27. 第2章|1935年・ハンブルク

 ユリウスはそのとき初めてニコが泣くのを見た。これまで悪童たちからひどい言葉をかけられても数日前まで仲良くしていたクラスメートから露骨に避けられるようになっても我慢強く黙っていたニコが、とうとう泣いたのだ。

 声を殺してぽろぽろと涙をこぼすニコに、ユリウスはどう振る舞えば良いのかわからない。ただじっと眺めていることしかできず、何もできない自分を情けなく思った。

「ちょっと前から、こうなるかもしれないってわかってたんだ」

 しばらく泣いて落ち着いたのか、ニコはぽつぽつと事情を話しはじめた。

 政府は、ユダヤ人は先天的にすべての能力が劣る民族であり教育を施す必要がないと考えていること。その影響でとうとうここでもユダヤ人の子どもは公立学校に通うことができなくなるため、ニコの両親が駆けずり回ってどうにか編入させてもらえる私立のユダヤ人学校を見つけてきたこと。

 ニコが最近元気なさそうに見えたのも、学校に通えなくなる可能性について聞かされていたからだった。もっと早く言ってくれればと思う反面、知っていたところでユリウスにできることは何もなかったということもわかっている。

 学校側の最終決断と新しいルールをニコに説明したのは、特にナチ党の活動に熱心だと評判の教頭で、スーツの目立つところに赤いバッジを自慢げにつけている。彼は、まるでお情けのように「時期も時期なので、小学校卒業までは君をここに置いてあげることにしよう」と言った後で、ニコの前髪をかきあげて額に物差しを当てた。

「ほら、君の額は平均よりいくらか狭いようだ。これはアーリア民族と比べて脳が小さいことを示しているのだよ。今は賢いつもりでいるのかもしれないがニコ、君は早熟なだけで、ギムナジウムに進んだところでいずれ落ちこぼれてしまうに違いない。これ以上進学しないのは正しい判断なんだよ」

 それから彼は、ギムナジウムに進学後も成績優秀で通っているレオの名前を出した。

「まあ、君の兄さんみたいに何かずるい方法を使えば、体裁はどうにかなるのかもしれないがね」

 ニコは自身について投げかけられたひどい言葉よりも兄への侮辱にむしろ傷ついたようだった。しかし、ユリウスが怒りを募らせるのはもちろんニコへの暴言についてだ。狭くて丸い曲線を描く実に愛らしい形をしたニコの額。それを理由にニコを貶めるようなことを言うなんて許せない。

 父親相手であれば泣いて不満を叫び散らすところだが、相手がニコだとそうはいかない。激しく気に食わない事態であるにも関わらず、ユリウスはどう反応すれば良いのかわからずただ唇を噛んだ。ニコが傷つき悲しんでいる事実はもちろん重要だが、ニコとずっと同じ学校に通い続けられるものと信じていたユリウス自身も深く傷ついていた。

「ニコが行かないんなら、俺もギムナジウムなんか行かない」

 感情に任せてつぶやくユリウスをニコがあわてたように諌める。

「だめだよ。ユリウスはせっかく頑張って入学許可をもらったんだからちゃんと学校に行かなきゃ。ユリウスのお父さんだってきっと喜ぶよ」

「でも、俺はニコと同じ学校に行きたかっただけだから、ニコがいないなら意味ないじゃないか」

 駄々をこねるユリウスを前に、ニコは困った顔をした。もちろんユリウスだって、ニコが公教育の場から排除される以上、例え自分がギムナジウムへの入学を辞退したところで、二人が一緒に通える学校はどこにもないのだとわかっていた。当然だが、ユリウスがユダヤ人学校についていくことなどできるはずがない。だが、それでも何らかの形で不満と抗議の意思を示さずにはいられなかった。

 しばらく黙って座っていたニコは、ユリウスが怒りを発散し尽くして落ち着くまで辛抱強く待ってから、切り出す。

「じゃあユリウス、こうしよう。君は僕のぶんまでギムナジウムに通ってくれない? 僕の新しい学校も市内にあるから、学校が終われば今と同じように会うことができる。君は僕が行きたかった学校で何を教えているかを見て聞いてきて、僕に教えてよ」

 柔らかい方法で退路を封じられ、ユリウスはこれ以上「学校に行きたくない」とごねる理由を奪われた。ニコが望むなら、それがニコのためになるなら――。

 ニコはときどき意識してか無意識にか、ひどく器用な方法でユリウスの思考や行動をコントロールする。どうしてニコに対してだけ自分はこんなにも弱くなってしまうのかユリウスは不思議に思うが、その疑問につきまとうのは不快さではなく胸がうずうずするような奇妙な感覚だった。

「じゃあ、学校にちゃんと通うって約束。指切りだよ」

 ニコは小指を差し出してくる。ユリウスはそれに自分の小指を絡めた。

ひとしきり泣いた後は落ち着いた様子でむしろユリウスをいたわるニコだったが、ニコはニコなりに新しい学校への不安があるようだった。

「ユダヤ人学校ってユダヤ教の子が行くところだから、異教徒の僕は友達ができないかもしれない」

 新しい学校でニコが新しい友達と仲良くなることを想像するとユリウスは不愉快になるが、一方でニコがひとりきりで寂しい思いをするのかと思えばそれはそれで心が痛む。複雑な気分だった。

「レオは? レオもその学校に行くんじゃないのか」

 ユリウスは質問する。ニコが公立学校から排除されるのであれば、当然その兄であるレオにも同じ処遇が与えられるはずだ。

「うん。学年は違うけど、新しい学校には兄さんも一緒に通うことになってるよ。でもユダヤ人学校はすごくお金がかかるんだって父さんと母さんが話してるのを聞いちゃったんだ。兄さんと僕、もしかしたらレーナまでそんなお金のかかる学校に……大丈夫なのかな」

