14. 第1章|1946年・ウィーン

 クリスマス当日、レオは普段どおりに仕事に出かけた。クリスマスだからといって病気や怪我がなくなるわけでも入院患者が回復するわけでもない。当然ながら病院の掃除は必要だ。とはいえこういう日には軽い症状で病院を訪れるような人間は減るものだし、ある程度元気な入院患者の中には一時帰宅をして家族と共に祝祭日を祝おうとする者も多い。外来も病棟も閑散とすれば当然レオの仕事も普段より少なくなるので、いつもより二時間早く仕事を終えることにした。

 掃除道具を洗い片付け帰り支度を整えたところにハンスが姿を現した。看護婦の母親に加え今では友人であるレオまで働いているため、ハンスはときおりこの病院に姿を現す。はっきりとした用事がある場合は少なく、散歩のついでだとか作業に煮詰まったから気分転換だとか、大方の理由は適当なものだった。

 ハンス自身は絵や絵葉書を占領軍の軍人に売って日銭を稼いでいるので時間の自由はきく。だからといってわざわざこんな日を狙ってやってくることもないだろう。今日はハンスの母は非番なので目的はレオに違いなかった。

「よお、こんな日も仕事か」

 レオの姿を見つけると人懐こく寄ってきて、ポンポンと肩を叩く。

「そっちこそ、こんな日に何をふらふらしているんだ。今日は家に帰るんじゃないのか?」

 普段のハンスはアトリエ代わりにウィーン中心部に借りた小さな部屋で暮らしているが、市内の別の区には母と妹の暮らす家がちゃんとある。レオはハンスの母から、クリスマスには放蕩息子が久々に家に帰ってくるのだと聞いていた。ハンスの母は息子について話すときいつも「ばか息子」「放蕩息子」と呼ぶが、そのときの表情や口調は柔らかい。

「そう突っかかるなよ。今日はおまえにクリスマスプレゼントを持ってきてやったんだ」

「クリスマスプレゼント?」

「そう。本当は家まで届けようと思ったんだが、そうすると俺のことを蛇蝎のごとく嫌っているかわいい弟ちゃんが怒るんだろ。気を遣ったんだよ俺なりに」

 ハンスは笑いながら手にした大きな紙袋を差し出した。ずっしりと重いその中身は、ややサイズが小さいもののこのご時世手に入れるのが容易ではないガチョウの丸焼きだった。

「どこで手に入れてくるんだ、こんなもの」

 怪訝な顔でレオが訊くと、ハンスは自慢げに笑いトントンと自らの胸を叩いて見せた。

「言っただろ。軍人相手の絵描きはけっこう儲かるんだって。最近は販路も増えて、ひとりじゃ追いつかないくらいだ」

 身なりに構わないハンスはいつも古い軍用コートに、裾の切れたズボンと穴の開きかけたブーツを履いている。見た目からはまったくわからないが、本人の言葉どおりそれなりに稼いでいるということなのだろうか。

 受け取った袋を扱いかねているレオに、ハンスは畳みかける。

「どうだレオ、おまえもしみったれた掃除夫なんかやめて俺の仕事を手伝わないか。軍人の宿舎を回って注文を取って絵を届けるだけだ。おまえが外商を請け負ってくれれば俺は制作に集中できる。悪くない歩合で払うぞ」

「ふざけるな。占領軍周りの仕事なんか、ニコが嫌がるに決まってる」

 ハンスの場合、冗談で言っているとは思えないからうかつな答えもできない。レオはすぐさま断りを入れた。おそらく断られることはあらかじめ想定していたのだろう、ハンスはそれ以上深追いしない代わりにニヤニヤしながらレオをからかってくる。

「また『ニコが』か。まあ、確かにあいつは潔癖そうだからな。俺もこれ以上友人の弟から嫌われたいわけじゃないから、今日は顔出さずこれだけ差し入れるよ。ちょっとは機嫌を直してくれればいいんだが」

 結局ハンスはあの後一度もニコと会えていない。いや、レオが会わせていないといった方が正確だろう。こんな賄賂を持ち出すということはハンスの側は自分の過去の行為を多少は悪かったと反省し、ニコとの和解を望んでいるというのだろうが、ことはそう単純ではない。

「どうかな、ニコは手強いよ」

「だろうな」

 そうは言ってもハンスはきっと、まだまだニコの頑固さを見くびっている。

「そういえば、ニコには話していないんだけど」

 ふと思い立ってレオは言った。

「なんだ? 悩みなら聞くぞ」

「いや、悩みじゃなくて。ただ、俺はどうしてやったものかわからなくて」

 それは、昨日レオの元を訪れたラインハルト少年のことだった。彼の訪問理由をニコに話せなかったのは、結局のところ自分のためだった。あの場に居合わせてラインハルトの父親の言葉を聞いているだけに、少年の抱えているのが同性との恋愛問題だということはニコだってわかっているはずで、それを話したところで本来問題はないはずだ。

 だが、眠るニコの体に性的に触れてしまった自分が一体どんな顔をして「ラインハルトは男色の罪に悩んでいる」と話せばいいのか。レオはまだ、ニコがあの日のことを本当は覚えているのではないかと疑っている。 もちろん、ラインハルトの父親に負けず劣らず敬虔なカトリックであるシュルツ夫人にも、こんなことを相談することはできない。そうなると、知人の少ないレオにとって吐き出す相手はハンスただひとりというわけだ。

