20. 第1章|1947年・ウィーン

「それは、何についての『ごめんなさい』なんだ?」

 詰め寄るとニコは再び目を伏せた。厚いまつげが小刻みに震えていることに気づき、ひどい折檻をしているような気分になったレオは舌打ちをして襟首をつかんでいた手を離す。脚に力が入らない様子のニコはそのまま力なくへたりこみ、ベッドにぺたんと座り込んだ。

「まったく、どういうことだ。俺は今までおまえ自身もおまえの言うことも、完全に、無条件に信じてきたのに」

 レオはニコと並んでベッドに座った。両手で顔を覆い大きくため息をつく。向かい合うことをしなかったのは、正面からニコの顔を見て話をすることが怖かったからだ。弱々しい反応を見せられ事実を明らかにする勇気をなくすことも怖いし、これ以上の内容をニコの口から聞かされ傷つくことも怖い。

「ニコ、おまえがあそこに行くのが初めてじゃないってことは知ってる。アリバイを作るみたいに、いったん別の方向のトラムに乗ってから引き返しているのはそういうことなんだろう。わざわざ俺に嘘をついてまでやっていることだから、ろくでもないことだっていうのも想像はつく。事情を聞いて怒らない自信もないが、これ以上嘘をつかれるのは耐えられない」

 レオが続けてまくしたてると、ニコは膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめ、観念したように語りはじめた。

「工場には最初から行ってない。ここのところ、夜の間はあの店で働いてた。あそこはお酒を出すお店で……そこで、ちょっとした手伝いや雑用とか。工場より割がいいから」

 お酒を出す店、とニコは遠回しな表現をするがレオだってばかではない。あそこがホイリゲやパブのような健全な場所でないことくらいはわかる。

「周囲を娼館やら何やらに囲まれて、ずいぶんお上品な店みたいだな。客は泥酔した軍人で、さっきのあいつはおまえを連れ出してどうしようとしてた」

 あきらめの悪いニコに引導を渡すかのようにレオは核心に迫る。ニコに嘘をつかれていたこと、ニコがいかがわしい夜の店に出入りしていたこと、もちろんそれらも重要だが、何よりも今レオの心をかき乱しているのは、さっき目にした光景だった。

「誤解だ。あの人とは何も」

 軍人との関係に言及されたニコは弾かれたように立ち上がり、レオの目を見て強く否定する。だが、その言葉を素直に信じるような気には到底なれない。

「何が誤解だよ。じゃあ、俺がさっき見たのはなんだ。おまえの腰に手を回して暗がりに連れ込んで、一体あいつは何をしようとしていた」

「だからそれは、酔ってふらついて……」

「あそこで俺が声をかけなかったら、ニコ、おまえ――」

 言い終わる前に、頬に鋭い痛みが走った。

「なんでそんなことを」

 呆然とつぶやくニコに、レオはかっと頭に血がのぼるのを感じた。

「だっておまえ、拒まなかったじゃないか」

 ひどいのはどっちだ。品行方正な顔で俺を騙していたくせに、ちょっと図星をつかれれば被害者面し、言葉で敵わなければ震えながら手を上げるのか。まるでそうすればレオが同情し、怒りも叱責もおさめるだろうとたかをくくっているかのように。

「なんでだよ……俺からは逃げたのに」

 そこで押し隠していた激しい感情が一気にあふれだした。一体自分はいつから何を我慢して、何から目をそらしてきたのか。自分でもよくわからない質量の感情が一気に押し寄せ、レオは完全にコントロールを失う。

「ニコ、おまえは俺に少なくとももうひとつ嘘をついているだろう。気づいてないとでも思ってたのか」

「何のことだかわからない」

「忘れたとは言わせない。去年だったか、おまえがハンスの家から雨に濡れて帰って、高熱を出して寝込んだ夜。あの夜のこと何も覚えていないなんて、そんな白々しい話あるわけないだろう」

