26. 第2章|1935年・ハンブルク

 ナタリーがドイツを離れることになった。

 想像もしなかったといえば嘘になる。普段なら夕食の片付けを終えたらすぐに帰ってしまうナタリーが、遅くまで残って父親と話をしているのをこのところよく見かけた。何か良くないことが起こりはじめていることには気づいていたが、ユリウスは怖くて自分から確かめることができずにいた。

「ユリウス坊ちゃん、たいへん申し訳ありませんがナタリーはお暇をいただくことにしました」

 ユリウスに話があったのは、すべてが確定事項になってからだった。ユリウスの意見や気持ちが斟酌しんしゃくされることは一切なく、すでにドイツを離れる船の出航日まで決まった上で、ナタリーは申し訳なさそうに切り出した。

 ユリウスはここ最近我慢するようになっていた癇癪を、久しぶりに爆発させた。

「いやだ、そんなの許さない!」

 叫んだきり部屋にこもり、その日はいくらナタリーが声をかけても決してドアを開けなかった。自分が許さないと言い続ければこのまま変わりない日々が続くのではないか。ナタリーは心配して留まってくれるのではないか。それは幼稚だが切実な願いだった。

 夜になって父親が部屋にやってきた。ナタリーは今日のところはユリウスの籠城を解くことはあきらめて帰ってしまったようだ。告げられた退職の日まではあとたったの一週間しかない。

 父親はナタリーのように遠慮はしないので、いくらユリウスが泣き叫んだところで無理矢理部屋に入ってくる。そして、もちろんかける言葉にも容赦はない。

「なんだこの態度は。いい加減成長したかと思ったが、小学校を卒業しようという年齢で赤ん坊みたいに泣き喚いて、情けない奴だ」

 投げかけられる叱責に、ユリウスは泣きはらした目で父親をにらみつける。なんの相談もなしに勝手に話を進められたという意味では、父親こそが裏切り者で敵だった。普段ならば厳しい父を恐れて言い返すことをしないユリウスも、今日ばかりは激しい感情を我慢できない。

「パパこそ、なんでナタリーを止めないんだよ! ナタリーがいなくなったら誰がご飯を作ってくれるんだよ、パパだって困るだろ」

「新しい家政婦を雇う。今度はユダヤ人じゃない家政婦をな」

 父の言葉は冷たく響く。本当は家事も食事も問題ではない。ナタリーがいかに自分にとってもこの家にとっても重要か伝えたいのにうまく言葉にできないことがユリウスはもどかしくてたまらない。

「嫌だ、ナタリー以外家の中にいれるもんか」

 父親はため息をついてベッドに腰を下ろすと、ユリウスにも隣に座るように促した。腕を強く引かれ、嫌々ながら従うしかない。

「あまりわがままを言うな。ナタリーだっておまえが嫌いでうちをやめるわけじゃない。もちろん父さんがナタリーのことが嫌いでやめてもらうわけでもない。おまえが彼女に懐いているのはわかっているが、ここがナタリーにとって暮らしにくい場所になってきていることはわかっているだろう」

 普段の父親の口調より少し柔らかく、諭すような響き。

 父の言うことは事実だった。ユダヤ人排斥の動きはますます激しさを増し、最近は広場やベンチすらユダヤ人が使えるものには「ユダヤ人専用」と明記され区別されるようになった。運用が厳密になされているとまではいえないが、ユダヤ民族に特徴的な外見を備えたナタリーはもろに被害を受けてしまう。

「思うように買い物もできない、ベンチにも座れない。そんな場所におまえのわがままでナタリーを居座らせようとするのか?」

 わがまま、と言われカチンときた。だって、間違っているのは自分ではない。ナタリーに物を売らない店の人が悪くて、ナタリーにベンチや公園を使わせないと決めた人が悪い。なのに、なぜそんな悪人を自由にのさばらせて、ナタリーやユリウスが我慢しなければならないのだろうか。そう考えると悔しくてまた涙が出てきた。

「だったらパパが戦えばいいじゃないか! なんでお店の人や、役所の人に文句を言わないんだよ」

「もう少し道理のわかる子になったかと思っていたが……まったくおまえには失望させられる」

 ユリウスの無理難題に父親は苦虫を噛み潰した顔をした。だが本当はユリウスも父の言っていることが正論だとわかっている。ここを去ると決めたナタリーを止めることはできないのだということも。

