25. 第2章|1934年・ハンブルク

 一九三四年の九月にユリウスとニコは揃って進級した。そして、進級してから最初の一ヶ月の間にユリウスは教員控え室に三度呼び出された。

「なんでおまえはすぐに暴力を振るうんだ。幸い怪我がなかったからいいが、椅子なんか投げて当たりどころが悪ければ大変なことになるぞ」

 教師の呆れ果てたような言葉に、ユリウスは悔しさを殺すようにぎゅっと拳を握り締める。だが「なんで」に答える気などさらさらない。

「これ以上繰り返したら、お父さんに連絡するぞ」

 この脅し文句は少しは有効だ。父親に度重なる暴力沙汰のことがばれたらきっとひどく叱られる。でも、次回同じことがあったときにまたあいつらを殴らないという約束はどうしてもできない。

 実のところ、三対一のけんかではユリウスだって殴られた。しかしそれを訴えたところで教師の同情が得られないことはわかっている。前回もその前も似たようなことで叱られた。三年生のときにも同じようなことが何度かあったから、手のかかる乱暴者というレッテルが自分に貼られていることをユリウス本人も自覚しているのだ。

 そういえば、昨年風紀指導の担当だった教師はいつの間にかいなくなってしまった。穏やかな初老の教師で、ユリウスに対してもけんかはいけないことだと諭しながらも決して頭ごなしでなく話を聞いてくれた。

 ユリウスはその教師のことが好きだったが他の生徒は必ずしもそうではなかったようだ。学期も最後に差し掛かる頃だったか、悪ガキグループに属するクラスメート数人が授業中に「先生、お父さんがユダヤ人の授業なんか聞かなくて良いって言ってました」と言って笑い転げていた。

 学校から教師が消えていく。別の国に引っ越すとかユダヤ学校へ移るとか、表面上は普通の退職や転籍だと済まされてしまうが、理由がそれだけではないことに子どもたちも薄々勘づいている。

 残った教師の中にもあからさまに担任や主任から外される者がいて、ませた生徒は「だって、あの先生ユダヤ人なんだって」と口さがない。気づけば「偉い先生」はナチ党の赤いバッジを付けた教師ばかりになっていた。

 奇妙だった。一日一日は静かに、目に見える変化なしに進んでいるのに、振り返れば驚くべき勢いでいろいろなことが変わってしまっている。

 一年前は多くの生徒がばかみたいだと笑っていたヒトラー式敬礼が、いつの間にか当たり前のように朝礼で行われるようになった。街中ではところどころに「ユダヤ人の店で買うな」「ユダヤ人お断り」といった類の張り紙を見かける。色々な場所でニュース映画がかかっているが、どれも怒鳴るような大声で演説するあのちょびひげの姿ばかりを映している。ユリウスにとって彼の演説はコメディ映画のようにすら映るのに誰もあれを観ても笑いはしないのだ。

 最近ナタリーはときたま買い物に出かけたはずなのに手ぶらで帰ってくる。一見してユダヤ民族であることがわかる特徴的な外見をした彼女に物を売ることを断る店があるからだ。気丈なナタリーは屈辱的な出来事について決して話そうとしないので、ユリウスは自らお使いをかってでるようにしている。ユリウスの父は淡々と以前と同じ生活を続け、変わっていく世の中に怒りを示すこともなく、かといって過剰に流されることもない。

 どんどん敵が増えていく世界で、ユリウスは安全地帯が少しずつ減っていくのを感じていた。自分の家は安全。ニコの家も安全。街は半分危険。そして学校は――危険地帯。

 ユリウスのけんかの理由はいつだってニコだ。賢くて優しいニコは一年生の頃から派手に目立つわけではないが誰からも愛される生徒だった。それこそ同じ人見知りでも、はにかみながらそっと笑って相手に手をさしのべるニコと、むすっとしてそっぽを向いてしまうユリウスは対照的だった。

 時間が経つにつれてユリウスはユリウスなりに学校生活になじみはしたものの、つい少し前までは「なぜニコがユリウスなんかと仲良くするのか」という陰口すら聞こえてきたものだった。それはユリウスにとっては悪口である反面、自分がニコに選ばれた特別な人間であることを周囲に認められたようで誇らしくもあった。

 しかし最近では少し様子が違う。あちこちからニコのことを悪く言う声が耳に入ってくる。あいつの家はユダヤ人だから、ずるいことをして金を儲けてるに違いない。そんな心無い言葉を聞くたびにユリウスは我慢できず相手に殴りかかってしまう。

 ニコは何を言われても黙っているし、以前はあんなに「ニコは兄さんに似て優秀だから、将来が楽しみだ」と口々に褒めていた教師たちも最近はどことなくニコに対してそっけない。ユリウスは、ニコの名誉を守ることができるのは自分だけだとある種の責任感のようなものを抱くようになっていた。

 そして今日、ユリウスは激昂した。一部の子どものニコへの暴力はついに言葉にとどまらないところまでエスカレートしていた。

 三人組は特にたちが悪いとユリウスが警戒していた面々で、普段から何かと自分たちはヒトラー・ユーゲントの下部組織の一員であるのだと威張りくさっていた。知っている、あのちょびひげ野郎を尊敬する少年たちの団体。でも、そんなものをありがたがる方がどうにかしている。

