17. 第1章|1947年・ウィーン

 ニコは翌週から夜勤の仕事に出かけるようになった。

 レオが病院掃除の仕事から戻るのが毎日夕方の六時過ぎ。それから一緒に食事をとり九時過ぎにはニコが出かける。ニコの帰宅は朝の七時過ぎで、レオを起こして仕事に送り出してから眠りにつく。二人の生活は昼夜ほとんど裏返しで、朝晩にほんのわずかだけ一緒に過ごす時間が残されているのみだ。

「体は辛くないか?」

「大丈夫だよ、昼間に寝てるから」

 当初は毎朝のように同じやり取りを繰り返したが、ニコがあまりにもうんざりした顔をするので、そのうち何も言えなくなった。

 とはいえ、もちろんレオは大いに不満だ。いや、不満というより不安といったほうが正確なのかもしれない。ただでさえ妙なメモ書きのことが心に引っかかっている。さらには、以前ニコの体に触れてしまった件についても未だ心の奥で引きずっている。さまざまな不安材料に思いを馳せているうちに、まさかニコは自分と距離を取ろうとしているのだろうかという考えまで浮かんでくる。

 ミュンヘンの病院にいた頃、見舞いに来たニコが帰るときにはいつも不安に襲われた。もう二度と来てくれないのではないか、自分は記憶をなくしたままたったひとりここに置き去りにされるのではないか。それは赤ん坊が親に捨てられるのをおそれるのと同様の、ほとんど生存に関わる恐怖だった。退院して回復してニコと一緒に生活するようになればそんな不安とは縁がなくなるものだと思っていたのに、結局ウィーンに来て同じ部屋で寝食をともにしながら、レオは相変わらず同じことで不安に苛まれている。むしろ前以上に強く。

 不思議だ。失う不安は、離れて暮らすよりも一緒に生活することでより大きくなる。

 それだけではない。目を覚ましてニコと出会い直し、少しずつ互いを知り兄弟としての関係を再構築して来たつもりだが、一緒に過ごせば過ごすほどニコのことがわからなくなるし、ニコに対する隠し事も増えてきた。長い時間をともに過ごせばそれだけ距離が縮まっていくなんて、ただの幻想に過ぎないのだろうか。今のニコは近いようで他の誰より遠い。

「ていうか、それやっぱり金の問題だろ」

 ばっさりと斬って捨てたのはハンスだった。思わずレオは訊き返す。

「金?」

「そう、金」

 足の踏み場もないほど散らかったハンスのアパートで、今日は窓辺に一脚しかない椅子に座っているのはレオだ。

 今晩、ニコは用事があるので早く家を出るのだと言っていた。ここのところ少しでもニコと過ごす時間を作るため毎日仕事場からまっすぐ帰宅していたが、ニコがいないならそうする意味もない。愚痴でもこぼして気晴らししようとここにやってきたのだった。

 ハンスは壁際の机の前に立って版画を刷る作業を淡々と続けている。新作はドナウ川と、プラーター広場の観覧車。薄墨で刷られたそれはうら寂しい雰囲気を漂わせ、レオが以前見た光景とはぴったりイメージが一致する。しかしまあ、ソ連やアメリカの軍人はこんな辛気くさい絵を、わざわざ金を出してまで欲しがるものなのだろうか。

 もちろんそもそもの原因はナチスドイツと、併合を受け入れた一九三八年当時のオーストリア政府にあるとはいえ、現在のウィーンの荒廃自体は他の誰でもない連合軍による空爆や地上戦の結果だ。自分たちの壊した街の絵を彼らがどんな気持ちで買い求めているのかは知れない。

「だってさ、兄貴はしがない掃除夫、自分は明日をもわからぬ日雇い労働者。生活に不安がないほうがおかしいだろ。もし今の生活に満足してるんだとすれば、言わせてもらうがおまえはどうかしてる」

 ハンスは手を止めないまま続ける。インクで汚れたハンスの手は小さいが肉厚で節くれ立っている。軽薄で雑な性格とごつごつした手から繊細な芸術が生み出されていくのは、まるで魔法のようにも見えた。

「でも、以前と比べればこれでも」

「そりゃ、前がもっとおかしかっただけだろ。心配性の兄貴が何考えてるかはわからないけど、夜勤だろうがなんだろうがちょっとでもましな仕事しようっていうニコが普通だよ」

 確かに裕福でないのは事実だがウィーンにやってきた頃に比べれば生活はずいぶん改善したし、さすがに食べるものにすら困ることはなくなってきた。真冬の間は少しだが燃料も買えていた。

 よくよく考えてみればおかしな話だが、このところのレオには自分たちの生活がことさら貧しく惨めだと言う認識が欠落していた。雨風をしのげる部屋があり、飢えて死なない程度に食べ物があり、何よりも同じ部屋にはニコがいる。それ以上何を望めばいい?

