12. 第1章|1946年・ウィーン

 意外にも、というわけでもないがニコはシュルツ夫人の申し出をあっさりと受け入れた。おおかた彼女はひとりで過ごした昨年のクリスマスがどれだけ寂しかったかについてニコに何度も話し聞かせていたのだろう。とはいえ誘いを受けたのは義理立てのためだけというわけでもないのか、クリスマスか、とつぶやくニコはどこか嬉しそうでもある。

 実のところレオ自身も信仰心はないにも関わらず、冬の空気が華やぎ人々の心が浮き立つこの季節をどことなく好ましく感じている。これはもう、記憶や感情を抜きに深く染みついたものなのかもしれない。

「うちのクリスマスは、どんなだったんだ?」

「どうって……普通だけど。アドヴェントがはじまる頃に父さんがツリーの木を持って帰ってきて、みんなで飾り付けをするんだ」

 ニコの機嫌が良いのに乗じてきいてみた。過去の話を持ち出すときにありがちなつれない反応を覚悟したが、今日のニコは違う。

「イブの断食が嫌でしかたなかったけど、クリスマス当日にはミサに行って母さん特製のローストにシュトレン、レープクーヘンも楽しみだったな。プレゼントのためにクリスマス前はとりわけお行儀よくしてさ」

 夢見るようにうっとりと話す姿は幸せそうだ。この瞬間ニコの心には亡くなった両親と妹のレーナ、そしてまだ少年だったレオの姿が浮かんでいるのだろうか。ごく普通の家族のごく普通のクリスマスも、失ってしまえばかけがえない特別なものとして振り返られる。

 幸せそうなニコを見ているうちにレオは、久しぶりに過去を思い出したいという切実な欲求に襲われる。写真の一枚も残っていない亡き両親と妹の顔。幼い頃のニコはどんな子どもで、同じく幼かった自分となにをして遊びどんな会話を交わしていたのか。

 家族の風景をニコと一緒に懐かしむことができないのは不幸でしかない。しかし、せっかくの和やかな空気を壊す気にはなれず、レオは自分の記憶について話すことは思いとどまった。

 代わりにひとつ、ニコにクリスマスについての提案をした。それは、普段の感謝の気持ちも込めて、小さな物でも良いからシュルツ夫人に何かクリスマスの贈り物を準備しないかというものだった。家賃を払って住まわせてもらっている大家と店子の関係ではあるが、作りすぎた料理を分けてくれたり、ほつれた洋服を繕ってくれたり、二人の生活は彼女なりでは成り立たない。高いところの物を取るとか、重い物を運ぶとか、ひとりで暮らす老女が不便するであろう雑事を手伝い出来る限りのことはしているつもりだが、それでも与えられた恩を返せている気はしない。

 決して楽ではないが、レオの稼ぎもあるのでウィーンにやってきた当初と比べれば生活は確実に改善しつつあった。彼女のためにささやかな贈り物を買うくらいの余裕はあるだろう。

 レオの提案はニコを喜ばせた。暖かい毛糸の帽子や手袋はどうか。いや、好物だが今はなかなか手に入らないと言っていたすみれの砂糖漬けはどうか。そういえば部屋履きが少し古くなってきているんじゃないか。相手の顔を思い浮かべながら贈り物を選ぶのは楽しい作業で、珍しく会話も弾んだ。

 亡くした家族の話をするよりも、今周囲にいる人間を喜ばせる話をする方がずっと楽しい。と同時にそれが罪深い考えだと自覚している。死んでしまった人間は唯一、生き残った人間の記憶の中でのみ存在し続けることができる。にも関わらず、レオは亡くした家族にそのような場所すら提供できていないのだ。

 クリスマスまであと一週間と迫った日、老婦人へのプレゼントを一緒に選ぶため仕事を終えたレオはニコと待ち合わせた。

 二人で出かけることはあまりないので、レオは朝からそわそわしていた。病院で会話を交わすようになったハンスの母親からは浮き足立つ姿を見とがめられ、「どうしたの、女の子とデートでもするの」とからかわれた。まさかただ弟と買い物に行くだけだとも言えず、レオは曖昧にうなずいてごまかす。

 病院からトラムに乗って窓の外を眺めていると、やがて大きな観覧車が見えてくる。市街地の東側、プラーター公園にある遊園地の観覧車は前々からハンスに「一度は見に行くべきだ」と言われていたウィーンを代表するランドマークだ。もちろんこれも空襲の被害を完全に免れたわけではないが、ゴンドラの数を減らして今も動き続けているようだ。

 待ち合わせまでに少し時間があったので気まぐれに観に来たものの思っていたような華やかなものではなく、暗闇に浮かび上がる巨大な遊具は近づくにつれてむしろ寒々しさを漂わせている。それとも明るく人の多い時間帯に見れば印象が異なるものだろうか。周囲のレオポルトシュタットはかつてはユダヤ人が多く暮らす地域だったと聞く。

 少し時間をつぶしてから旧市街でニコと落ち合った。クリスマス前らしく街は思った以上に賑わっている。もはやどれが合法でどれが闇かすらわからないが、道路のあちこちにクリスマスにちなんだ物を売る店が立っている。二人は肩を並べて露天を見て回り、やがて暖かそうな毛糸の帽子を買い求めた。落ち着いた暖色の毛糸で編まれたそれは、ほとんど白くなったブロンドの髪を持つ彼女にはとても似合うだろう。

 この季節、浮かれて歩くのは市民だけでなく、ところどころに軍服を着たままの軍人の姿も見える。彼らはときに酒の瓶を手に持ち、ときに腕に女性を抱いている。相手を連れていなくても、路地には彼ら相手に商売しようとする女たちが獲物を狙う肉食獣のような目でうろついていた。

