15. 第1章|1947年・ウィーン

 長いウィーンの冬もいつかは終わる。仕事を終えて病院を出ようという夕方五時になっても日は沈みきっておらず西の空はまだほんのりと明るい。寒さはまだまだ厳しいものの一番辛い時期ほどではなく、ここのところ気温が零度を下回る日は少なくなってきた。

 日照時間の短さは人の心身に多分な悪影響を与えると聞く。北に行くほどメランコリーやアルコール依存症が多いというのもあながち嘘でもないだろう。真冬の頃からレオ自身、とりわけ天気が悪くなる前などは偏頭痛に悩まされることが目立つようになった。

 痛みには波があり、しくしくと弱い痛みが続いたかと思えば立っているのが辛いほどの激痛に襲われ、しかし次の瞬間には嘘のようにけろりとしている。持続する時間もあまり長くないのでつい病院にかかるという選択肢を後回しにしてしまう。おおよそ気象のせいだろうと自分を納得させているものの、過去に頭を傷を負っているだけに、そこはかとない不安はある。

 薄曇りの中を家に向かう今日も体が冷えるにしたがって弱い痛みが出てきた。またかと思いつつ先を急ぎ、家まであとひとブロックというところで大きな波が襲ってきた。思わず息を詰め立ち止まる。それから意識的に呼吸を整え、ゆっくり長い息を吸い吐くことを繰り返す。こうやって少しの間我慢していればきっとすぐに収まる。心配ない。

「レオ?」

 不意に声をかけられるが痛みの収まらない状態では返事をすることができなかった。うつむき気味の顔を下から覗きこんできたのはラインハルトで、彼は驚いた顔でレオの背中を支えるように腕を伸ばした。

「レオ、具合でも悪いの? 真っ青じゃないか」

 声変わりも中途半端な少年の言葉が頭の中で何重にも反響する。あわてた様子で周囲を見回すラインハルトの手首をつかみ、絶え絶えのジェスチャーで大丈夫だと伝えた。

 時間としてはほんの数分だっただろうか。しかしレオにとっては数時間も続いたかのように思えた。そして現れたときと同様に痛みはあっけなく消え去り、後には心配そうなラインハルトが残された。

「悪い、ちょっと頭が痛くて。もう大丈夫だ」

 レオの言葉に、しかしラインハルトは納得いかない様子でいる。

「動けないほど頭が痛いなんて、もしかしたら悪い病気かもしれない。脳腫瘍とかさ」

「大丈夫、古傷がたまに痛むだけなんだ」

 子どもっぽく大げさな心配を制して再び歩きはじめる。ラインハルトがそのままついてくるのは、なんのことはない、そもそもレオの部屋を訪ねる途中だったのだ。

 クリスマスイブの日にやってきて以来、少年はしばしばレオの元を訪れるようになった。最初の頃は父親との関係や信仰上の不安についてぽつぽつと語るだけだったが、最近ではすっかり気を許し学校のことや恋愛のことなど他愛のない話をして帰るだけのこともある。

 問題があるとすれば、訪問が頻繁になるにつれてラインハルトがニコと出くわす機会が増えたことだ。ニコはこの少年の家庭環境に同情を示しはするものの、父親との関係を悪化させないためには他人が不用意に関わるべきでないという立場をとっている。それはいかにもニコらしい正論だが、レオはこのラインハルトという少年をどうにも放っておけない。

 慣れた様子でラインハルトはテーブルの横の椅子に座る。身長は十四歳の少年としてはやや小柄だが、長い手足を見るに将来は父親のように大きく育つのではないかと思われた。このウィーン少年合唱団のような金髪碧眼の美少年が将来は丸太のような腕をした大男になるところを想像すると、可笑しいような気持ちにもなる。

「変なこと言うなよ。もしパパみたいになったら、オスカルに嫌われちゃうよ」

 愉快な想像を告げたレオにラインハルトは猛然と抗議した。彼は自分が将来父親のような外見になることを恐れているのだ。

 オスカルというのは、ラインハルト言うところの「好きな子」で、彼と同じ十四歳の少年なのだという。彼らは小学校のクラスで出会ったが今は別々の学校に通っている。ラインハルトは手に職をつけるために通う実科学校レアルシューレ、一方のオスカルは将来的に高等教育を受けることを目指す子どもの通うギムナジウム。ラインハルトはまるで自分のことのように目をきらきらさせて、オスカルがいかに聡明で思慮深くて素晴らしい少年であるかをレオに語って聞かせる。

 彼らは子どもの頃から仲が良かったが、思春期に近づくにつれてラインハルトはその感情が友情だけによるものでないことに気づいたのだという。そして昨年の夏頃にオスカルに思いを告げた。幸いラインハルトの思いは一方通行ではなかった。