 兄や妹が一緒であればニコの寂しさも少しは紛れるだろう。ユリウスは少し安心した。一方で、一見変わりのないように見えるニコたち一家の生活も少しずつ危険にさらされはじめていることに漠然とした不安を抱いた。ニコの父親の会計事務所はユダヤ人経営であることを嫌って契約を打ち切られることが増えてきて、以前ほどうまくいっていないという噂だ。

 九月になると、ユリウスはギムナジウムに進学した。小学校時代はちらほら見かけたユダヤ系の子どもはもうどこにもいなかった。ニコがいない学校はユリウスにとって不自然で居心地の悪い場所だったが、不思議なものでそんな生活にもいずれ慣れてしまう。

 小学校時代とは別人のようにユリウスは授業を真剣に聞いた。友達を作る必要などない。ただ、できるだけ授業を理解してきちんとしたノートを取る必要があった。

 夕方にはニコの家に行くか、最近ではニコがユリウスの家にやってくることもある。それからユリウスは教科書やノートを見せて一生懸命その日に習った内容をニコに伝えた。二人だけの課外授業にはときおりレオが参加することもあった。

「ユダヤ人学校の授業とはずいぶん違うの?」

 一度聞いてみたことがある。

「僕の学校にもいい先生はいるよ。でも、やっぱり僕はドイツ人だからドイツの学校に行きたかったな」

 ニコの答えにユリウスは黙り込んだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう。ニコもユリウスと同じドイツ国籍を持ちドイツで生まれ育った子どもであることは変わらないはずなのに。

 最近新しい法律ができて、ユリウスには理解が難しい新たなユダヤ人の定義が示された。主に祖父母の代に何人のユダヤ教徒がいるかで「完全ユダヤ人」「混血ユダヤ人」など細かく規定され、その程度によって市民権の制限される程度に違いが出てくる。複雑な話はわからないが、新しいルールの中でもニコの一家はユダヤ人に区分されることを避けられなかったようだ。

 不思議なことにユダヤ教徒の教会であるシナゴーグは以前より盛況なのだという。ドイツ社会に馴染み世俗化していたユダヤ人が、排斥の動きの中で民族コミュニティに居場所を見出し、結果として宗教的結束力を強める。そんな中でユダヤの血を引くキリスト教徒は、帝国ライヒからはユダヤ人として排除されユダヤ人コミュニティからは異教徒として排除される、より一層難しい立場に立たされるようになっていた。

 ユリウスとニコの勉強会に付き合いながら、レオはたまに愚痴をこぼす。

「悪い学校じゃないんだけど、やっぱり主に宗教的な部分っていうか、何か違うと思うことも多いよな」

 第三帝国からは「ユダヤ人」のレッテルを押し付けられ、ユダヤ人コミュニティからは「異教徒」と呼ばれる。賢いレオにとってすら自分の居場所を見つけることは簡単ではないようだ。

 ユリウスはある晩、ときおり家にやってくる父親の商売仲間につかまった。みっともなく酔っ払い人に絡む癖があるのが苦手で、その男の気配がするときは部屋にこもることにしていた。だが、水を飲みに行ったタイミングで偶然廊下で鉢合わせてしまったのだ。

「ユリウス、おまえ何歳になる」

「……十歳」

 その言葉を聞くと、赤らんだ顔の男は笑いながら強い力でユリウスの肩を叩いてきた。

「じゃあヒトラー・ユーゲントに入れるじゃないか。すぐに手続きをするがいい。おまえも立派なドイツ市民になるために――」

「入らないよ、絶対に」

 ニコの陰口を言うクラスメートたちの顔が浮かび、ユリウスは男の言葉を遮るようにそう言うと階段を駆け上って自分の部屋に飛び込んだ。

 翌朝、ユリウスは父親に不満をぶつけた。

「なんであんな奴を連れてくるんだよ。俺はヒトラーなんか大嫌いだ」

「……父さんの前ならともかく、他の人の前では決してそんな口聞くんじゃないぞ」

 父はいつになく厳しい口調で小言を始める。

「おまえはまだ子どもだからわからないのだろう。ユーゲントに入れとは言わないが、絶対にそういうことを外で言うな。まったく、おまえがいちいちそんな風なのも大方グロスマン一家の影響なんだろう。私の考えが甘かったな、こうなるとわかっていれば最初から付き合いなど許さなかったのに」

 昨日の話を持ち出したのは完全に悪手だった。最近父親はやたら「外向けの言動」を気にするようになった。ヒトラーの悪口も、政府の悪口も、他の人間のいる前では口にするなとしょっちゅうユリウスに説教をする。友人だ仕事仲間だと赤いバッジをつけた人間を家に連れてくることもたびたびあり、それがなおさらユリウスを苛立たせた。いや、それだけならまだ我慢もするがニコたちのことまで悪く言うとは――。

「ニコの悪口を言うつもり?」

 ユリウスは感情的になり食卓を叩いた。マナーに厳しい父親なので激しい剣幕で怒鳴り返されるかと覚悟したが、意外にも父は静かに椅子を立った。しかし告げられる言葉はきっぱりと重い。

「悪口じゃない。あの一家に恨みがあるわけでもない。でも、どうしようもないことはあるんだ。おまえがあそこの息子と親しいのはわかっているから縁を切れとまでは言わないが、少なくとも周りに目立たないよう付き合い方は考えろ。きっといずれ良くないことが起こる」

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