19. 第1章|1947年・ウィーン

 しばらく周囲を探し回ってみたが、ニコの姿は見当たらなかった。すでにどこかの建物に入ってしまったのかもしれない。

 周囲は細い路地が入り組んでいて、間口の狭い店ばかりがせせこましく軒を連ねている。ただのバーに見える店もあれば、目立った場所に客引きが立ち一見していかがわしい店とわかるものもあった。だが、通りのところどころに明らかに個人で客を取ろうとしている男女の姿があることに気づいてしまえば、店を構えているだけでもまだ行儀がいいようにすら思えてくる。ふとのぞき込んだ路地裏で、酔っているのか人目もはばからず抱き合い身をくねらせているカップルを目するに至っては、心底うんざりした気分になった。

 一体ニコはどこに消えてしまったのか。絶望的な気分で歩道の段差に座り込んだレオの元にもすかさず客引きの女が近寄ってきて、濃い香水の匂いはむっと鼻を刺激する。

「どうしたのお兄さん浮かない顔して。安くしておくから気晴らししていったら?」

 顔を上げることすらおっくうで身振りだけで追い払おうとすると、気分を害したのか女は「なによ、感じ悪い」と捨て台詞を吐いて去って行った。

 レオは膝に顔をうつぶせてしばらくそのまま動けずにいた。こんな猥雑な街に通っているニコ。人見知りで子どもっぽい弟と、酒とたばこと精液ともしかしたらドラッグの匂いすら漂うこの街のイメージは一切重ならない。

 どれくらいそうしていただろうか、レオはのろのろと立ち上がった。今日はこれ以上留まってもニコを見つけることはできないだろう。また明日、いや、明日はハンスの仕事があるから明後日にでも出直そうと心に決める。

 それにしたって、こんなもやもやした気持ちを抱えたままで、朝には素知らぬ顔で帰宅するニコと普段どおり会話を交わさなければならないと思えば、それは一種の拷問のようだ。もしくは勇気を出して問い詰めてみるか。

 苛立ちの半分は自分に嘘をついていたニコに向けたものだが、残りの半分はレオ自身に向けたものでもある。ニコに嘘をつかせてしまうような自分に。もしくは、弟の嘘を正面切って確かめる勇気を持てずにいる自分に。

 よろよろと数メートル進んだときだった。突然目の前の扉が勢いよく歩道側に開いた。酔っているのか、軍服を着た大柄な男が勢いをつけて飛び出してきたのに驚きレオは思わず数歩後ずさる。そして、あわててその後を追うように出てきたのは――なんとニコだった。

 先に出てきた男はソ連の軍服を着て、ひどく酔っているのか赤ら顔をして機嫌良さそうに調子外れの鼻歌を口ずさんでいる。駆け寄ったニコは、何事か話しかけながら足下をふらつかせた男の背中に腕を回し体を支えた。

 一体これは、なんなんだ?

 心臓が止まるほどの驚き。少し遅れて腹の奥に怒りが湧き上がる。一体ニコはこんなところでソ連兵相手に何をやっているのか。すぐにでも駆け寄って二人を引き離したい衝動に駆られたが、すんでのところで思いとどまる。暗闇のせいもあってか、背後の近い距離にいるレオに、ニコは一切気づいていないようだった。

 ソ連兵は背中を支えて寄り添うニコの腰に手を回し、不自然に顔を寄せては唇が触れそうな距離で語りかけている。男に対してはもちろんのこと、その馴れ馴れしい腕や顔を振り払おうともしないニコに対しても腹が立つ。

 そして、寄り添う影は突如消えた。いや、消えたと思ったのは間違いで、男はニコの腰を抱いたまま明かりすらない路地裏にふっと入り込んだ。わずかに戸惑い抵抗するような動きを見せるニコの腕を封じ、耳元に何やらささやきかける。そして、おとなしくなったニコの手を男が取る――それだけで十分だった。

「おい、何やってるんだ」

 重なる影に向かってレオは大声をあげた。大柄なソ連兵はニコの手を握ったままのろのろと面倒くさそうに顔を上げる。その腕の中のニコもはっとしたように顔を上げ、歩道の街灯に照らされたレオの顔を認めると顔色を変えた。

 レオは一歩踏み出しニコの腕をつかむと力任せに引いた。勢いソ連兵にも近づくことになり、鼻先にぷんぷんと漂ってくるアルコールの匂いに強い吐き気を催す。しかしようやく邪魔者の存在を認知した男も黙ってはおらず、手を伸ばしてレオの腕をねじり上げた。何ごとか大声でわめいているがロシア語なのでレオにはわからない。力の差は大きく、あまりの痛みに思わず手を離したところでニコを奪い返された。

「離せ。貴様、俺の弟に何しようとしている。ふざけるな」

 興奮したレオは感情のままに叫びながら再び突進するが、鍛え上げた大男相手に力で叶うはずもない。太い腕を一振りされると体が後方に跳ね飛び、勢い余って路上に尻餅をついて倒れる。

