23. 第2章|1930年・ハンブルク

 その日、ユリウスは初めて船を見た。

 ずっと遠い、黒い森シュバルツバルトと呼ばれる場所から長いこと列車に揺られ、途中で父親の運転するオペルに乗り換えた。車に乗せられた時はいつもそうだが、やはり気持ち悪くなり、道中何度も運転を止めてもらっては路肩でげえげえと吐いた。胃の中身をすべて吐き尽くしてもまだ苦しくて、痙攣する胃から出てきた酸っぱい液体だけを涙を流しながら吐き、最後は疲れて眠ってしまった。

 目を覚ますと嘘のように気分はすっきりして、車窓の景色には港と大きな船。

「うわあ、海だ」

はしゃいで思わず声をあげると、ハンドルを握る父親が険しい声で言う。

「あれは河だ。海はもっと北に行かないと見られない」

 余計なことを言ってしまった、とあわてて口をつぐむ。だが幼いユリウスにはそれが海であるか河であるかはほとんど問題ではなく、これまで見たことのない壮大な風景にただ興奮した。

 母親が死んだのは一ヶ月前のこと。肺を患ってここ数年はほとんど保養所に入ったきりだった。父親に連れられて会いに行ったとき、母親はいつもにこにこと笑っていて近づくといい匂いがした。だから「お母さんは病気なんだ」と言われても実はよくわかっていなかったし、「お母さんが死んだ」と言われてもそれはどこか遠い知らない人の話に思えた。

 葬式の最中や後で、見たことのある大人や見たことのない大人が代わる代わるユリウスの元にやってきて、とびきり悲しそうな顔で頭を撫でたり抱きしめたりしてきた。

「かわいそうに、まだ小さいのに」

「五歳か、六歳だったかしら。ひとり息子でしょう」

 こそこそとした話し声も、耳に聴こえてくる。

 人見知りのユリウスはたくさんの大人にべたべたと触られることが何より嫌で、我慢できず泣いてしまった。しかしそれを周囲は「母親を失った悲しみによる涙」と都合よく解釈したようで、口々に「かわいそうに」と言いながらますます多くの知らない大人が寄ってくるものだから、ユリウスは最終的に癇癪を起こし大声で泣き叫びながら自分の部屋に閉じこもった。

 優しくて世界一美しい母親に二度と会えないのはもちろん悲しいが、「二度と」というのがどういうことなのか、ユリウスはまだ十分には理解していない。

 ようやく見知らぬ人たちが家からいなくなった頃、父親は「北部に引っ越す。環境を変えるなら学校に入る前の方がいいだろう」と言い出した。

 それがどこなのかもわからないし、知らない人ばかりの知らない場所に行かなければならないと思うと胸のあたりがきゅーっと苦しくなる。嫌だと言いたいが、いつも難しい顔をして口数の少ない父親のことをユリウスは怖い人間だと思っていて、だから結局何も言えず黙って首を縦に振った。

 新しい家は「ハンブルク」という街にあり、そこでユリウスは父親と二人で暮らすことになった。大きな船に感動したものの「ここが新しい家だ」と連れて行かれた場所からは港は見えない。少しがっかりした。

 小さいが綺麗に整った家はがして、夜ひとりでトイレに行くのが怖いがユリウスはそれを父に告げることができない。前の家から大切に連れてきた熊のぬいぐるみを抱きしめて、おそるおそる部屋を出て用を足しに行く。

 父親は毎日仕事に出かけるので、その間は家政婦のナタリーが世話をしてくれる。ナタリーは訛りのある少しだけ聞き取りにくいドイツ語を話し、父は彼女のことを「ユダヤ人」だと言っていたが、それが何を意味する言葉なのか幼いユリウスにはよくわからないし特に関心もない。

 黒い髪にカギ状に曲がった大きな鼻。初老のナタリーの外見はユリウスの母とはまったく異なってたが、特に気にするようなことではない。彼女はむやみやたらとユリウスの体に触れたりしないし、母親の話をしながら「かわいそうに」と目を潤ませたりしない。ユリウスはすぐにナタリーのことが好きになった。

「こいつは母親と離れて暮らす時間が長かったからか躾がなってない。学校に入って問題を起こしたら困るからしっかり見てやってくれ」

「あら、ユリウス坊ちゃんは良いお子さんですよ」

 父親に何を言われても、ナタリーはすましたものだ。

 だが、そんな風に言うのはこれまでユリウスが出会った中ではナタリーだけだ。ユリウスは人見知りだ。ユリウスは我慢がきかない。すぐに泣くし、ときにひどい癇癪を起こす。

 前の家にいたとき、父親の親戚が集まって話しているのを聞いたことがある。まだ母親が生きていた頃のことだ。

「ユリウスがあんなに扱いにくいのは、やっぱりひとりっ子なのがいけないんじゃないかしら。弟か妹でもできればもう少し協調性も身につくと思うんだけど」

「でも、マルガレーテは体が弱いから、もうひとりは無理だろう。ユリウスが生まれた時だって、ずいぶん寝込んだままだった」

「でも、あんなじゃ将来が心配だわ」

「まあ、まだ幼児じゃないか。子どもなんて、成長してしまえば何もかも取り越し苦労だったってことも少なくないんだから」

 ユリウスは喉が渇いて水をもらいに行こうとしていたのだが、彼らが自分や母親の悪口を言っているような気がして、結局リビングに入れないまま引き返した。

 ナタリーは昼間にユリウスを散歩に連れて行くようになった。もちろん嫌がる日は無理強いしない。広場で他の子どもと仲良くしろとも言わない。ただ、三日連続散歩の誘いを断った日に彼女はなかば独り言のようにつぶやいた。