「なあ、この間教会の前で――」

 レオは、先日の教会の前での出来事、そして昨日家を訪ねてきたラインハルトが訴えた苦しみについてハンスに話した

「そりゃあ、親父さんの心配も一理あるな」

「なんだ、おまえも地獄に堕ちるなんて言う気か」

 自由気ままな芸術家を地でいくハンスの口から思いのほか良識ぶった言葉が出たことにレオは正直失望した。しかしハンスはレオの言葉を即座に否定する。

「違うよ、俺はそんなクソみたいな倫理の話をしてるんじゃない。レオ、おまえはこの国もちょっと前には第三帝国の一部だったことをまさか忘れたわけじゃないだろう?」

 それは、レオの頭からすっぽり抜けている観点だった。

 ナチ政権下のドイツが抹殺を試みたのはユダヤ人だけではない。彼ら独自の思想――選民思想と優生思想に基づき不要とされたのは、ユダヤ人以外にもロマなどの民族的に劣るとされた移民。さらに、精神や身体に障害のある者、アルコール依存症患者、政治犯を含む犯罪者、社会主義者、そして同性愛者などは例え正真正銘のドイツ人であったとしても社会的逸脱者として逮捕された。彼らは一般的にユダヤ人ほど容赦なく扱われたわけではないが、強制労働と収容生活の結果その多くが命を失ったと聞く。

 そもそもドイツの刑法には男性同士の同性愛行為に対する罰則を伴う禁止規定がある。その類の規定自体は他国と比して特段珍しいものでもないが、ナチスはこの罰則を強化し厳しく同性愛者を取り締まった。同性愛者が集まるゲイバーに親衛隊のスパイが潜り込んで、声をかけてきた者を片っ端から収容所に放り込んだという話もある。同性愛者は収容所内では識別のため、ピンク色の三角形を目印として身につけることを強いられた。

「もちろんここにも似たような法律はあって、そいつは今でも有効だが、実際は名ばかりというか、同性愛者だからってすぐさま捕まるようなことはない。繁華街の裏道に行けば女だけじゃなく男だって軍人相手に商売しようと立ちんぼしてるさ。ただ植えつけられた恐怖心はそう簡単に消えてなくならない。その親父さんが怒鳴ったり殴ったり泣いたりするのは確かに信仰心のためでもあるだろうが、単純な恐怖もあるんじゃないか」

 それからハンスは、自分の友人にもある日連れて行かれて戻ってくることのなかった同性愛者がいるのだと言った。

「罪かどうかを決めるのは、神様なんかじゃなく人間だ。大抵の父親は、自分の子が罪人として糾弾されることを喜びはしないだろうな」

 普段は軽口ばかり叩いているが、こういうときに真摯に話を聞いてくれる。だからレオはハンスと友人でいる。そこで、自分もラインハルトへ同じことをしてやるほかにないのだと気づいた。あの子どもの親でも教師でも聖職者でもないレオにできることは、しんどいときに話を聞いて逃げ場になってやることくらいだ。

「ていうか、次は好きな子とやらも連れて遊びにこいって言えば喜ぶんじゃないのか。あ、でも潔癖なニコが怒るかもしれないな」

 再びいつもの軽薄さを取り戻したハンスは、怒りに染まるニコの顔でも想像したのか面白そうに笑った。一方その言葉に、せっかく軽くなったレオの心は再び少しだけ沈んだ。潔癖なニコはあの夜レオに言ったのだ。「これは罪だ」と。

 多少の悩みを抱えながらもクリスマスの晩は素晴らしかった。

 ハンスからの贈り物に大いに喜んだシュルツ夫人は、さらにレオとニコが準備した毛糸の帽子を渡すと涙を流さんばかりに感動した。ニコも珍しく旺盛な食欲を見せ、ワインを飲み、レープクーヘンをつまみ、部屋に戻ったのは夜も更けた頃だった。老婦人はさすがの信心深さで、これから夜のミサに行くのだとさっそく毛糸の帽子を被って出て行った。

 少量ではあるが、久しぶりにアルコールを摂取したせいか、気分はふわふわしていた。ニコも頬をうっすらと赤らめている。部屋に戻り眠る準備を整え、灯りを消しておのおのベッドに入る。この国ではツリーの周りで聖歌を歌う風習があるそうで、どこかからか歌声が響いてくる。

 あまりに良い気分で、このまま眠ってしまうのがもったいなく思えた。横たわったままぼんやりと、そういえばラインハルトはミサに行ったのだろうかなどと考えていると、眠ったとばかり思っていたニコが話しかけてきた。

「兄さんは、本当に戦争以前のことは何も覚えていないの?」

 一瞬この間の夜のことかと思いどきりとするが、すぐにそれが記憶の話だと気づく。いまさらわかりきったことをいまさら一体なぜ確認するのか。

「覚えていないよ」と、レオは答えた。

 それ以上ニコは何も言わず、やがてレオは酔いの力を借りてうつらうつらしはじめる。睡魔の波は寄せては返し、意識は遠のいては浮き上がることをなんども繰り返す。その満ち引きに身を委ねるのはとんでもなく気持ちいい。そして、いよいよ大きな波がやってきて、眠りに落ちようとする瞬間――「良かった」という小さな声が聞こえたのは、現実かもしれないし、夢だったのかもしれない。