 街は混沌として、健全さと不健全さが境目なく入り交じっていた。人混みの中を通り抜けるとき、不意に不安に襲われたレオは思わずニコの手を引こうとする。しかし、指先が触れれば苦い過去が蘇り結局は手を引っ込めてしまうのだった。

 帰り道、喧噪を過ぎてちょうど教会の前を通り過ぎたときのことだった。

「いいから、ついてこい」

 野太く激しい声色は男のもので、目を向けると体格の良い大人の男が子どもの手を引きながら気色ばんでいた。レオとニコは何事かと顔を見合わせる。

「嫌だ父さん。離して。許して」

 手を引かれているのは、年の頃は十四、五歳くらいの少年だ。声を振り絞り、父親に必死で許しを乞いながらつかまれた腕を振りほどこうとしている。しかし子どもの力でがっしりとたくましい父親から逃れることはできず、結局はずるずると道を引きずられていく。

「いいから来い、ラインハルト。今すぐ神様に懺悔するんだ」

 低い声で父親は言う。どうやら息子を連れて行こうとしている先は教会であるらしい。

 しつけの方法は家庭それぞれで、道行く他人がおいそれと口を出すようなことではない。しかしニコは親子連れを横目でちらりと見ては、レオに何か言いたげな視線を送ってくる。彼らを放っておいて良いか迷っているのだ。

 レオもまた同様に逡巡しゅんじゅんしていた。子を叱るのは時に必要だとしても、この父親はあまりに取り乱しているように見えた。興奮のままに折檻せっかんでも加えようものなら――この人並み以上の大男の前に、少年は無傷ではすまないだろう。

 ひときわ強い力で引っ張られ、ラインハルトと呼ばれた少年はつまずき、つんのめって転ぶ。小さな悲鳴を聞いても父親が力を緩めないものだから、膝をついたままの体がずるずると石畳を擦った。

「あの」と先に声を上げたのはニコだった。怪訝な顔で立ち止まった男が振り向く。少年は怯えたように歩道にうずくまったままだ。

「何だ」

「あの、その子は」

 おずおずとニコは切り出すが、言葉をさえぎるように男は脅迫的な低い声を出した。

「こいつは俺の息子だが。何か用が?」

 男の態度はすでに敵意と警戒心に満ちていて、レオは厄介なことになったと冷や汗をかく。正義感の高い弟の腕を引いて止めるか一瞬迷うが、結局は一歩踏み出し、もしもに備えてニコの隣に寄り添うにとどめた。ここで止めに入ったところでニコが引くはずないというのも理由のひとつだが、レオ自身も公衆の面前で臆面もなく子どもを怒鳴り、引きずり回す父親に憤りを感じていた。

「おい。俺が、自分のせがれにしつけするのに、文句あるのか」

 黙ったままの二人に向かってゆっくりと、さっき以上に強迫的な声色を作って男はにじり寄る。しかしニコは動じない。

「いえ、文句なんて言うつもりはありません。ただ」

 怯えることもひるむことなく、冷静に男に話しかける。

「反省を促すにしたって、こんなに急かさなくても。第一、懺悔に連れて行くには時間が遅いでしょう」

 自分よりはるかに年の若い相手に諌められたことに気を悪くしたのか、男の怒りは激しくなるばかりだ。しゃがみこんだ息子の上腕部を丸太のような腕でつかむと、ぐっと引きあげた。

「ばかばかしい、ガキがガキのしつけに口出しだなんて」

 強い力に引っ張られた少年はよろめきながら立ち上がった。ようやくはっきりと顔が視界に入ると、すでに数発殴られているのか片方の頬は痛ましく腫れ上がっていた。しかし少年の頬に涙の跡はなく、意志の強そうな青い目はじっとレオとニコを見つめた。

 さすがに黙ってはいられない。レオは更に一歩踏み出し、かばうようにニコの前に出た。できるだけ低姿勢に男に話しかける。

「弟が出過ぎたことを言ってすみません。悪気はないんです。ただ、もう夜も遅いですし、いくらクリスマス前でもこの時間には神父さんもいないでしょう。一晩待って、告解なら明日ゆっくり聞いてもらってはどうでしょう」

 カトリックの教会には通常罪を告白するための小部屋があり、信徒の告解を受け入れている。とはいえ忙しい神父が一日中狭い告解室にこもっているわけにもいかず、通常は曜日と時間を決めてその間だけ受け付けるものだ。クリスマス前に罪の告白を済ませたいという信者は多いため、多くの教会ではこの時期普段より長い時間をとっているが、それにしたってこんな遅くまで告解を受け付けているとは思えない。

 しかし、男は引き下がらなかった。

「なに、よく知った教会だ。神父様が寝ているならば、申し訳ないが起きてもらう。今すぐこいつは神様の前で膝をついて謝らなきゃならないんだ」

「そんな……」

 休んでいる神父を起こすなどよっぽどのことだ。そこまでして急がなければいけない懺悔など信仰心の薄いレオには理解できない。ニコも納得いかない顔で、強情な男を説得するための言葉を探している。

「じゃあ、おまえらはうちの子が地獄に落ちたら責任取れるのか」

 男は腕に力を込めると息子の顔を二人に向けさせた。つるんとした子どもらしい顔は、地獄などというおどろおどろしい言葉には不似合いだ。だが父親は唾を飛ばしながら付け加えた。

「息子は地獄に落ちたって文句を言えないような大罪を犯したんだ。こいつは男と寝たんだ」