給料は遅れることなくきちんと出るし、レオさえ望めばずっと働き続けることができる。掃除夫というのは平時であれば若い男が喜ぶ仕事ではないが、今のレオには天の恵みだった。

 他にも仕事を欲しがっている奴が周りにいるんじゃないか。公衆電話の前で手持ちの硬貨の残りを気にしながら訊ねると、電話の向こうのハンスは「おまえは俺の商売道具を守ってくれた恩人だから、特別だよ」と笑った。レオはそのとき、生まれて初めて友人を持った気がした。

 以前のレオには友人と呼べる人々がいたのかもしれない。しかし、少なくとも記憶を失って以降は砕けた言葉で親しく話し合うような相手は一人もいなかった。ニコは家族だから別勘定。いや、そもそもニコとの関係には親しさの奥にも微妙な緊張感――薄く張った氷の上を歩くような用心深さがつきまとっていた。

 お互いの傷に触れないように細心の注意を払う生活を、レオは家族愛ゆえの優しさなのだと考えるようにしていた。その一方で、どこか打ち解けきれない兄弟関係に割り切れないものを感じているのもまた事実だった。

 浮かれたレオの心は、しかしその晩にはどん底に突き落とされた。てっきり一緒に喜んでくれると思っていたニコは、仕事が決まったと告げた瞬間ぎょっと目を丸くし、続いて顔を強ばらせた。

「なんで僕に相談もなしに、勝手にそんな大事なこと決めるんだ」

 食ってかかるような物言いは、これまで聞いたことのない激しいものだった。予想だにしなかった反応にレオはまずはあっけにとられた。少し遅れて怒りやもどかしさ、悲しみが入り交じった激しい感情が腹の奥にうずまき、せり上がってくる。

「なんだよその言い方。俺が自分ができる仕事を探して、決めてくることの一体何がいけないんだ。俺は何をするにもおまえの許可を取らなきゃいけないっていうのか?」

 売り言葉に買い言葉というのか、意図したわけではないがニコに負けないくらい激しい調子で言い返す。

「そんなこと言ってるんじゃない。兄さんは病み上がりでまだ足だって――」

 聞き飽きた屁理屈に苛立ったレオは、思わず壁に拳を叩きつけた。

 大きな音にニコははっとしたように押し黙り、拳にじんわり広がった痛みに正気を取り戻したレオの心には「しまった」という苦い思いが広がる。だが、叩きつけた拳をなかったことにはできないし、吐いた唾を飲み込むこともできない。

 乱暴をするつもりはなかった。怖がらせるつもりでもなかった。でも、あふれ出した感情がコントロールできなかった。

 得られなかった祝福。尊重されない意志。世話になっているから、助けてもらっているから、常にニコに感謝してニコの意向に従ってきた。しかし自分はニコの子どもでもなければ愛玩動物でもない。今の自分に何ができて何ができないのかくらいは自ら判断できる大人の男だ。本来ならばニコより体力もあるし、年齢も上で、彼を庇護する立場なのに――。

 ある意味では子どもじみた感情なのかもしれない。レオがニコなしでいられないのは確かな話だし、兄だからというだけで尊重されるべきだという考えはただの傲慢にすぎない。ただ、自分は兄としてもっとちゃんとしたい。ニコに守られるのではなくニコを守れるようになりたいのだ。その思いが空回ることへの焦りと苛立ちがレオの理性を歪ませた。

「ニコ、俺の体のことは、俺が一番よくわかってるから」

 落ち着け、落ち着け、と自分で自分に言い聞かせ、青白い顔でうつむいたニコに諭すように呼びかけた。しかし、恐怖のためか怒りのためかニコは頑なに顔を上げようとしない。口を真一文字に引き結んで、ただじっとつま先を見つめている。

 ずいぶん長い間、根比べのように黙って向き合っていた。最終的に折れたのは珍しくニコだった。震え混じりの小さな声でようやく口を開いたが、発した言葉は「ごめん」でも「わかった」でもなかった。

「ひとつだけ条件がある」

 頑固なニコの、それは最大限の譲歩の言葉だったのかもしれない。

「仕事を紹介してくれたっていう、その人に会わせて」

 思い詰めたような顔でそう言われて、大声を出した引け目もありレオは断ることができなかった。後ろめたいことはないのだから断る理由も思い浮かばなかった。

 弟が会いたがっているとハンスに話すと、むしろ喜ぶような反応が返ってきた。レオが仕事をはじめることが歓迎されていないという情報は伝えたにも関わらず、上機嫌のハンスはぜひ二人で自分の部屋を訪れるよう勧めた。訪問日は次の日曜日。ニコの仕事がない日に決まった。