 レオの言葉に、ニコの目が泳いだ。

「あのとき、罪だと言って俺の腕にひどく噛みついたな。血が出て、歯形がしばらく消えないくらい強く。なのにその罪を、あの兵隊相手なら拒まず受け入れるのか。あいつはそんなにいい男か。それとも金でももらったのか」

 考えるよりも先に言葉が出る。奇妙な話ではあるが、レオは自分の口から淀みなく発せられる恨み節を聞いて初めて自分があの夜の出来事をどう受け止めていたのかを知った。

 そうだ――レオは、あのときニコに拒まれたことに傷ついていたのだった。本当はあの時もっと触れたかった。それは夢うつつだったからでも長い禁欲生活のためでもなく、あのときレオはただひたすらニコに触れたかったのだ。

 欲望は、気づいてしまえばおしまいだ。レオはニコの肩に手をかけて、その体をゆっくりと押してベッドに倒した。

 驚き、屈辱、怒り、恐怖、諦観。そのどれともいえない表情をたたえたニコは唖然としたままレオを見つめ返した。

「ニコ」

 名前を呼ぶ。返事はない。レオは横たわったニコにかぶさるように体を重ね、硬く強張った体をぎゅっと抱きしめる。

「ニコ、頼むから俺を裏切るな。頼むから俺を拒むな」

 祈るようなレオのつぶやきに、ニコは何も言わず悲しそうにただ目を閉じた。

 焦りのせいか感情の高ぶりのせいか、シャツを脱がそうとしてボタンをいくつか飛ばした。

 二度目に触れる体は前のようにたやすく甘い反応を返すことはない。弱いところだと知っているはずの耳に触れ、首筋をなぞり、胸の突起を強く摘むと初めてニコはびくりと体を震わせたが、甘やかな吐息がこぼれることはなく、代わりに唇はぐっと一文字に引き結ばれた。尖らせた舌でへそをくすぐられても、その下の淡い茂みを探られ横たわる性器を握り擦られても、眉根を寄せて目を閉じてニコはただ歯を食いしばって耐える。

 反応を返さない体にむきになり、レオはさらにしつこくニコの体をまさぐり続けた。強く、弱く。乱暴に、そして優しく。ニコがあくまで意地を張り続けるなら、レオはその頑なさが崩れるまで行為をより深く激しいものにしていくだけだ。

 触れてもこすっても反応しない小ぶりなペニスは、温かな口に含まれてはじめて震え、唇や舌先、喉まで使った愛撫にとうとうニコは陥落した。ぴんと立ち上がった先端から盛り上がった蜜が一筋茎を伝い落ちると、まるで決壊したかのように、そこからとろとろと透明な液体がとめどなくあふれはじめる。ニコはゆるゆると首を振るが、それがなけなしの拒絶なのか、もしくはただ快楽を逃がそうとしているだけなのかはわからない。

 しつこく口と手で触れ続けるうちにニコは我慢できず射精した。どんな風に、どんな顔で達するのかとかつて妄想したニコのエクスタシーは静かで悲しいものだった。ただ歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じて声もなく体を震わせた。

 気づけばレオの性器も痛いほど勃起していた。どうするか、と迷う間もなくレオはニコの体を裏返し、強引に四つん這いの体勢を取らせた。自分でも不思議なほど自然な動きでニコの体の奥まった場所に手を伸ばしきつい窄まりに触れると、かすれた声で「……お願いだから」と懇願された。だが、ニコの命乞いをレオは無視する。

 ニコの精液と自分の先走りを指にすくい、夢中でそこをほぐす。ニコは決して慣れている様子ではないが、だからといって未経験といった風でもなく無意識に腰を上げ自ら苦痛を和らげる動きを見せた。誰かがすでにここに触れたのかと思うと再び残酷な怒りが増し、結局レオは十分にほぐさないままのそこに、強引に自らをねじ込んだ。