 以前ヘンス氏はレオとニコに向かって、ラインハルトが男と寝たという衝撃的な発言をしたが、実際のところ行為はそこまで濃厚なものではないようだ。本人の言葉をかりると「部屋で抱き合ってキスしてたら、パパが急に帰ってきた」のを、動揺したヘンス氏がてっきり二人が寝たと思い込んでしまったのだという。

 自分は地獄に堕ちるのかと泣きそうな顔で不安を訴えたラインハルトは、驚くほどの切り替えの早さで今は信仰と恋愛を両立させることを目指している。父親の前ではオスカルとの恋愛は終わった風に振る舞い、一方でオスカルとは相変わらず隠れて逢い引きをする。そして、一番の問題である神様の前では「この愛は本物なので罪ではありません。かならずあなたに認めさせてみせます」と祈りのたびに語りかけている。

「おまえは思ったより図太いな」

 レオの言葉に、ラインハルトはいけしゃあしゃあと言う。

「だって真実の愛だから。ほら見てよレオ。この十字架オスカルとお揃いなんだ」

「はいはい、良かったな」

 ポケットから取り出した十字架のネックレスを散々レオに見せびらかしてから、ラインハルトは改めてぐるりと部屋を見渡す。狭くて暗くて寒くて殺風景な部屋。しかしラインハルトはこの部屋を気に入っているようだ。「秘密基地みたいだね」などとうきうきした表情で言われても、しかしそこを生活の場としているレオとしては複雑な気持ちにしかならない。

「大人はいいなあ。僕もレオとニコみたいに、オスカルとずっと一緒にいたいよ」

「俺たちは兄弟だから、おまえたちとは違うよ」

 安易な言葉には苦笑しながら否定すると、ラインハルトは真顔で言った。

「でも、僕がレオといるとニコはやきもちを焼くよ」

 その言葉は少しだけレオの胸を痛めるが、気づかないふりでやり過ごす。

「……そういうところ本当にガキだな。ニコはおまえが勝手にここに来ていることがばれたら父親が心配するって心配しているんだ。あのとき俺が殴られかかったの、わかってるよな」

「本当にそうかなあ」

 それでもラインハルトはどこか納得いかない様子だった。

 そう、自分たちはただの兄弟だ。一度だけ我慢できず触れてしまったがあれはただの間違いで、つい魔がさしてしまっただけだ。長い禁欲の果ての、目を閉じてなかったことにすべき過ち。幸いあれ以来ニコに対して妙な欲望を感じることはない。もちろんレオ本人も意識してニコのいない隙を狙って下半身の欲望を処理するなど、ああいった間違いが二度と起こらないよう気をつけてはいる。

「もう遅いぞ、用事がないなら帰れ」

 夕食どきに遅れるとラインハルトは行動を怪しまれる。そろそろ家に帰るべき時間だった。

「はーい」

 素直に立ち上がった少年の手から、するりとネックレスが滑り落ちた。

「あっ!」

「ほら、言わんこっちゃないだろ。大切なものを手荒に扱うからだ」

 ヘッド部分がいびつな床で跳ね、ネックレスはニコのベッドの下に転げた。ラインハルトが床にしゃがみ込み頭と腕を狭い空間にねじ込む。そして、立ち上がったラインハルトはネックレス以外にもうひとつ何かを手に持っていた。

「なんだろう、これ」

 それは革製の小さな巾着袋だった。少し長い紐がついていて一見するとお守り袋のようにも見える。レオにとっては初めて目にするものだった。

「触るな。ニコのだろう」

 ニコのベッドの下に落ちていたということは、おそらく何かの拍子に取り落としたのだ。レオには他人のものを無節操に覗く趣味はないが、好奇心旺盛で節操のない十四歳の少年にとっては事情は違っている。

「からっぽみたいだ」

 耳元で袋を何度か振ってから、ラインハルトは造作なく袋の口を開いてしまう。

「やめろって」

 レオの制止は間に合わなかった。

 そこから出てきたのはただの紙切れだった。古びた、泥や、もしかしたら人の汗や脂で汚れて色の変わった紙切れには細かい折り跡がついている。うっかり触れると破損してしまいそうなくらい傷んでいる。

「やめろ」ともう一度繰り返そうとして、しかし言葉を発する前に子どもの手が用心深く折り目を開く。

 ――迎えにいく J

 青いインクで、かすれかけた走り書きはお守りにしては奇妙なものだった。振り返ったラインハルトがレオに「何これ変なの」とつぶやく。その瞬間、足音が聞こえた。この時間にこの部屋にやってくる足音などニコしかいない。レオはラインハルトを急かしてメモを袋に戻し、もとどおりベッドの下に放り投げさせた。