24. 第2章|1933年・ハンブルク

 学校から帰ると部屋に投げるようにカバンを放り込みまたすぐに出て行く。その背中にキッチンからしゃがれ気味の声が追いかけてくる。

「ユリウス坊ちゃん、どこに行くんですか? おやつは?」

「いらない、ニコのところ」

 せっかく準備してくれていたナタリーには悪いが、週の半分はこの調子だ。買ってもらったばかりの新しい自転車にまたがりユリウスは脇目も振らずニコの家に向かう。

 坂もない平地を自転車だとほんの五分かそこら。呼び鈴を鳴らすと少し間を置いて玄関のドアが開き、ニコが出てくる。学校に上がりいくらか人見知りが改善したユリウスだが、実は今もよその家をひとりで訪問するのは苦手で、躊躇なく呼び鈴を鳴らすことができるのはニコの家だけだ。

「いらっしゃい」

「いらっちゃい」

 ニコの声にかぶさる舌足らずな歓迎の言葉はレーナのもので、彼女はついこの間、三歳の誕生日を迎えた。彼らの母親は最近ニコが帰宅するとレーナのお守りを頼んで出かけて行く。ニコの父は港の近くで貿易業者を相手にした会計事務所を営んでいて、その手伝いなのだという。そして午後の短い時間この家は子どもだけになる。

 人見知りであるはずの息子が頻繁に外出するようになった当初、ユリウスの父はナタリーからあれこれ聞き出そうとした。

「グロスマンさんのお宅ですよ。この街では評判の良い会計士ですわ。お坊ちゃんたちも良い子だと」

 会計事務所が何をするところなのかユリウスにはわからないが、ニコの父親の仕事はユリウスの父の「お眼鏡にかなった」らしい。おかげでニコの家に入り浸ることはなかば父親公認になった。

 レーナの人形遊びに付き合っていると、じきレオが帰ってきた。ニコと三歳違いの兄であるレオはギムナジウムに通い始めて二年目になる。小学校に通っている頃から賢いことで界隈では名が知れていて、ギムナジウムへの進学選考でもトップクラスの成績を収めたのだという。もっともそんな話もユリウスは当事者であるニコの一家からではなく自分の父親から聞いた。「ユダヤ系だが、付き合うには悪くない相手だな」と父は言っていた。

 二階の自室に荷物を置いて降りてきたレオは、人形を手に遊んでいる弟たちを見つけると目ざとく声をかけてくる。

「おい、おまえたち宿題は終わったのか」

「えっと」

 ニコが気まずい顔をする。帰宅後間もなくユリウスが遊びにきてしまったのだから、当然終わっているはずはない。言いよどむニコに向かってレオは苦笑する。

「レーナと遊ぶのもいいが、さっさとそっちを済ませろよ。ほらユリウス、おまえも一緒に見てやるからこっちに来い。知ってるんだぞ、この間の綴り方のテスト散々だったんだって?」

「あ、ニコのばか。レオに言いつけたな」

 ユリウスはニコを軽くにらみつける。確かにあの日のテストは自分でがっかりするほどひどい出来だった。回答用紙はそっと処分してしまい、父親も、ナタリーですら結果は知らないはずだ。あの散々な結果を見せたのはニコだけだったのに、人に話してしまうなんてひどい。

「だって、ユリウスがこのままじゃ同じ学校に入れないって半泣きで見せてきたんじゃないか。だから、今度から一緒に兄さんに勉強見てもらった方がいいかなと思って」

「そりゃそうだけど」

 ユリウスは唇を尖らせた。

 ユリウスとニコは小学校の三年生で、あと一年少しで将来を見据えて中等教育に進むことになる。この国の子どもたちは中等教育の段階で、大学進学を目指すためのギムナジウムや職業教育に向けた実科学校レアルシューレ基幹学校ハウプトシューレなどに進路が分かれていく。二人もそろそろ小学校卒業後のことを考えはじめる時期だった。