 そこから先のことははっきりとは覚えていない。レオは夢中になって腰を使った。途中からはニコも熱い息をこぼしていたような気がするので、もしかしたら少しは快楽を得ていたのかもしれない。しかし、体の奥に放ってからようやく自由にしてやったニコの体には、少量ではあるものの血がにじんでいた。

 荒い息がおさまると部屋には静寂が戻る。いつのまにか燃料が切れたのかランプの明かりが消えた完全な暗闇の中、レオは力なくベッドに横たわったニコをぎゅっと抱きしめた。ぴくりとも動かないニコはまるで死人のようだが、腕の中の体は確かに温かかった。

 射精によって興奮が覚まされ、レオは徐々に冷静さを取り戻す。ニコに嘘をつかれた悲しみや悔しさは残っているが、虚しさはそれ以上に大きい。

 二年近く積み重ねてなんとか作り上げてきた家族関係や信頼、そういったものは一気に崩れ去ってしまった。いや、もしかしたらそんなものはとっくに失われていたのかもしれない。生々しい感情から何とか目をそらして家族ごっこをしながら、結局のところレオは、肉体まで含めてニコのすべてが欲しかったのだ。そして、ニコの裏切りを言い訳に勝手な欲望を解放した。

 夜が明ければ今度こそニコは自分を捨てて出ていくだろうか。想像すると胸が張り裂けるように痛んだ。勝手な気持ちだとわかってはいるが、嫌がられても、縛りつけてでもニコを離したくない。

 どのくらい時間が経ったかわからないが、窓から薄い明かりが差し込み狭いベッドの上に二つの裸が浮かび上がる。光に誘われるようにニコがのろのろと体を起こした。あまりに静かなので眠っているのかと思っていたが、いつの間にか目を覚ましていたらしい。

 急に起き上がったニコに追随しようと、レオはあわてて床に落ちたままのシャツに手を伸ばし体を起こそうとした。しかしニコは思いのほか素早い動きでレオの手からシャツを奪い取ると再び床に放る。そして、中途半端に上体を起こしかけたものの、まだ裸で横たわったままのレオを膝立ちでまたいだ。

 朝の光の中に見上げるニコの裸体は白く輝いて見える。ついさっきまでレオに手ひどく蹂躙され傷ついて壊れた人形のように転がっていた人物であるとは信じられないほど、ニコはただ美しかった。

「体を見せて」

 ニコは無表情のまま言った。はっきりした声色だった。

 意図がわからず、レオはニコの前に体を投げ出したままで動けなくなる。さっきとは全く逆の構図だ。

 ニコはまず、レオの体中の傷をじっくりと俯瞰した。ニコを抱いているときは夢中になっていて意識しなかったが、傷だらけの醜い体を見られているのだと思うと気まずく惨めな気持ちがじわりと湧いてくる。

 十分に眺め回してから、ニコは体を前のめりに倒して細い手をレオの頭部へ伸ばした。鳶色の髪をゆっくりとかきわけて、そこだけ毛が生えずすべすべとしている傷跡を指でなぞる。収容所から救出された時に鈍器か何かでひどく殴られたらしいそこは縫合の跡がはっきりと残っている。

 ひとしきり頭の傷を確かめると、ニコの関心は上半身へ移る。引き攣れたような傷跡を丹念にひとつひとつ指でなぞり、左脇のケロイドに唇を寄せる。唇は肌を滑りながらじわじわと下がっていき、手術痕の残る膝に口づけ、ついには骨折の後遺症で曲がったままの足指すら口に含む。

 レオは突然のニコの奇妙な行動にただ圧倒され、されるがままになっていた。それは何か特別で神聖な儀式のようで、敏感な部分を指や唇でなぞられているにも関わらず、一切性感が高まることはない。

 長い時間をかけて全身をくまなく確かめると、ようやく満足したのかニコはレオの胸に頭を乗せたきり動かなくなった。やがてそこにじわじわと熱く濡れた感触が広がる。

 レオは、「ニコはやっぱり、声を出さずに泣くんだな」と思いながら柔らかい髪に手を伸ばした。