「第一、おまえらこれからどうする気なの?」

「どうするって?」

「生活のビジョンだよ。戦争は終わった、もう二年も前にな。世の中がゴタゴタしている今はまだ日銭のことだけ考えていたって仕方ないが、終戦って言葉すらそのうち過去のものになるんだ。おまえもニコも若いんだから、一生今みたいなその日暮らしを続けるわけでもないだろう」

 レオは虚を突かれた思いだった。生活のビジョン。そんなことこれまで考えたことがなかった。地獄から生き延びて、ただ生き続けることだけが目的になっていた。

 来年の今頃、再来年の今頃、自分たちは一体何をやっているのだろう。長期的なビジョンの重要性についてはミュンヘンを離れることを決めた際に支援者のサラも盛んに口にしていた。彼女は職業訓練や、安定した生活のできる国への移民を勧めていたと記憶している。しかし、レオもニコもあの頃はまだそんなことを考える段階になかった。

 だが、一体いつまで? いつになったら「そんなことを考える段階」が来るんだ?

「国も家族もあるおまえと一緒にするなよ。俺たちは定まった居場所も、家族や親戚もいないんだ。ビジョンどころか毎日を生きるだけで精一杯だよ」

 複雑な思いにとらわれながらも、レオの口から出てくるのは自己弁護だ。しかしこういうときのハンスは容赦しない。

「ニコはそんな風に考えていないから、少しでも稼ごうとしてるんじゃないのか。おまえらの不幸には同情するが、どこかでやり直すべきなんだよ。手に職をつけるとか学校に通うとか、方法なんていくらだってある。で、やり直すためにもある程度は金がいるってわけだ。……しかしおまえたちって、それぞれ自分は棚に上げて相手の心配と束縛ばかりしてるのな」

 言われてみればレオもニコも十分な教育は受けていない。一九三五年にナチ政権がドイツ国内のユダヤ人を公教育から追放したからだ。

 その後しばらくはユダヤ人学校に通ったらしいが、ニコ曰くそこはユダヤ教の教えを受けて育っていない自分たちにとっては居心地のいい場所ではなかった。それどころか数年後にはユダヤ人絶滅政策が本格化し、学校どころではなくなった。

 レオは学校や教育に大した思い入れはないが、ニコは賢いからもしかしたら学び直したいというような思いを密かに持っているのかもしれない。

 金か、と口の中でつぶやいた。確かに金は重要だ。だが、その金のためにニコが無理をしたり自分といる時間が犠牲になったりするのは喜ばしくない。だったらやはりレオがもう少し稼げる仕事を探すしかないのだろうか。確かにハンスの言うとおりで、一生掃除夫のままというわけにもいかない。

「というわけで」

 ハンスはレオの心を読んだかのように切り出した。

「前に話した俺の絵の外商の話、覚えてるだろ。あれ、やらないか?」

 クリスマスの頃にレオが一度は断った話をハンスは再び持ち出した。

 週に二、三回、夜にいくつかの占領軍キャンプを回る。やることは絵の配達と注文取りで、特に面倒も危険もないのだという。売れた絵の金額に応じてハンスはレオに報酬を払う。夜数時間だけの外出なので昼間の仕事には響かないし、夜勤で留守にしているニコにバレることもない。改めて聞くと魅力的な話ではあった。レオはドイツ語しか話せないが、絵の売買に使うロシア語や英語のフレーズを最低限覚えさえすれば、特段問題はないようだ。

「大丈夫だよ、俺もたいして言葉はわからないけど今は自分で売り込みできてるからな。すでに販路があって向こうにも取りまとめ役がいるんだよ。足と口さえ付いてる奴ならすぐにでもできる仕事だ」

 話を聞くうちにだんだんその気になってくる。何よりレオがもう少し稼ぐことができれば、ニコも無理して夜勤の仕事などせずにすむかもしれない。もっともそうなればハンスの仕事を受けるための夜の外出に何かうまい理由づけが必要になってしまうのだが。

 レオは次の晩、夜の街でハンスと待ち合わせた。むやみやたらと時間をかけるのではなく、ハンスは縄張りにしている軍隊宿舎をいくつかのブロックに分けて曜日ごとに決めたエリアを効率よく回ることにしているのだと言う。

 中判の水彩画を数枚とたくさんの絵葉書を入れた包みを持ち、その晩はアメリカ軍の宿舎へ向かった。なんせ占領軍の用地に出向くのは初めてなのでレオはずいぶん緊張したが、ハンスは慣れたものだ。持ち前の人懐っこさですでに内部に取りまとめ役の知人を作っており、受付のような場所でその人物の名前を言えばすぐに面会所に案内された。

 愛嬌のあるアメリカ軍人はハンスとレオを順にハグし、それからハンスが持ってきた絵の内容と枚数を確かめた。お互い片言の英語とドイツ語で話しながら、中身と金額は合意に達したらしい。ポケットから無造作に出した札入れから約束の金額を取り出し、さらに一枚上乗せしてハンスに渡す。「友達とビールでも飲めよ」英語はよくわからないが、そういった意味のことを言っているようだった。

 同じ調子で合計三ヶ所を周り終えた頃には、ハンスの手には驚くほどの金額が握られていた。

「な、簡単だろ。おまえにもできるって」

 ハンスは笑い、今日は俺のおごりだと言ってレオを近くのバーに誘った。

 こうしてレオはまたひとつ新しくニコへの秘密を増やした。