 いや、ニコについてはレオの後を追ってギムナジウムに入るであろうことはすでに確定していると言っていい。本人もそのつもりだし成績もまったく問題ない。ユリウスはニコほど成績が良いわけではないが、父親は間違いなくギムナジウムへの進学を期待しているし、何よりユリウスだってニコと同じ学校に進みたかった。

 居間のテーブルにニコとユリウスは並んで座らされる。向かいにはレオ。課外授業の始まりだ。すると、すぐに幼児用の小さな椅子を引きずってレーナもやってきた。

「レーナもしゅくだい、やる!」

「わかったよ」

 レオはレーナを膝に抱き上げて手元の紙を差し出す。レーナはご機嫌でミミズののたくったような絵を描き始めた。

 出会って間もない頃、兄弟はいないのかとニコに聞かれた。当時まだレーナは生まれたばかりだったが、面倒見の良い兄に可愛がられて育ったニコにとって、兄弟のいない生活は想像がつかないものなのだろう。

 グロスマン家の三人の子どもは一目で兄弟とわかるほど良く似ている。少し癖毛気味なのか、柔らかい髪は濃い茶色で目はヘーゼル。両親ともにあまり骨太な方ではなく、子どもたちも一様にほっそりしていて色は白く鼻や口も品良く小さい。

 兄弟か――ユリウスは思う。

 確かに学校で周囲を見ても、ひとりっ子は多くない。その点はユリウスの父も気にしているのか、たまに「おまえも、母親や兄弟が欲しいか?」と聞いてくることがある。もっともそれは大抵酒を飲んで前後不覚に酔っ払っているときで、ユリウスがどう答えようと翌日にはさっぱり忘れ去られているのだが。

 正直グロスマン家で遊ぶのは楽しい。レオは優しくて頼りになるし、勉強も教えてくれる。レーナはたまにうっとうしいこともあるが可愛いといえなくもない。でも、ユリウスはニコをうらやましいと思ったことは一度としてなかった。

 自分がニコに取って代わってレオやレーナと暮らしたいか。そんなことはない。ユリウスはどちらかといえば自分をレオやレーナと取り替えて欲しい。そうすればニコとずっと一緒にいられるから。こういう考えは兄弟が欲しいというのとはちょっと違うのではないだろうか。

 宿題を終えた頃、時計を見たニコが「そろそろ帰らなきゃいけないんじゃない? ユリウス」と言い出す。ユリウスの家では父と息子が必ず揃って夕食をとると決まっており、遅れて帰るとその晩の食事は抜きになる。これは、ユリウスが小学校に上がるときに父親が作ったルールだった。

 息子と一日一度は確実に交流の時間を持とうとしているのかもしれないが、工場を経営する父親は帰りだけは早く、結果としてユリウスの夕方の自由時間にも大きな制約が設けられている。

 ユリウスは後ろ髪を引かれるような気持ちでレオとレーナに別れを告げてグロスマン家を出る。ニコは見送りに外までついてきた。

 自転車にまたがりペダルを漕ごうとしたときに、タイヤの空気が抜けていることに気づいた。

「あれ?」

 サドルから降り、しゃがみこんでタイヤを確かめる。来るときはなんともなかったはずなのに。

「なんだよ、これ」

 タイヤに触れてユリウスは顔をしかめた。真新しい自転車のタイヤは前輪も後輪も鋭利な刃物で切り裂かれていた。よく見ると自転車のカゴには紙切れが投げ込まれていて、そこには赤い大きな字でこう書いてあった。

 ――汚いユダヤ人は出ていけ

「ごめん……ここに置いてあったから、うちのだと間違えられたのかも」

 ニコの顔が曇った。

 一月に、アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に任命された。

 ユリウスはヒトラーという人物をよく知らない。なんとかいう政党の党首で、以前にクーデターに失敗して刑務所に入っていたのに今では首相になっているらしい。刑務所に入るのは悪い人であるはずなのに、その悪い人が数年後には国で一番目か二番目に偉い首相になるというのはどうにも不思議でたまらない。以前夕食のときに父親に訊ねると「そういうこともあるんだ」というぶっきらぼうな答えしか返ってこなかった。

