13. 第1章|1946年・ウィーン

 レオとニコは思わず押し黙った。男の告白はあまりに唐突で、そもそも見知らぬ他人に明かしていいようなこととは思えない。一方で、普通はとても口にしないようなことをこうして口にしてしまうこと自体が彼の動揺の大きさを物語ってもいた。

「声が大きいですよ」

 レオが警告すると、男ははっと口をつぐんだ。ラインハルト少年はぐっと唇を噛んで下を向き、子どもながらに必死で屈辱に耐えているような素振りを見せた。

「とにかく、こいつはとんでもない罪を犯した。いや、悪魔に取り憑かれているのかもしれない。一刻も早く神様に懺悔して正しい道に導いてもらわないと、とんでもないことになる。余計な口出しはやめてくれ」

 真剣に訴える男はどこか滑稽で、しかし湧き上がってくるのは笑いではなく不快感だ。理屈ではなく感情でレオはこの男の言っていることは間違っていると思い、歯を食いしばる少年を痛ましく思った。だがそれは純粋な正義感ではなく、自分が眠る弟に触れてしまったことと男の「息子は男と寝た」と言う言葉を重ね合わせて、自らが否定されているような気分になっているだけなのかもしれない。

「一体この子のどこが悪魔憑きだっていうんだ。父親に殴られても辛抱強くしている。悪魔が憑いているとすれば、子どもに手を上げてこんな時間にヒステリックにわめき立ててるあんたの方なんじゃないか」

 感情にまかせて、思うままが口から出た。

「なんだと」

 男がすごみ、じりじりと間合いを詰める。殴る気だろうか。少年は「パパ、やめて」と震える声で訴え、ニコはあわてたようにレオの腕を強く引く。しかし、にらみ合いは先に弱さを見せた方の負けだ。レオはぐっと男をにらめつけ、ニコの手をふりほどき拳を固めると、いつでも動き出せるよう腰を低くした。

 けんかに覚えはない。いや、あるのかないのかそれすらわからない。体格的には目の前の男が圧倒的に有利だが、いまさら引き下がるわけにもいかない。

 男が息をつめた。今だ、来る、そう思って身をかわそうとしたそのときだった。背後からよく通る大きな声が響いた。

「あんたたち、なにやってるんだい」

 声に驚き、男もレオも拳をゆるめる。振り返るとそこには大家のシュルツ夫人が立っていた。

「ヘンスさん。それにレオにニコ。こんなところで誰かが大声出しているから何事かと思えば、あんたたちなの?」

 ヘンスと呼ばれた男は気まずそうに、拳を解いて手のひらをズボンにごしごしと擦り付けた。

「知り合いですか?」

 ニコが問うと、老婦人は負けじと質問で返す。

「それはこっちが聞きたいわ。ヘンスさんは同じ教会の仲間で、レオとニコはうちの店子さん。それが、一体どうしてこんなとこでけんかしてるのよ」

「けんかではなくて。ラインハルトがあの、いたずらをして……。神父様のところへ懺悔に行かせようと」

 ヘンスは借りてきた猫のように大人しくなっている。教会のコミュニティの中でも古株である夫人との間には、微妙な力関係があるのかもしれない。

「こんな時間に懺悔を受け付けてるもんかい。明日出直しなさい」

「ええ、はい」

 ぴしゃりと言い切ったシュルツ夫人の言葉に力なくうなずいたヘンスは、さっきレオとニコに凄んで見せたのとはまるで別人のようだった。

 冷静になったヘンスはラインハルトの手を引きとぼとぼと来た道を帰っていく。ラインハルトはときおりちらちらとレオとニコの方を振り返った。父親は落ち着いたようだし、これ以上頬を打たれるようなことがなければ良いのだが。後ろ髪引かれる気持ちで二人を見送った。

「一体なんだったんだい」

 ぽかんとしたままの老婦人に、ニコが言う。

「いえ、こんな時間に子どもを引きずって教会に行こうとしてるから、どうしたのかと声をかけたら興奮させてしまったみたいで。僕らの声の掛け方がまずかったみたい。おばさんが来てくれて良かった」

「あの男は悪い人間じゃないんだけど、ちょっと気が短いのが欠点だ。しかしあんなに怒るなんて、一体ラインハルトは何をしでかしたんだろうね。いたずらするような子じゃないと思うんだけど」