「あら、それは残念ですわね。坊ちゃん、毎日歩くと脚が強くなるんですよ。脚が強くなるとずっとたくさん歩けるようになるから、きっと坊ちゃんの好きな船を見に、おひとりでも行けるようになりますのに」

 次の日から、ユリウスは雨が降っても散歩をせがむようになった。

 散歩の習慣がはじまって一ヶ月近く経とうとするころ、普段とは違う方向の公園に出かけた。遊具も何もない小さな広場は穴場のようで、騒がしい他の子どもがいないところがユリウスの気に入った。ナタリーはベンチに座って編み物をして、ユリウスはその側で蝶を追いかけたり、手に持ったぬいぐるみとひとり二役の会話をしたりして過ごしていた。

 ふっと視界が陰って、驚いたユリウスは顔を上げる。

「こんにちは、初めて会うわね」

 見下ろしてくるのは優しい笑顔だった。死んだ母親より少し年上だろうか、栗色の髪をひとつに束ねた彼女は小さな子どもと手を繋いでいて、それはユリウスとほぼ同世代の少年だった。

「引っ越してきたばかりなんですよ」

 ナタリーが言う。少し警戒しているように見えるのは、知らない人に話しかけられたユリウスが癇癪を起こすことがあると知っているからだ。

 ユリウスは目の前の子どもにちらりと目をやった。深いブラウンの髪は柔らかくあちこちに跳ね、毛束が太陽に照らされてとことどころ輝いている。彼ははにかんでいるのか、目を伏せてもじもじとしたままユリウスの方を見ようとはしない。

「はじめまして、この子はニコラス。お友達になってね。ほらニコ、ご挨拶なさい」

 少年は母親に促され、ぎこちなく微笑んで右手を出した。

「ニコだよ」

 ユリウスは緊張して言葉が出てこない。同世代の子供と遊ぶことなんてほとんどなかった。でも、この子は他の子どもみたいに騒がしくないし、がさつでもなさそうだ。もしかしたら――もしかしたらこいつとは遊んでやってもいいかもしれない。しかし差し出された手を握る勇気がない。

 ユリウスはなすすべもなく黙ったままで、伸ばせない右手でぎゅっとズボンを握りしめた。やがてあきらめたようにニコが手を引っ込めたのを見て、なぜだかわからないが大切なものをなくしたときのような悲しい気持ちになった。

 見兼ねたナタリーが代わりに口を開く。

「よろしくねニコ。この子はユリウスよ。ちょっと恥ずかしがり屋さんなの」

「ユリウス」とニコが小さな唇から繰り返す。

 その唇から囁かれた自分の名前は、なんだか特別なものであるように思えた。名前なんていろんな人から数え切れないほど呼ばれているのに妙にくすぐったい。ちょっとだけ母親に呼ばれたときの感じと似ているような気もするが、もっとずっと、何かが決定的なところで違っている。

 その日から公園で顔を合わせるたびユリウスとニコは一緒に過ごすようになった。

 最初は同じ場所でそれぞれひとり遊びするだけ。それが徐々におもちゃを貸し借りするようになり、言葉を交わすようになる。

「ユリウスは誰と住んでいるの?」

「パパと。あと、お昼はナタリーがいるよ」

 ユリウスの答えに、ニコは不思議そうに首をかしげた。

「ふうん。兄弟はいないの?」

「兄弟?」

「うん。僕はね、パパとママと、レオとレーナと一緒に住んでるんだよ。レオは僕のお兄ちゃんで、本を読んでくれたりサッカーを教えてくれたりするんだ。レーナはまだ生まれたばかりだから寝てるか泣いてるかなんだけど、すごく可愛い赤ちゃんなんだ。ユリウスも見においで」

 翌日、ユリウスはナタリーの許しを得てニコの家に遊びに行った。兄のレオは学校に行っているので日中は家にいないのだという。

 ニコは唇に人差し指を当てて「しーっ」と言いながら、ユリウスを赤ん坊の部屋に案内した。まるでそこに宝物があるかのようにそっと近づきベビーベッドの中を見せる。

 レーナはやたら小さくて、しわくちゃで湿った感じのする赤ん坊だった。正直ユリウスの目には男か女か、はたまた人なのか猿なのかもわからないくらいだったが、ニコがそう言うのならばきっとこれはとびきり可愛い女の子なのだろうと思った。

 ユリウスはすぐに初めての、たったひとりの友人に夢中になった。