8. 第1章|1946年・ウィーン

「ニコ? おいニコ、しっかりしろ」

 熱を帯びた体からは完全に力が抜けている。抱きかかえようとするが、か細い上体は意外なほどずっしりと重く感じられた。

 名前を呼びながら軽い力で何度か頰を叩くとうっすらと両目が開き、充血してうるんだ瞳がかろうじてレオの顔に焦点を合わせる。薄く開かれた唇から熱い息がこぼれてレオの手をくすぐるが、そこから言葉が発せられることはない。

 おそらくは冷たい雨に打たれたことによる発熱だろうが、体力が低下しているときにはちょっとした風邪ですら命取りになる。

「ちょっと待ってろ」

 レオはニコの体を再びゆっくりとベッドに横たえると、自分の寝台に置いてある毛布も重ねてやった。それから部屋を出て階段を駆け上がる。どこからか雨漏りしているのか、もどかしさでもつれそうになる足下から水が跳ねた。

 シュルツ夫人の部屋のドアを叩くが反応がない。焦ってしつこくノックしているうちに、彼女が今日は親戚の見舞いに行くついでに泊まってくるかもしれないと言っていたことを思い出す。今夜はお湯を沸かしてあげられなくてごめんなさい、そう言われたときはまさかこんなことになるとは思ってもみなかった。

 湯もない薬もない。苛立ちながら部屋に戻り、せめて脱水症状を起こさないようにとニコに水だけでも飲ませてやる。

「悪い、ばあさんが留守で。医者か……せめてアスピリンでもあればいいんだが」

 そのときレオの頭に浮かんだのはさっきまで一緒にいた新しい友人のことだった。ウィーン育ちのハンスなら支払いを猶予してくれるような医者を知っているかもしれない。今すぐ支払いが必要だと言われればクラウスからもらった金時計を渡したっていい。ハンスは家にいるだろうか。公衆電話まで走ればすぐに確かめることはできる。

「ニコ、ちょっとだけ待っていてくれ。医者を――」

 しかし、ニコはレオの腕を意外なほど強い力で握りしめると首を左右に振った。

「いらない」

 か弱い言葉とは不似合いなくらい、その眼差しは真剣だった。

「大丈夫。すぐに治るから、何もいらない」

 強い力でしがみついたままニコはレオに「ここにいて」と訴えた。あまりの必死さにレオはニコを残して出かけることがおそろしくなる。とりあえずブランケット以外にも、上着類など少しでも体を温める役に立ちそうなもの何もかもを被せてやった。

 ニコは、浅い眠りと覚醒の間をずっと漂っているようだった。体温調節機能がおかしくなっているようで、「熱い」と言って滝のような汗をかいていたかと思えば、急に「寒い」と言ってがたがたと震えだした。額に濡れた布を当ててやる以外に何もしてやれず、ベッドの脇に置いた椅子に座りレオはただどうしようもない気持ちでニコを見ていた。

 まるで正反対だな、と思う。以前レオが病院で意識を取り戻したとき、ニコは思い詰めたような顔でベッド脇に座っていた。あの時のニコは今の自分のように、ただ見守ることしかできない不安と無力感に耐えていたのだろうか。いや、あの時のレオは生きるか死ぬかわからない状態で一ヶ月も眠っていたのだから、ニコはもっと怖かったに違いない。想像すると胸が痛んだ。

 汗で額に張り付いた髪をそっと指できながら戯れに持ち上げてみると、あらわになった寝顔はまるで子どものようだった。苦しさに波があるのか、ぎゅっと眉間に皺を寄せていたかと思えば、ふいに表情が和らぐ。薄く開いた口からわずかに舌をのぞかせたかと思えば、今度は唇を真一文字に引き結ぶ。テーブルに置いたアセチレンランプの揺れる灯りに照らされたニコの顔はいくら眺めても飽きることがなかった。

 ――子どもっぽいのは当然だ。

 時代と環境が彼に大人びることを強いただけで、よくよく考えればニコは平時であればまだ学生であっておかしくない年齢なのだ。多少頑固だったりわがままだったり、ふいに理不尽なことを言って食ってかかってくるようなことも、本来ならもっと頻繁にあってもおかしくないことだ。例えば今日の昼間のハンスへの態度だって。

 ニコの感情の揺らぎをもっときちんと受け止めてやらなければならないと頭ではわかっている。ただ、それはレオにとってひどく難しいことでもある。ハンスは「変だ」と言ったが、自分たちの兄弟関係がいびつであることくらい指摘される前から認識している。たった二人だけの家族であることを差し引いても奇妙な関係であることは否定できないが、それも複雑な状況ゆえのことだ。