 中心部から少し離れた場所にあるハンスの下宿は部屋が地上にある分レオやニコの部屋よりはましだが狭さと寒さは似たようなもので、清潔さに至ってはひどいものだった。ただ、最後の点については部屋自体の問題というよりは、ハンス自身に由来すると言っていいだろう。

「わざわざ来てくれてどうも。とりあえずそこのベッドにでも腰掛けてくれ。悪いが椅子は一つしかないんだ。大丈夫、南京虫はいないから」

 歓迎するならこの部屋はもう少しどうにかならなかったのか、とレオは内心毒づく。狭い床は画材や紙、勉強用とおぼしき画集や写真集で埋まって足の踏み場もなく、獣道のような隙間を通らなければベッドにたどり着くことすらできない。唯一の窓の近くにイーゼルと向かい合いに椅子が置かれていて、ハンスはそこにふんぞり返っている。壁際のテーブルには何に使うかわからない石の板に、一見して重そうなローラー。

「ああ、それリトグラフの道具。版画。わかる?」

 机に向けられたレオの怪訝な視線に気づいたハンスは、床に散らばった絵を指し示す。精密な筆致のそれは、廃墟となったウィーンの街を描いた版画だった。

「昔のウィーンは色もたくさん使って華やかなのが似合うけど、今の姿はそういう風にしか描けないな」

 国立オペラ劇場、シュテファン大聖堂。壊れかけたランドマークはどれもうら寂しさを感じるモノクロで描かれている。一方でそれに混じってところどころに、暖かい色合いでかつてのウィーンを描いた水彩画も散らばっていた。

「さて、ようこそ我がアトリエへ。レオ、その小さいのが話に聞いてる弟か? 頼み込むほど俺に会いたがってたっていうその子を早く紹介してくれよ」

 ハンスの口ぶりは決して悪意を含んだものではなかったが、からかうような軽い響きが冗談の通じない潔癖な弟の感情を逆なでするであろうことは容易に想像できた。レオは極力雰囲気を悪くしないよう、必要以上の笑顔を浮かべて口を開く。

「ハンス、こいつが俺の弟、ニコだ。仕事を紹介してもらったって聞いて、どうしても直接礼を言いたいんだって」

 促されてニコはぺこりと頭を下げる。しかしその目は笑っていない。

「はじめまして。兄がお世話になってます」

「あんまり似てねえな」

 ハンスは並んで座る二人をまじまじと見比べ、本日ひとつ目の地雷を炸裂させる。長身のレオと小柄なニコ。髪の色も目の色も違っている。外見がまったく似ていないのは承知しているが他人に指摘されて気分の良いことでもない。

「アーリア系やスラブ系が入っているから、血の出方にむらがあるだけです。ユダヤ人には珍しくないことですよ」

 ニコの刺々しい答えに、胃がぎゅっと締め付けられる。まったくわけがわからないが、弟は初めて対面する兄の新しい友人に激しい警戒心と敵対心を抱いているのだ。

 子どもや老人には優しいものの、普段のニコは内気ではにかみ屋で決して愛嬌のある方ではない。だが、それにしてもミュンヘン時代に病院で出会った人たちにこんな態度をとったことはなかった。目を覚ました日にレオがニコに抱いた第一印象は「緊張した人見知りの猫」だったが、今のニコはいうなれば全身の毛を逆立てて威嚇している状態。たちの悪いことに、ハンスもそれをわかった上で面白がっている。

「ニコ。俺が兄貴に仕事紹介したのが、そんなに気に入らない?」

 あくまで笑顔を崩さないハンスの指摘に、ニコは顔を赤らめた。

「いえ、ただ兄はまだ療養を終えたばかりで体も本調子じゃないんです……仕事なんて……」

「だったらなぜウィーンに来たんだ」

 図星をついたことに気を良くしたのか、ハンスはさらに畳みかける。

「ドイツにいたくないって気持ちはわからなくもないが、わざわざ手厚い支援を受けられる場所から知り合いもいない外国にやってきて、弟は兄貴を部屋に閉じ込めてるし、兄貴は弟の顔色伺ってびくついてるし」

