18. 第1章|1947年・ウィーン

 秘密は秘密を呼び、嘘は嘘を呼ぶ。そして、ぎりぎりのバランスで成り立っていた一見平穏な生活が崩れるのはいともたやすい。

 ある晩レオは夜の街でニコを見かけた。ようやく週三回の占領軍回りに慣れてきた矢先のことだった。

 決して見間違うことない人影だが、思わず我が目を疑い時計を確認すると夜の十一時。ニコは工場で夜勤の仕事をしているはずの時間帯だ。しかも場所からしてニコから聞いていた郊外の工場地帯とは正反対と言っていい夜遊びの軍人で賑わうエリア。普段ならレオも決して足を踏み入れないような場所だが、今日は取引相手から外出先のバーまで絵を届けるよう頼まれていた。

 まさかと思うが、自分がニコを見間違うはずがない。あの背丈、無造作に切った濃い茶色の柔らかい髪、少し自信なさそうなうつむきがちな歩き方。猥雑な夜の街に不似合いに浮き上がっている、何もかもがニコだった。

 そのまま追いかけてなぜこんなところにいるのか確かめたい気持ちだったが、客との約束の時間が迫っている。きっと急に仕事が休みになったとか、なんらかの理由があるのだろうと自分に言い聞かせ、夜の街に消えるニコの背中を見送り約束の場所へ向かった。

 客から指定されていた店は、ホイリゲと呼ばれるワインとちょっとした食事を出す店だった。このタイプの店はオーストリアには多く、異国情緒も手伝ってか駐留する軍人たちにも人気があるようだ。相手が商品を確認する間もレオはニコの後ろ姿を思い出し、ソワソワと落ち着かない気持ちになった。

「どうしたんだい。急いでいるのか」

 今日の客はドイツ人の両親を持つ移民二世のアメリカ兵で、比較的流暢なドイツ語を話すことからレオにとっては最もやりやすい相手だった。何度か顔をあわせるうちにそれなりの世間話も交わすようになっていたが、彼はレオの落ち着きのない様子に気づいたようだった。

「いや。そういうわけじゃ。ただ、さっき外で弟に似た後ろ姿を見かけて。西の方へ歩いて行ったから何か用事でもあるのかと気になっているんだ」

「それは、いくら兄弟でも見逃してやらなきゃいけないな」

 レオの言葉に、アメリカ兵はニヤリと笑った。

「え?」

 意味がわからずぽかんとするレオに、相手は「知らなかったのか」とさも意外そうな顔をしてから言った。

「あっちは、こんな酒場よりもっとための場所だよ」

 世間知らずは自覚しているが、さすがにその言葉の意味がわからないほどおぼこいわけでもない。ああ、と曖昧にうなずいて金を受け取り次の約束を取り付けると、一杯奢るという誘いも断りレオはそそくさと店を後にした。

 そこからどうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。レオは激しく動揺していた。

 一体どうしてニコがあんなところに、あんな時間に。しかもレオに嘘をついて。さっき聞いた話を信じるのであればニコが足を踏み入れた先にあるのはいかがわしい場所ということになる。考えはじめると目が冴え、明日も昼の仕事があるというのに全く眠気が襲ってこない。朝までこのまま起きていて、ニコが帰ってきたらすぐに問い詰めようと頭の中でリハーサルをはじめる。

 そこで、ふと当たり前のことに気づいた。多少幼く見えたとしたってニコは普通の健康的な成人の男なのだ。そのニコが夜の街にいたからと言って、それはおかしなことではないはずだ。

 レオ自身は、以前ニコに触れてしまった一件を「性欲を抑圧しすぎた結果」と総括し、それ以降ニコのいない隙をみて定期的に自己処理をしている。一方で弟の性の事情については考えたことがない――いや、あえて考えることを避けていたのかもしれないが、とにかく考慮せずにきた。

 普段のニコは清廉そのものといった顔に物腰で性的なものを感じさせないが、それでも一定年齢の男が何もなしに過ごすというのは奇妙でもある。実際あのときだって触れた手には敏感な反応を返したわけで。普段はニコもレオ同様ひとりきりの時間にこっそり処理しているのかもしれない。そして、自らの手を相手にすることに飽き足らず夜の街に出ていったとしてもそれ自体は何も異常なことではない。だとすれば、正常な大人の正常な行動についてわざわざ大騒ぎして問い詰めようというのも妙な話になってくる。考えれば考えるほどレオの頭は混乱した。

 できる限り冷静に努めようとして、ニコの行動に合理的な説明を与えていく。きっと人恋しくなっただけなのだ。ああいう性格だから自分の欲求について兄に話すこともなく、仕事の急な休みか何かを利用してこっそりその手の店に出かけただけなのだ。それでもむかむかと腹の中に渦巻く不快感は消えない。レオは眠れぬ夜を過ごした。

 しかし、ニコは嘘をついた。

 朝、いつもと同じ時間に帰宅したニコは普段どおりに体を拭き、着替え、朝食の準備を整えてからレオを起こした。一睡もできなかったレオは本当はずっと目を覚ましていたのだが、どう振る舞えば良いのかわからず結局はいつもどおりに眠っているふりをしてニコに起こされるのを待った。

