21. 第1章|1947年・ウィーン

 出て行かないでくれ、とだけ告げて家を出た。本当ならば仕事を休んで見張っていたいくらいの気分だったがさすがにそう言ってもいられない。

 ニコにあんなただれた場所での仕事を続けさせるつもりは毛頭ない。だとすれば目下レオの収入だけで二人が生活していくことになる。ハンスから受ける仕事の報酬も合わせれば最低限の生活費はまかなえるはずだが、あれだけきつくニコの嘘を責めてしまった手前これからは夜間も家にいることになるニコにどのように副業の件を切り出すかは悩ましい。

 逸脱した欲望の背後にある自分の感情についてはぼんやりと理解したものの、それをどう言葉にするかについては落ち着いて考える必要がある。さらに、その感情を踏まえて一体自分がニコとどのような関係を築きたいのか――難しい問題だ。少なくともレオはニコのことを以前のようにただの弟として扱うことはできない。だが、ニコが同じ気持ちを持ってくれているのかはわからなかった。

 その日、空っぽになった部屋を想像して不安な気持ちで帰宅したもののニコは変わらずそこにいた。それでもレオはニコの行動に口を出すことをやめられず、翌日以降も自分が留守の間はできるだけ外出をしないように言いつけた。ニコの様子は落ち着いていて、口数は前以上に少ないものの二人でいるときの態度は大きくは変化していない。なぜあの行為について何も聞かず責めもしないのかはレオにとっては不気味なくらいだった。

 悩んだ結果、レオはハンスの仕事を少しの間休むことにした。もちろん詳細な事情を話すことはできないので、ただ「ニコが工場をやめた」とだけハンスに伝えた。

「近々ちゃんと説明してニコの了承を得るから、それから再開させてもらえないか」

 他を当たるからもういいと見切りをつけられてもおかしくない程度には自分本位な相談だったが、ハンスは二つ返事でレオの頼みを受け入れた。

「隠し事して後で揉めるより、その方がいいだろ」

 ハンスの寛容さに感謝すると同時に、一体自分は何をやっているのだろうと情けなくなる。気持ちのままに動いてはニコを傷つけ、ハンスに迷惑をかけている。

 数日後、今日こそニコに夜の副業について切り出そうと思い帰宅した日、珍しく部屋にはニコひとりではなかった。ニコ以外の人間がベッドに横たわっているのが目に入りレオは一瞬肝を冷やしたが、うつぶせになったブロンドの小さな後ろ頭は見覚えのあるものだった。

「おかえり」

 椅子に座っていたニコが振り返るが、ベッドにうつぶせたままのラインハルトは顔を上げもしない。ふざけているのかと思い、起こそうと手を伸ばしたところをニコに制止される。

「どうしたんだ、こいつ」

「それが、ちょっと……」

 ニコは言いづらそうに言葉を濁し、声を小さくしてレオの耳元で囁く。

「お父さんと何かあったみたいで、家に帰りたくないって言うんだ」

 普段はレオひとりのときを狙ってくるラインハルトが、苦手意識を持っているニコしかいないにも関わらず部屋を訪れたことにはそれなりの理由があるというわけだ。レオはベッドの縁に腰掛けるとラインハルトに声をかけた。

「おい、人の家に来て居座ろうっていうなら、それなりの理由を話してもらわなきゃ困る。親父とのけんかくらいでこんなに落ち込むわけがない」

 それでも拗ねたように身動きしない少年の頭に手をやり金髪を乱暴にかき回す。ラインハルトはうっとうしそうにレオの手を振り払うと蚊の鳴くような声を絞り出した。

「……オスカルが遠くに行っちゃった」

 とつとつと語った内容は、こうだ。

 ラインハルトは父親であるヘンス氏の前ではオスカルとの恋愛関係を清算した風を装っていたが、ヘンス氏は息子と友人の関係を密かに疑い続けていた。そして、数ヶ月をかけてラインハルトの気が緩むのを待って、あるとき後をつけて二人がこっそり会っていることを突き止めた。

 今回のヘンス氏は周到だった。怒鳴りつけて教会へ懺悔に連れて行ったところで息子が素直に言うことをききはしないと学んでいたので、彼は別の方法を選んだ。ラインハルトの恋の相手であるオスカルの親に相談したのだ。

 話を聞いたオスカルの両親はもちろん仰天した。賢く真面目な自慢の息子がまさか同性と恋愛関係にあるとは思ってもみなかったのだ。

 それ以来オスカルは学校の行き帰りに親の送り迎えがつき、ひとりで家を出ることは許されなくなった。恋人と突然連絡がとれなくなったことにラインハルトは驚き心配したが、どうすることもできずただ気を揉むだけの日々を送った。