 ベッドに突っ伏して泣くユリウスを父親は黙って見ていた。そしてぽつりとつぶやいた。

「ユリウス、そんなに彼女が好きなら心配なく旅立たせてやれ。ここはもうナタリーが暮らしていける場所ではない」

「……ナタリーはどこに行くの?」

 泣きじゃくりながら、ユリウスは聞いた。

「ロンドンに息子さんがいる。今ならまだビザを取ることができるが、残された時間はそう長くないかもしれない」

 ユリウスは翌日、籠城を解除した。

「坊ちゃん、ナタリーは旦那様に良くしていただいたんですよ。わたしみたいなユダヤ人が国外に出るには、第三帝国ここにたくさんのお金を払う必要があるんです。それを立て替えていただいて。それがなきゃナタリーはどこにも行けませんでした」

 父親への感謝の言葉を述べるナタリーを前に、やっぱりパパのせいだったんだ、とユリウスは思う。父親がナタリーを国外に出す手伝いをした。

 だが父親を恨む一方で、安堵のためかここ最近になく明るい表情のナタリーを見ると自分ばかりが不機嫌な顔をしているのも悪い気がする。ユリウスは無理やり気持ちを立て直し、せめて残された日々だけでもナタリーと楽しい時間を過ごそうとした。ニコの家に行く暇すら惜しんで、学校から帰るとずっとナタリーにくっついて過ごした。

 最後の日、ユリウスと父は港までナタリーを見送りに行った。ユリウスはナタリーに別れのプレゼントとして熊のぬいぐるみを手渡した。それは五年前に南部の家から引っ越してくるときに持ってきたもので、幼く孤独だった当時のユリウスにとっては唯一の友達だった。人間の友達ができるにつれてぬいぐるみを抱きしめることはなくなったが、ナタリーに自分の身代わりになるようなものを手渡そうとして、思い浮かんだのがそのぬいぐるみのことだった。

「坊ちゃん、お元気で。良い子にね。手紙を書きますから」

 くたびれたぬいぐるみを愛おしそうに受け止めて、ナタリーは言った。

「俺も書くよ。それに、イギリスなんて船に乗ればすぐ着くんでしょう」

「ええ、すぐに、きっと」

 ナタリーは、骨が折れそうなくらいぎゅっとユリウスを抱きしめた。岸壁を離れる船の甲板で手を振り続けるナタリーの黒い目には涙がにじんでいた。それはユリウスがはじめて見るナタリーの涙だった。

 新しく雇われた家政婦は可もなく不可もない、というよりユリウスにとってはただの「食事を準備して、部屋を掃除して、洋服を洗ってくれるだけの人」だ。必要以上の会話を交わす必要はない。それはナタリーを自分から奪った父親へのユリウスなりの反抗心の表れだった。

 夏には、ユリウスのギムナジウムへの入学が決まった。

 勉強もまじめにしたし、教師に目を付けられないよう素行にも気をつけた。ユリウスにとって感情をコントロールするのは簡単ではないが、全てはニコのそばにいるためなのだと自分に言い聞かせて一年以上も我慢した。努力が報われたのだ。

 届いたばかりの通知を手にニコの家まで自転車を飛ばした。きっと今頃ニコにも同じ封筒が届いていて、二人手を取り合って喜ぶことができるに違いないと思った。そうだ、ずいぶん勉強を手伝ってもらったからレオにも見せなきゃいけない。

 しかし玄関に出てきたニコの顔色は優れない。いや、今日だけでなくニコはここ最近ずっと元気がないように見えた。なにか悩みがあるなら相談するように言うのだが、返ってくるのは「大丈夫」という言葉ばかりでユリウスを不安にさせた。

「ニコ、俺ギムナジウムに行けることになったんだ。これで秋からも一緒にいられるよ」

 ユリウスが手にした合格通知を見せると、ニコは「おめでとう、良かったね」と言って口元だけでぎこちなく微笑み、そのままうつむいてしまった。奇妙な反応だった。

「どうしたの? もしかしてまだニコの分の通知は来てない? 届いてるかもしれないから、俺見に行くよ」

 郵便受けを確かめに外に出ようとしたユリウスを、ニコは引き止める。そして、言った。

「ユリウス聞いて。僕は同じ学校には行けない」

「ニコ、何言ってるんだ?」

 ユリウスはそれをたちの悪い冗談だと思った。ニコはユリウスよりずっと成績も良いし、ユリウスのような気性の荒い問題児でもない。自分が入学を許されたギムナジウムにニコが落選するなんて、考えられないことだった。

「僕は、僕は――」

 しばらく迷うような様子を見せ、ニコは覚悟を決めたように言った。

「僕はユダヤ人学校に行く。新しい決まりで、ユダヤ人の子どもはもう普通の学校に通っちゃいけないんだって……」

 ユリウスは言葉を失った。ニコはうつむいたままぽろりと一粒涙をこぼした。

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