「兄さん朝だよ。起きなきゃ」

 そう言って肩に手をかけてくるニコの声色は普段と何ひとつ変わりない。だからレオもさも眠りから覚めるのが辛いといったていで億劫そうに体を起こした。

 顔を洗い、さも普通の会話のふりをして切り出す。

「昨夜は、仕事に時間どおりに行ったのか?」

 ニコは質問の意味がわからない様子で首をかしげて見せた。

「だって、いつもどおりにここを出ただろう。どうかしたの?」

「……いや、トラムの信号故障があったって人が話してるのを聞いたから。もしかしたら違う路線の話だったのかな」

 もちろんレオの言葉も嘘だった。嘘と嘘の応酬に、お互い様であるにも関わらずレオは傷ついた。ニコが完全に普段と変わりなく、一切の後ろめたさを感じさせない様子でさらりと自分に嘘をついた。こんな反応はまったく想像していなかった。

 例えばちょっとした言い逃れやごまかしをしようとするとき、ニコは決して器用ではない。以前にシュルツ夫人を手伝って郊外まで野菜を取りに行こうとしたときも、レオの「遠いんじゃないか?」と言う質問に、心配をかけないよう「遠くない」と返事しようとして結局「そうでもないよ」という中途半端な言葉で返した。普段の会話では万事そうで、嘘のつけない不器用な物言いは、結果としてレオを心配させることもあったが、基本的には誠実な性格をよく表す好感の持てるものだった。

 でも、そのニコは実のところこんなにもさらりと、軽やかに嘘をつく。

 嘘のつけない不器用で誠実なニコと、顔色ひとつ変えず昨晩の出来事を偽ってみせるニコ。レオはいまさらながら自分の弟の本当の姿がよくわからなくなってきた。ただ、予想したとおりニコのイレギュラーな外出がただ肉体的な欲求に突き動かされてのことで、体裁が悪くてレオに話せないだけだとすれば――決してニコを責めることができないと理性では理解する。それでもなお感情で納得できないだけだ。いずれにせよ、ニコがどこで何をしていたのかがわからなければレオのこの気落ちは整理できないに違いない。

 最終的にレオは極めて卑怯な手を選んだ。ハンスの仕事が入っていない晩に、工場に出勤するニコの後をつけることに決めたのだ。

 本当ならば毎日でも様子を見に行きたいところだが、「弟が夜どこで何をやっているか確認したいから仕事を休ませてくれ」などとハンスに話す勇気はさすがになかった。成人した弟の下半身事情を監視するなんて狂気の沙汰だと一喝されるのは目に見えている。

 自分でもなぜこんなに不安なのか、そもそも何を確かめて何をしたいのかはよくわかっていない。例えばニコが売春宿に入って行こうとしたとして、そのときレオはどうするのか。止めるのか、それとも見届けるだけなのか。頭の中は一切整理できていないが、狂おしい不安に駆られ確かめずにはいられない。

 事態は思ったよりはるかにレオを傷つけた。

 後をつけることにした最初の日から、ニコは勤務先の工場があるはずの方向には向かわなかった。いや、正確にはいったんは工場のある郊外に向かうトラムに乗り込み、数駅過ぎたところで周囲を見回して降車する。それから別の路線に乗り越えて向かう先はあの繁華街だった。

 そっと後をつけながら、レオは激しい衝撃に襲われていた。

 ――最初から嘘だった。工場の夜勤など存在しなかった。

 ニコは毎晩レオに嘘をついて、わざわざいったん違う方向のトラムに乗る振りまでした上で、猥雑な夜の街に向かっていたのだ。

 この間ニコを見かけた場所のすぐそばにある降車場で、今日もニコはトラムを降りた。ときおり警戒するように周囲を見回すのは、もしかしたらレオと出くわすことをおそれているのかもしれない。考えるとひどく惨めな気持ちになった。

 通りを西に向かって歩くニコを一定の距離をあけて追いかける。軍人や酔客、夜の街の女などで混み合う街では小柄なニコなど簡単に見失いかねない。見つからない程度に遠く、見失わない程度に近く、レオは注意して歩を進めた。

「おい」

 肩に手を置かれ、後ろめたさからビクッとして立ち止まる。

 驚いて振り向くと目深に帽子を被った男が立っていた。もちろん見知らぬ人物だ。客引きか何かだと思い腕を振り払いニコを追おうとするが、男は再びレオの腕を引く。そして懐かしそうな声色で話しかけてきた。

「おい、そんなに邪険にするなよ。久しぶりじゃないか」

 帽子の下からのぞくのは赤い顔。吐く息は酒くさい。こんな男にはどう考えても覚えはない。客引きでないとすれば酔っ払いの人違いなのだろう。

「すみません、俺、急いでるんで」

 絡みつく手を振りほどき前へ進もうとする。こうする間にもニコはどんどん先に歩いて行き今にも見失いそうだ。レオは男のことがうっとうしくて仕方がない。しかし酔っ払いはそんなこと気にもかけず、しつこく話しかけてくる。

「なんだよ、つれないな。ベルリンで一緒だったじゃないか。覚えていないか、ギュンターだ。ええと、おまえは確か――」

 とうとう我慢できずレオは男を突き飛ばした。こんな酔っ払いに付き合っている場合ではないのだ。

「悪いが人違いだ。俺はベルリンにいたことなんてない」

 強い口調で告げると男は勢いにおされたように黙り込んだ。レオはそのまま男を置き去りに再びニコを追う。しかし人ごみをかき分けて四つ角にたどり着くと、そこにはもう求める弟の姿はなかった。