 ニコの体にぐっと力がこもる。激しい動揺をなんとか抑えようとしているのがわかった。

「おいハンス、言い過ぎだ。ニコ、気にするなこいつは……」

 兄弟関係の不自然さを指摘されているというのはイコール自分のことも悪く言われているのだが、今のレオにとってそれは些細なことだ。このままニコが泣き出してしまうのではないか、もしくはハンスに殴りかかってしまうのではないか心配になる。落ち着かせようと伸ばした手は思い切り振り払われた。そのままの勢いで弾かれたようにニコは立ち上がる。

「僕はっ」

 その声は上ずっていた。これは人が泣くのを我慢しているときの声だとレオは本能的に感じた。

「僕は、兄を閉じ込めているつもりなんかはなくて、仕事に出られるのが嫌なわけでもなくて。でも、ただ。ただ――」

 ニコは紅潮した顔を上げ、力の限りといった雰囲気でハンスを睨みつけた。

「あなたみたいな失礼な人と友達になるのは、どうかと思うだけです」

 そのまま床の絵を踏みつけにして部屋を走り出ていったニコの姿が見えなくなった瞬間、ハンスは思いきり吹き出した。そしてひとしきり笑ってから涙のにじむ目尻を抑えて口を開いた。

「おい、レオ。可愛いじゃないかお前の弟。いい年してお兄ちゃん取られそうだって拗ねてるんじゃないのか? 俺、気に入っちゃったよ」

 その言葉にレオはむっとした。ハンスは決してニコが言うような悪い人間ではないが、言動が軽すぎるのは間違いない。それは人との距離を詰める最高のツールであると同時に、不器用な人間を傷つける残酷な武器にもなる。

「言い過ぎだ。あいつは俺の体調を心配しているだけなのに、からかうにしたってあまりに不謹慎だ」

 渋い顔で苦言を呈すと、ハンスは「いやでも、あんまりに素直な反応するもんだから、ついさ」と腹を抱えて笑い、レオの気分をさらに害した。

 立ち去りたい気持ちになりつつ「弟の顔色ばかり気にしている兄」という指摘を気にするレオは、すぐにニコを追うことができない。ハンスには悪気がないことも、彼の指摘が正論であることもわかっている。ここで自分までも腹を立てるのはきっと、おとなげない。

「あいつ頑固だし、怒ると怖いんだ。おまえはそうやってからかっていればいいけど、帰ってから同じ部屋ですごす俺の気持ちもちょっとは考えてくれ」

「悪い悪い。でも、ちょっと腹割って話せば、仲良くなれる気がするんだけどなあ」

 今日はきっと部屋に戻ってからもニコには口をきいてもらえないだろう。深いため息をつくレオを前に、新しい友人はどこまでも脳天気だった。

 ハンスの部屋を出る頃には、弱い雨が降っていた。

 傘など持っていないので広げたコートで体を守りできるだけ濡れないように歩く。いつの間に降り出したのか、まったく気づかなかった。もしかしたらニコも雨の中ひとり歩いて帰ったのだろうか。ハンスに意地悪くからかわれて飛び出して、濡れながら家まで歩くニコを思い浮かべるだけで心が痛む。例えどれだけ冷たい態度を取られたとしても今日のことはひたすら謝ろうと決めてレオは家路を急いだ。

 おそるおそる戻った部屋は真っ暗だった。日の短い季節、この時間ならランプかろうそくを灯しているはずだが部屋は闇に沈み物音一つしない。何かが奇妙だった。

「ニコ? いないのか?」

 声をかけるが返事はない。暗がりのなかゆっくりと足を進め、レオはびくりとして立ち止まる。ニコのベッドの上にこんもりとした塊がある。弟は部屋を真っ暗にしたままベッドの中、頭から爪先まで毛布をかぶって丸くなっているのだった。

「ただいま、今日はすまなかった。あれはハンスが言い過ぎだ。あいつは悪い奴じゃないんだが、どうにも口が滑りすぎるというか……」

 帰りの道すがら心の中で何度もリハーサルを繰り返した言い訳を紡ぐが一切反応がない。よっぽど怒っているのだろうか。そっとしておいた方がいいかしばし悩み、しかし何かがおかしい。そして静かな部屋の中でレオはふと気づく。毛布の塊から浅く短い息遣いが聞こえる。

「ニコ?」

 手を伸ばし、頭側から毛布を少しだけめくってみた。ふて寝しているのならば抵抗されるところだが、驚くほど手応えなしに茶色い髪がのぞく。

 体を精一杯丸めてぎゅっと目を閉じたニコは、毛布を剥がされたことにもレオの存在にも気づかない様子で、はあはあと荒い呼吸を繰り返していた。激しく震える体に触れると、汗で湿った体はまるで火がついたかのように熱かった。

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