 家に遊びにくる父親の仕事仲間が「ヒトラーは低迷するドイツ経済を立て直してくれる素晴らしい政治家で、愛国者だ」と話しているのを聞いたことがある。しかし、ヒトラーが首相になって以来ラジオからは頻繁に耳を塞ぎたくなるようなけたたましい演説が流れてくるし、「国会が放火された」とか「共産主義者大量逮捕」とか、きなくさい言葉ばかり新聞に並ぶようになった。

 ユリウスが一番嫌な気持ちになるのは、ヒトラーがユダヤ人の悪口を言うことだ。

 ラジオで聞いたところでは、ドイツが前の世界大戦で負けたのはドイツ軍の中にいるユダヤ系の人々がちゃんと戦わずに足を引っ張ったからであるらしい。そのせいでドイツは戦勝国にたくさんの賠償金を払わなくてはならず、景気が悪くなってしまった。だから、裏切り者のユダヤ人を追い出せばドイツはずっと暮らしやすい国になるのだと。でも、ナタリーの夫はその戦争で死んでしまったと聞いたことがある。死ぬまで戦ったのに裏切り者と呼ばれるのは可哀想に思えた。

 もともと多くのユダヤ系市民が暮らしているハンブルクでは、一見街の様子は変わらない。しかし、中にはヒトラーの言葉に同調する市民もいるのか、ごく稀にひどいことを叫びながら街を歩く集団を見かける。ユリウスが足を向けることはまずないが、ユダヤ教の教会であるシナゴーグのある地域では、ときどきガラスが割られたり建物に落書きされたりするようだ。

 でも、ニコの一家はユダヤ教ですらなく、日曜にはユリウスと同じ教会に通うキリスト教徒だ。ユダヤ人というのはユダヤ教を信じてシナゴーグに通う人たちのことで、ニコたちのようにユダヤの血を引いていても改宗している場合はユダヤ人とは言わないのだとも聞いたことがある。その辺りの理屈はユリウスには難解だ。

 いずれにせよ、今目の前にあるこれが理不尽な暴力であることは間違いない。

「兄さんの自転車、代わりに乗って行っていいか聞いてくるね」

 室内に戻ろうとするニコを、ユリウスは制す。

「いい、押して帰るから」

「でも、ユリウスそれじゃ夕食の時間に間に合わない……」

「いいから!」

 ユリウスは、この紙のことを他のグロスマン家の人々に知られたくないと思った。うろたえたままのニコの目を正面からのぞき込んで、念を押す。

「いいか、ニコ。このことは俺とおまえだけの秘密だ。おじさんにもおばさんにも、レオにも言っちゃダメだからな。あと、もしまたこんなことがあったら絶対に俺に教えろ。俺が犯人を見つけてぶん殴ってやる」

「う、うん……」

 ニコはユリウスの勢いに押されるようにうなずいた。

 往路はほんの五分ほどだった道のりだが、タイヤのパンクした自転車を押していたせいで帰りは数倍の時間がかかった。途中にある公園のゴミ箱に例の紙を細かくちぎって捨てた。

 汚いユダヤ人なんて、そんなひどいこと一体誰が言うのだろう。まったく意味がわからない。ユリウスは自分の明るい鳶色の髪と緑の目よりもニコの落ち着いた茶色い髪や目の方がずっとずっときれいだと思っている。

 その日、ユリウスは夕食の時間に遅れた。父親は食事抜きの罰を言い渡すときに「言い訳があれば、聞くぞ」と付け加えた。しかしユリウスは自転車の件は父親に話さないことに決めていた。

 翌日、学校に行っているあいだに自転車をタイヤ修理に持って行ってくれるようナタリーに頼んだ。

「でこぼこの道を走ってたらパンクしちゃったんだ」

 ズタズタに裂かれたタイヤとユリウスの顔を何度か見比べてから、ナタリーは「そうですか」と小さくつぶやいた。

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