 そして今日、父親からオスカルがスイスの寄宿学校に転校したことを聞かされた。ことを深刻に捉えたオスカルの両親は物理的に二人を引き離す方法を選んだのだ。

 オスカルの新しい学校名も連絡先も教えてはもらえなかった。十四歳の少年の初恋に待っていたのはあまりに残酷な結末だった。

「僕、パパなんか大嫌いだ。二度と顔も見たくない」

 話すだけ話したら再び感情が高まったのか、ラインハルトはしくしくと泣き出した。レオとニコは困惑して顔を見合わせる。

 二度と顔を見たくないという気持ちは理解できるが、ヘンス氏がラインハルトの父親であるのは変えようのない事実だし、永遠にここに置いてやることもできない。ただ、今のラインハルトを無理矢理家に帰らせるのも可哀想に思えた。

「ちょっとだけ、待ってて」

 しばらく考え込んでいた様子のニコは急に立ち上がり部屋を出て行く。レオはニコをひとりで外へ出すことに抵抗があるが、あまりにさらりと扉を開けてしまったものだから引き留めることもできなかった。なんとなく落ち着かない気持ちで待つこと十分ほど、ニコが戻ってきた。

「今日はとりあえず、家には帰らなくていいよ」

 いったいどんな魔法を使ったのかと思ったが、ニコは階上のシュルツ夫人に相談に行ったのだった。父親とけんかしたラインハルトが家出してきて今日は帰りたくないと言っている。頭を冷やすためにも一晩だけおいてやりたいのだが、自分たち兄弟はヘンス氏に嫌われているから夫人が預かることにしてもらえないか、と。そしてシュルツ夫人がヘンス氏に電話をかけ、一晩だけという約束で外泊の許可を取り付けたのだという。

「君のお父さんに嘘をつくわけにはいかない。この部屋は寒いし、夜はおばさんの部屋のソファーで寝てもらうことになるよ。それくらいは言うこと聞いてくれるよな」

 ニコの言葉に、泣きはらした赤い目のラインハルトはこくりとうなずいた。

 夜、シュルツ夫人の部屋にラインハルトを送り届けてしまうと部屋にはまた二人だけになる。

「さすがにちょっと、かわいそうだな」

 レオは言った。真実の愛だなんだと意気揚々と語っていた姿を見ているだけにいたたまれない。ニコもうなずいて、ぽつりとつぶやく。

「子どものことだから物理的に距離をおけばすぐに忘れるって思ってるんだろうけど……、本当にそうなのかな」

 ラインハルトの件については終始現実的な対応を口にしてきたニコからそんな言葉がでることが、レオは不思議でもあった。

 翌朝、レオが仕事に出かけるついでにラインハルトを家まで送ることにした。

 一晩経って少し落ち着いたようではあるが、泣きはらしたラインハルトの目は腫れて、まだ不機嫌そうな顔をしている。子どもの恋愛だからといってそれが本気でないとも限らない。少なくとも今の感情に嘘はないので、好きな相手と引き離されるのはどうしようもなく辛いだろう。自分がもし今ニコと引き離されたら――想像するだけでぞっとした。

「元気出せよ」

 歩道を歩きながら声をかける。ラインハルトは返事をしない。

「おまえがオスカルの連絡先を知らなくても、オスカルはおまえの住所を知ってるんだろう。賢いオスカルなら、そのうち方法を見つけて連絡してくるさ」

 無責任に期待をもたせすぎるのも残酷だとわかっているが、あまりに不憫なのでつい甘い言葉で安心させてやりたくなる。

「ラインハルト、オスカルとの間にあるのがおまえが言っていたような『真実の愛』なら、これくらいの障害は乗り越えられるだろ。これこそ神様に試されてるだけなのかもしれないじゃないか。負けずに貫いていつかオスカルを迎えに行ってやれよ」

 ぽんぽんと肩を叩いてやると、ラインハルトは小さな声でうん、とうなずいた。

 ヘンス氏には会いたくなかったので、ラインハルトの家まであと一ブロックのところで別れる。レオは引き返し仕事場へ行くためトラムの乗車場へ向かった。

 しばらく歩いたところで肩を叩かれた。振り向くと目深に帽子をかぶった男が立っている。

「よお」

 誰だろう。見覚えがあるような、ないような。

 レオがうろんな顔をしているのに気づくと男は「ほら、数日前に街で」と付け加えた。それでようやく思い出す。ニコの後をつけていった歓楽街で、レオを知り合いと勘違いして話しかけてきた男だ。しかし、人違いだと言ったはずなのになぜ一度ならず二度も。しかもこんな場所で。不気味に思ったレオは男の体をはねのけ先を急ごうとするが、しつこく追いすがって来る。

「この間は悪かったよ。あんな目立つ話しかけ方をして」

 男はレオの耳に唇を寄せた。ささやくような話し方が不愉快だ。

 はっきりした根拠はないが、この男は危険だという確信があった。そして、続けてささやかれた言葉の意味はレオには理解できなかった。

「警戒しているのはわかるよ。おまえもここに〈潜って〉るんだろう?」

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