 レオの無様な姿を前にニコは明らかに動揺した。興奮してレオに向かってさらなる攻撃を加えようとするソ連兵に、ニコは一生懸命なにやら話しかけ落ち着かせようとしているようだった。ニコがロシア語を話せることを、レオは今この瞬間にはじめて知った。

 男はしばらく不満げにレオを指さしては激しい口調でまくしたてていたが、最終的にはあきらめたのか、ニコをその場に置き去りに、ぶつぶつと文句らしきものをつぶやきながら大股で去って行った。もちろんレオの横を通り過ぎる際に顔につばを吐きかけることは忘れない。

 後には、路上に倒れたレオと呆然と立ちすくむニコが残された。

 レオは屈辱的な思いで頰に吐かれた唾を拭ってからゆるゆると上体を起こす。倒れた拍子にどこか噛んだのか、口の中にじんわりと血の味が広がった。ニコが目を泳がせながらゆっくりと歩み寄ってきて、尻餅をついたままのレオを助け起こそうと手を伸ばしてくる。怒りにまかせてその手を振り払うと、ニコはうつむいてぐっと唇を噛み腕を引っ込めた。

 あからさまに後ろめたさを見せつけてくるニコの態度がまた癪にさわった。すぐにでも言い訳をまくしたてればいい。偶然飲みに入った店で隣になった酔っ払いがふらついていたのでついてきただけだとか、何かしら自分を安心させるような言葉が欲しかった。しかし、嘘の上にそんな言い訳を塗り重ねられたところで、ただ怒りと絶望が増すだけだということもわかっている。

 こんな場面が見たかったわけではなかったのだ。

 あんなに不安を抱えながら、嘘にショックを受けながら、自分はまだニコに期待していたのだと思う。結局は何事もなかった、大した秘密ではなかった、心のどこかでそんな結果を思い描いていた。今となってはそんな自分の甘さすらひたすらに惨めで滑稽だ。

 レオは黙って立ち上がり、足元に血の混じったつばを吐いた。ニコがちらちらと先ほど出てきた扉の方を気にしていることに気づく。まさか戻ろうとでもいうのか、冗談じゃない。レオはニコの腕を強い力で引くと店とは正反対の方向に歩き出した。

 夜の道を一時間あまりも家まで歩く間、レオは決してニコの腕を離さなかった。もしもここで手を離してしまえば、ニコは籠から放たれた蝶のようにどこかへ飛び去り、そのまま永遠に戻ってこないような気がした。ニコは抗うことなく腕を引かれるままに大人しく後をついてきた。二人は長い道のりを一言も言葉を交わさずに歩いた。

 家に着くと、レオはニコを部屋の奥に向けて突き飛ばし後ろ手でドアを閉める。ニコは逃げるように寝台の方へ数歩後ずさり、その振る舞いはレオの怒りを増幅させた。嘘をついたのはニコで傷ついたのは自分であるはずなのに、なぜニコはこんな被害者めいた姿を見せるのか。

 ゆっくりと積み上げてきた信頼関係も、家族としての愛情も、何もかもが突き崩された気がする。何よりニコの怯えきった目はとても兄を見るものとは思えない。

 レオは今まさに、自分とニコの間にある何か決定的なものが失われていると感じた。両手にすくった砂のように、指の間からさらさらとこぼれていくそれを、しかしどうすることもできない。

「ニコ」

 名前を呼ぶ。ニコは緊張した目でレオを見返す。一歩近寄るとニコはびくりと肩をふるわせた。

「なんで黙っているんだ。言いたいことがあるんじゃないのか」

 それでも黙っているのが気にくわなくて、左手を伸ばし胸ぐらをつかむ。

「おまえがロシア語を話せるなんて、知らなかったよ」

「ゲットーにいた頃にスラブ系のユダヤ人と一緒に仕事をしていたから、そこで覚えたんだ。隠していたわけじゃない」

 絞り出された小さな声。しかし別にそんな話が聞きたかったわけではない。ぐいと腕に力を込めてレオはニコの顔を上向かせる。恐怖のためか顔はすっかり色を失い、ヘーゼルの瞳は暗く虚ろで奇妙に静かだった。

「工場の夜勤じゃなかったのか。毎晩わざわざトラムを乗り換えてまであんな場所に……俺を騙すためか」

 問い詰めるレオの言葉は情けなくも震えた。

「あれは――」

「あの店はどんな店だ。おまえはあそこで何をしていたんだ。話せ。場所は覚えているから、嘘をついても確かめにいく」

 襟首をつかまれているせいで息がつまるのかニコは苦しそうな表情を見せたが、まるでかわいそうだという気持ちは浮かんでこない。

「言えよ、ニコ」

 体を揺さぶると、ニコはあきらめたようにつぶやいた。

「ごめんなさい」

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