 家族という概念で繋がった他人――レオとニコの関係は率直に言えば、そういうことになる。

 レオは以前のニコを知らない。逆に、過去の兄を知るニコにとって記憶をなくした今のレオは他人のように思えることもあるのではないか。もちろん情はあるが、それが本当に兄弟の親しさから生まれるものなのかレオは自信を持つことができない。しかし、二人きり生き残った家族という建前はそんな率直な心情を吐露することを許さないのだ。

 だって、こんな風にニコの顔をしっかり眺めることも一度としてなかった。家族として当たり前なはずのスキンシップだって。そういえば、自分はさっき初めてニコを抱きしめてその頰に、髪に触れた。

 レオは誘われるように手を伸ばし、確かめるようにニコの顔に触れる。丸い額や、ぽわぽわと薄く柔らかい眉毛が顔を幼く見せている。小さく形の良い鼻。薄い唇。痩せて肉の薄い頬は、今は発熱のせいで紅潮している。

「……い……」

 ニコがふいに口を開いたので、まるでいたずらを見つかった子どものようにレオはあわてて手を引く。

「どうした? ニコ、苦しいのか?」

「寒い……、寒いよ」

 慌ててブランケットをめくり体に触れてみるとひんやりしている。そこでレオは、焦った自分がニコを着替えさせることすら忘れていたことにいまさらながら気づいた。大量にかいた汗でシャツがじっとりと湿り、それが寒さの原因になっているのだろう。

 レオは立ち上がりニコの着替えを探すが、一着しかない寝間着はちょうど今朝洗い、しかも外に干したまま雨に降られてしまった。何か代わりになるものはないかと考え、自分の引き出しに乾いた替えのシャツがあることを思い出す。濡れたものを着たままでいるよりはその方がいくらかましだろう。

 シャツを取り出し、ニコのベッドに腰掛けると再び上体を抱き上げる。湯があれば体を拭き清めてやるところだが今は叶わない。脱がせた服で体を拭い、新しいシャツを着せるくらいが関の山だ。ボタンに手をかけるとニコはわずかに抵抗する動きを見せたが、「着替えた方がいい」と声をかけるとおとなしく従った。

 上から順番にボタンを外すと真っ白い胸元が露わになっていく。それを見るとなぜだかレオの指先は震え、ボタンを外すだけのことにやたら手間取ってしまう。ようやく全てのボタンを外し終え、体を横向かせながら両方の腕から袖を抜くと、ニコの上半身は裸になった。

 レオはずっと、ニコが頑なに体を隠すのは傷跡のせいなのだろうと思い込んでいたが、目の前でランプの灯りに淡く照らし出されているのは自分の傷だらけの醜い体とは違う、ただ一か所を除けば傷ひとつない白い肌だった。その一か所とは、左の前腕部。レオの腕にあるものと彫られた番号自体は異なるが、ニコの腕にも強制収容所の管理番号を記した刺青がはっきりと残っていた。胸が痛んで、レオは祈るような気持ちでそこにそっと口付けた。

 ニコが見られることを嫌っている体を、彼が意識を失っている間に勝手に見て触っていることには背徳心を煽られる。真っ白い肌に、左右の胸元の慎ましい赤らみ。率直にそれを美しいと感じる一方で、骨が浮きそうなほどの体の薄さは痛ましい。思わずごくりと唾を飲み込んだ自分にこれは一体どういう感情なのかと動揺し、慌ててニコに準備した着替えをまとわせた。

 ベルトを外してズボンを足から引き抜き、下着をどうするか躊躇ちゅうちょしたが、それもまた汗でじっとり濡れていることを確かめ脱がせることに決める。ごめんただ着替えさせるだけだから、と心の中で弟に謝りながら、結局レオはそこを見た。髪と同じ色の淡い茂みの中でくったりと力を失っている性器には、やはり割礼の跡はなかった。

 新しい下着を履かせ、替えのズボンはないのでそのまま再びニコの体を横たわらせる。上からブランケットや上着を元どおり掛けてやるが、やがてレオの方が耐えがたい寒さに震えだした。何しろ暖を取れそうなものは全てニコに被せてしまって、冬の地下室でレオはシャツにズボンだけで座っているのだ。夜が更けるにつれて寒さが我慢ならなくなるのも当然のことだった。

 まずいな、と思う。下手をするとこちらまで風邪を引いて共倒れだ。ニコが普段から心配しているように、レオは結核から回復してまだ数ヶ月しか経っていない。結核菌は消えているものの肺は弱っているので風邪には気をつけるように言われていた。

 ニコの上掛けを少しだけ拝借するか、それとも――。

 少し、いや、かなりためらった上で、レオは眠るニコに「ごめん」と一言謝った。そして、靴を脱いでニコの眠るベッドの片側に体を滑り込ませると、狭いベッドからニコが落ちないよう壁に接していない側にレオが体を横たえた。