 レオもニコも、何も言えなかった。

 クリスマスイブの夕方、レオは奇妙な客人を迎えることになった。仕事を終えて家に戻ると、建物の外階段に小柄な影が座り込んでいた。特段気にかけず傍らを通り過ぎようとすると、その影は立ち上がりレオのコートをつかむ。

「あ、あの」

 物乞いだろうか。ポケットに小銭を探しかけて、しかしその顔には見覚えがある。

「ああ、おまえ」

 それは、数日前に教会の前で父親に引きずられていたラインハルト少年だった。彼は帽子を取って、礼儀正しく頭を下げた。

「あのとき、シュルツのおばさんのところに住んでるって言ってたから、ここに来れば会えると思って」

 寒い中ずいぶん長いこと待っていたのか、ラインハルトはすっかり冷え切っているようだった。

「おばさんの部屋の方が暖かいから、あっちに入れてもらえるか聞いてみようか」

 しかし少年は黙って首を横に振る。仕方なしにレオはラインハルトをニコと暮らす狭い半地下の部屋へ案内した。シュルツ夫人を別にすれば初めての客人だった。

 どうしても必要なときにだけ少しずつ使っている石炭を、ストーブにくべた。きっとニコは怒ったりしない。湯を沸かし、お茶を入れてやる。

「腹が減っているだろう。何か食うか?」

 といっても、食料は冷えた薄いスープとじゃがいもが少々残っているだけだ。しかし少年はこれも首を横に振りぽつりと言った。

「いい。今日は断食の日だから」

 かつてレオとニコの育った家がそうだったように、敬虔なカトリックの中にはクリスマスイブに断食を行う者が少なくない。この間のヘンスの様子を見るに、この子もかなり信心深く育てられているのだろう。

「お兄さんは断食はしないんですか。もしかして、異教徒?」

「いや、異教徒ではない。けど、熱心な信仰を持ってるわけでもない。教会にも行かない。おまえの父さんみたいな人からすればけしからんかもしれないが、そういう人間もいるんだ」

「うん」と、ラインハルトは素直にうなずいた。そして、しばらく経ってからポツリとつぶやいた。

「僕も、教会に行きたくない」

 レオは何も答えず、視線で話の続きを促す。

「神様に怒られてる気がするから教会は怖いんだ。だから明日のミサにも行きたくない。でもきっと父さんは許してくれないから」

 明日はクリスマスのミサがある。それが辛くて、しかしその辛さを吐き出す相手を知らない子どもは、この間自分の味方をしてくれた大人を頼ってここまで来たのだった。

「父さんは、殴って悪かったって謝った。でも、おまえが罪人になるのは辛いから、どうか目を覚ましてくれって泣くんだ」

「あれから、懺悔はしたんだろう」

 レオが訊ねると、ラインハルトはうなずいた。

「……した。けど、僕、自分が本当にいけないことをしたのかよくわからない。心から懺悔できていないってこときっと神様は見通してしまうから、僕の罪にも気づいて、きっといつか僕は地獄に堕ちる」

 それは、心から怯えている人間の顔だった。

「おまえ、好きな子がいるのか?」

「うん」

「それは、男の子なのか」

「……うん」

 寝たのか、とまでは聞かなかった。ラインハルトは恋人と父親、そして信仰それぞれに対する誠実さの間で子どもなりに悩み苦しんでいる。引き裂かれそうな彼の思いのうち何かを肯定することは他の何かを否定することになり、どちらにしても小さな心を傷つけてしまうような気がした。

 そのまましばらく黙って向かい合っていた。そして、ラインハルトが時計を気にする素振りを見せたのをきっかけにレオは切り出した。

「とりあえず、これ以上お父さんを心配させるのはよしたほうがいい。今日は家に帰れ」

「うん」

「ただ、どうしても家にいるのが辛くなったら、いつでもここに来ていい」

 ラインハルトは初めて笑顔を見せた。それは彼が初めてレオに見せた少年らしい表情だった。

「兄さん、今の」

 ラインハルトが出て行くのと同じタイミングで帰ってきたニコが、驚いたようにレオに訊ねる。

「うん、この間の子。俺たちがここに住んでるって聞いて、礼を言いにきたんだ」

「何話してたの?」

「うーん。男同士の話かな」

 ニコは少し不満そうに、ずるいよ僕にも教えてよ、と唇を尖らせた。