 最も体が大きな少年に突き飛ばされて小柄なニコはそのまま床に倒れこんでしまったようだ。起き上がれないように腹のあたりを足で踏みつけ、彼は仲間に向かって言う。

「こいつユダヤ人なんだぜ。知ってるか? ユダヤ人のちんちんって変なんだって。赤ん坊のときに先っちょ切っちゃうんだって」

「うわあ、気持ち悪い」

「ちょっと見せてみろよ」

 三人は一気にニコに襲いかかる。

「してない、僕はユダヤ教徒じゃないから」

 必死に否定の言葉を述べた後で、効き目がないとわかったニコは反論をあきらめる。虫のように丸くなって体を守ろうとするが三人がかりで飛びかかられてはひとたまりもない。背中側からズボンを強く引っ張られて白い臀部がのぞく。

「嫌だ」

 悲鳴があがると同時にちょうど通りかかったユリウスが驚き、怒り、突進する。あとは乱闘だった。

「まあ、他の子たちも今回だけは許すと言っているから勘弁してやるが、次はないぞ。お父さんに連絡するからな」

 教師がちらりと時計を気にする。説教はそろそろ終わりそうだ。他の子どもたちがことを大きくしたがらない理由――それが優しさからではないことをユリウスは知っている。それは、彼ら自身も本心では自分たちがやったことを後ろめたいと思っているからだ。

「もうしないか?」

「わかりません」

 ユリウスが正直に答えると、教師は大きくため息をついてから「おまえには何を言ったって無駄だな。行っていい」と言った。

 その日はニコの家に行く気になれなかった。翌日「今日は来ないの?」と言われて、ようやくユリウスはニコの家へ出かける。しかし、ニコの待つ部屋に行く前に玄関で待ち構えていたレオに捕まってしまった。

「おい」

 普段優しいレオにしては険しい声色に、嫌な予感がする。

「俺、レオに会いに来たんじゃないよ」

「また人を殴ったんだって?」

 逃げを打つことは許されず、レオは単刀直入に切り出した。

「ほどほどにしておけ。下手すると退学になるし進路にも影響するぞ」

 そんな言い方をするレオにユリウスは腹を立てた。レオは弟が屈辱的な目に遭わされかかっていても進路の方が大事だと言うような冷たい奴だったのか。

「うるさいな。レオは俺の兄貴じゃないんだから関係ないだろ」

「だから言ってるんだ」

 そう言ってレオは足早に目の前をすり抜けようとしたユリウスの腕をつかむ。ユリウスははっとしてレオの顔を見た。

「ニコは俺の大切な弟だ。目の届くところでは何があっても俺が守る。でも、ずっと側についていられるわけじゃない。ニコは決して弱い奴ではないけど家の外でも誰かが必要なんだ」

 レオは真剣な目をしたまま、続けた。

「ユリウス、おまえはニコの側にいてやってくれ。だからそのためにも、くだらないことで問題を起こすのはやめてくれ。頼むから」

 それは懇願にも似た響きで、圧倒されたユリウスは首を縦に振る以外なかった。

 部屋に行くと、ニコは少し気まずそうな顔をして座っていた。

「ユリウス、怒ってる?」

「なんでそんなこと聞くんだ?」

「僕がけんかのことを兄さんに言いつけたから」

 正直、階段を上がる間はニコの顔を見たら一言くらいは文句を言ってやろうと思っていた。だが、ニコがあまりに意気消沈しているのでユリウスは喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。

「……怒ってないよ」

 ユリウスはニコと並んでベッドにぺたんと座り込んだ。嘘ではない、ニコにこんな顔をされれば怒りなんてみるみる小さくなってどこかへ消えてしまう。

「嫌だよ僕。ユリウスとばらばらになるのは」

 小さな声で訴えるニコに訊ねる。

「レオは、ニコがあんなひどいことされたって知ってるのか?」

 いくら冷静なレオでも弟が三人がかりで服を脱がされかかったにも関わらずあんなに落ち着いているものなのだろうか、ユリウスは納得がいかない。素朴な疑問をぶつけると、ニコはふるふると首を横に振った。

「兄さんには言ってない」

 ニコは自分の与えられた屈辱を割り引いて話した上で、兄に「レオに暴力をやめるよう言ってくれ」と頼んだのだった。ニコはニコなりに自尊心を守ろうとしたのかもしれない。

 レオの言うことも、ニコの心配していることも理解はできる。ユリウスがこのまま問題行動を繰り返せば、下手をすると学校から排除される。小学校の間はまだなんとかなったとしても素行が悪ければまずニコと同じギムナジウムに進学することはできない。とはいえ、ただ同じ学校に居続けるためだけにニコがひどい暴力にあっているのを見て見ぬ振りはできない。ユリウスは難しい判断を迫られる。

「でも、またあんなことされたらどうするんだよ。力ででも思い知らせてやらないとやられっぱなしだろ」

 だが、ニコは迷いなく言った。

「いいよ、やられっぱなしで」

 冗談でも言っているのかと思いニコの表情を確かめるが、いたって真顔だ。

「別に、体を見られるくらい大したことない。ユリウスがどこかにいっちゃうより、ずっとましだ」