9. 第1章|1946年・ウィーン

 いくら痩せているとはいえ大の男二人で眠るにはベッドが小さすぎ、仰向けになることも距離を取ることも難しい。壁に顔を向けるように横向きにしたニコの体に、レオが後ろから寄り添う体勢になる。

 昼間のことをまだ引きずっているであろうニコが目を覚ましたら怒るだろうか。勝手に着替えさせて、勝手に同じ布団に潜り込んでしまった。不安要素はいろいろとあるはずなのになぜだか心は安らいでいた。緊急時だからしかたなかった、というエクスキューズが準備されていることはもちろんだが、何よりレオは心のどこかでこの状況を喜んでいる。

 普段はレオを頼ろうとしないニコが、ただ無力に腕の中にいる。年相応、もしかしたらそれ以上に幼い表情を存分に眺めて、いつもは頑なに隠された場所に触れて抱きしめて眠る。相手の病気につけこんでいる以上この感情が下衆げすで悪趣味であるのは百も承知だが、普段押し殺しているプライドや庇護欲が満たされるというのはこういうことなのかもしれない。

 ――よく言えば、人間らしくなってきたのかな。

 目覚めてからずっと頭の奥に常にもやがかかっているようで、自分自身の感情すら遠かった。何もかもが人ごとに思え、外側から世界をただ眺める傍観者だった。自分自身が戦争でひどい目にあったのだと聞かされても怒りは湧かなかったし、ニコ以外の家族をすべて失ったのだと聞かされても悲しみは遠い虚空に漂っていた。そんな自分をまるで機械のようだと思うこともあったが、ここ最近を振り返れば少しずつ回復しはじめているのかもしれないと思える。

 焦りや怒りや悲しみといった感情、そしてそれを思うようにセーブできない人間らしさまでも、病院を出て以来レオの中でどんどん大きくなってきている。

 だが、生々しい心の動きは新鮮ではある一方で厄介でもある。本当の自分は一体どんな人間なのだろうか。比較的冷静で物静かで、理性的な人間だと自負してきたが、ここのところの自分の変化を見ていると、実はそうではないのではないかという気もする。

 弟が他人に贈り物をもらっただけで嫉妬する。引ったくりの男をためらわず押さえつける。怒りにまかせて壁を殴りつける。ときどき現れる自分は、感情のコントロールのきかないひどく暴力的な人間であるようにも思える。

 取り戻そうとしているのは本当に元の自分なのか。たとえそうだったとして、元の自分は本当に取り戻すにふさわしい人間なんだろうか。言い方は悪いが、感情を麻痺させたままぼんやり生きている方がずっとまし、というような邪悪な人間だってこの世にはいくらだっている。そして、自分がそういう人間でないという保証はどこにもない。

「う……」

 ニコが小さくうめいて身じろぎしたのにはっとして、不毛で恐ろしい思考から一旦解放される。

「どうした?」

 呼びかけるが返事はない。ただの寝言だった。後ろから寄り添っているので表情は見えないが、声色からしてひどく苦しんでいるわけでもなさそうだ。ニコがすぐにまた規則正しい寝息を立てはじめたことにレオはほっとする。やはり衣類を着替えさせたのが良かったのかもしれない。

 ニコの身じろぎに合わせて姿勢を変えようとすると、自分の背中がベッドから押し出される。バランスを崩しそうになり慌てて上体を前側に押しやると胸や腹がニコの背中に密着した。さすがにくっつきすぎだと思うが、触れ合った部分がじんわりと温かくなり、無理やり距離を取ろうとするよりこの方が楽な気がする。

 自分もニコも、この方が温かいのであれば。体が完全に温まるまでの間だけであれば。ほとんど言い訳のような言葉をひとりごち、レオは自分の行為を正当化した。

 体をずらして後ろからニコの体にぴったりとくっつけると、腕を伸ばして細い体をそのまま自分の胸に抱きすくめる。熟睡しているニコはされるがままだ。

 ほんのり湿った体を腕の中に収めることには妙な安心感がある。お気に入りの人形を抱いて寝る子どもはこういう気分なのかもしれない。レオは目を閉じて、細い体の形を全身で確かめてみた。それだけでは足りず、きれいな曲線を描く後頭部に顔を埋めてみる。乱雑に切られた髪は汗でしっとりと湿り、柔らかく鼻先をくすぐってくる感覚には妙な甘ったるさが漂った。

 少しずつ理性が溶かされていくような、何かが擦り切れていく危うい感覚は「親愛の情」の言い訳の元に見過ごされてしまう。レオはニコを腕の中に抱きすくめ、柔らかい髪に顔を埋めたまま眠りに落ちた。

 そしてレオは夢を見た。

 それはいつも見るミュンヘンの夢とは違っていた。なんの夢だかはわからないが、蕩けるように幸せで胸を切り裂くように苦しかった。その感覚が消えてしまった後もとろとろした眠りの中をたゆたっていると、体の奥にくすぶるような熱が集まり始める。腹の奥で渦巻く切実な温度は、厄介で懐かしいものだった。

 それが弟だという認識はあったかもしれないし、なかったかもしれない。うとうとしたまま、本能に近い動きで腕の中の体をぐっと抱きしめる。抵抗はない。顔を少しずらすと柔らかい髪から離れた鼻先が華奢なうなじへと滑る。薄い汗の匂いに誘われるように、そこにぐっと鼻先を、唇を押しつけた。

 回した腕に力を込めると手のひらに触れるシャツの布地が邪魔で思わず合わせ目から内側に手を忍ばせた。薄く滑らかな腹を手のひらでゆるゆると撫でながら首筋にまで唇を這わせる。意識は戻りきっていないのに体は慣れた動きで先に進もうとする。しばらく腹を撫で回した手のひらを少しずつ上にずらしながら、むずむずする腰から熱を逃がすように思わず目の前の固い体にそこを押し付けた。

「ん……」

 唇で耳たぶを挟むと、眠る弟はあえかな吐息を漏らした。強く、弱く、強弱をつけて唇で耳たぶをむような動きをすると、腕の中の体はくすぐったそうに身じろぐ。

 そこではっと意識を取り戻した。

 具合が悪い弟を抱きしめて眠っていたはずが、一体自分は何をしているんだ。心臓が早鐘のように鳴り始め、慌ててニコの体に回した手を離そうとする。すると、ずらした右の手のひらに小さく慎ましい粒が触れた。

「……あっ」

 小さな喘ぎが耳を刺激して、それはまるで悪魔のささやきのようだった。

 レオは少しの間そのままの姿勢で固まっていたが、おそるおそるもう一度ニコが甘い声を上げた場所に触れてみる。今度は少しだけ強く。指の腹で押しつぶすように刺激してやると、それはすぐに固くこごって存在感を伝えてくる。反対側も同じようにしてやってから今度は二本の指先でゆっくり揉みしだいた。

 長らく性欲そのものを感じることがなく、てっきり記憶をなくしたと同時にそういった欲を司る場所も死んでしまっていたのだと思っていた。一部屋に何人もが寝起きする病院もニコと二人で暮らすこの部屋も性欲処理にはこの上なく不便で、欲望がないのはむしろ歓迎すべきことだった。なのに、まさかこんなタイミングで。腕の中に人肌があるというただそれだけで、こんな風になってしまうとは予想もしていなかった。

 ニコが目を覚ましたらどうしよう。今手を離せばまだ間に合う。理性がそう主張する一方で、ニコの体の素直な反応はレオの心に残る良識を覆い隠してしまう。腰がひどく重苦しい。意識を取り戻して以降、レオは初めて勃起していた。

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