28. 第2章|1938年・ハンブルク

「ユリウス・シュナイダー」

 教師が名前を読み上げると教室にぱらぱらと拍手の音が響く。ユリウスは七年生の学期末に成績優秀者の表彰を受けた。軽く一礼して表彰状を受け取ると足早に自分の席に戻る。こういったイベントには慣れていないのでどういう風に振る舞えば良いのかがわからず、一刻も早くこの落ち着かない時間が終わればいいと願った。

 ユリウスが戸惑っているのと同様に、クラスメートも普段からクラスで浮きがちな生徒に対してどのような態度を取れば良いのかわからないのだろう。ユリウスに対する反応は他の受賞生徒に対するものより明らかに鈍い。他の生徒への拍手はもっと大きかったし、周りに「おめでとう」やら「さすがだな」やら、祝福の言葉をかける生徒で人だかりができている。ユリウスに声をかけて来る生徒はまばらだ。

 終礼が終わると特段ありがたみも感じない表彰状をカバンに突っ込んで、ユリウスは足早に学校を去ろうとする。しかし廊下で担任に捕まった。

「ユリウス、今学期は頑張ったな。ほとんど首席に近い評価だったぞ」

 若い担任教師はユリウスの肩をぽんと叩き、ねぎらいの言葉をかけてくる。

「ありがとうございます」

「夏休みはどう過ごすんだ。キャンプや合宿には参加するのか?」

 あまり訊かれたくない質問に、首を横に振って答える。

「うちは母親がいないから、長期休みは家の手伝いがあるんです。南部の親戚のお見舞いにも行く予定だから忙しくて」

 もちろん嘘だ。家のことは家政婦がやってくれるので学校があろうが休みだろうがユリウスが手伝う必要などない。親類の見舞いの予定もない。たとえ父親が里帰りを言い出したとしてもユリウスは同行せず家に残るだろう。父と二人で長旅などとんでもない。

「そうか。おまえは成績は優秀なのに、あとは集団行動の方が少し課題だな。家のことはお父さんに相談してもう少しユーゲントの奉仕活動やキャンプに積極的に参加した方がいいぞ」

「はい」

 心にもない返事をしてその場をやり過ごした。

 周囲に勧められても頑なに加入を拒んでいたナチ党の青少年団体ヒトラー・ユーゲントだが、なんのことはない、一九三六年には十歳から十八歳のドイツ人少年はすべて加入するよう法律で定められた。届出を怠れば罰があるのだといって、父親はユリウスの抵抗などきっぱり無視して登録を済ませてしまった。

 ユーゲントの活動は毎週水曜日と土曜日の集会のほか、奉仕活動やスポーツ大会、キャンプなど多岐にわたる。活動内容自体は特段変わったものではないが、集団主義的な雰囲気がユリウスの性には合わず、具合が悪いとか家の手伝いがあるとか理由をつけてはできる限り参加を避けるようにしている。

 そもそも、ユリウスにはそんなものに割いている時間はない。ギムナジウムに入学して以降ユリウスが小学校時代とは打って変わって優秀な成績を保っているのは、将来のためでもなければ親のためでもない。賞賛されることを望んで努力しているわけでもないのだから。

 ユリウスとニコの課外授業は三年経っても続いていた。

 学校が終わるとできるだけ早くニコの家へ行き、その日の授業の内容を伝える。ニコにできるだけ正しい内容を伝えようと思えば必然的に授業を真剣に聞くことになる。二人で教科書を囲む時間はユリウスにとっては密度の濃い復習となり、授業でよくわからなかった部分はニコや、ときにはレオが教えてくれる。これで成績が上がらないはずがない。

 父親にも見せる気がなかった表彰状について、ふと思う。もしかして、これを見せたらニコは喜んでくれるだろうか。

 目立たない場所に自転車を停めて裏口からニコの家に入った。ユリウスの父親の意向をある程度汲み、ユリウスとニコは互いの家を行き来する場合はできるだけ人目につかないよう気をつけるようにしていた。

「ニコ、入るよ」

 声をかけるが今日は返事がない。だが裏口が施錠されていない以上、家の中にいるのは確かだ。音楽でも聴いていて声が聞こえないのだろうかとユリウスは勝手に家に上り込む。

 居間の方から音楽が響いてくる。やはりレコードの音にかき消されて呼びかける声が聞こえなかったに違いない。

 政府は不良の音楽だと喧伝しているが、若者の間でのジャズの流行はとどまるところを知らない。レオは知り合いに勉強を教えて小遣いを稼いでいるようで、ときどきジャズのレコードを買ってきては居間のプレイヤーでかけ、ニコやユリウスにも聴かせてくれる。自宅でジャズやポップミュージックを聴くことが許されていないユリウスにとっても、ジャズはまるで自由の象徴のようで、新鮮で魅力的に思えた。

 大方今日も兄弟揃って居間で音楽を聴いているのだろう。そんなことを考えて普段通りに扉を開けたところでユリウスは固まった。そこには思いがけない光景があった。

 ソファーに座っているのはレオ。それだけならいつものことだ。しかし今日はその膝に肩までの金髪をカールさせた女性が座り、二人は抱き合ってキスをしていた。しかもちょっと唇を触れ合わせるようなものではなく、角度を変えては互いの唇や舌を猛烈に貪っている。

 ユリウスはニコと友人になってこの家に出入りするようになって以降レオともそれなりに親しくしてきた。付き合いはもう七、八年になるだろう。しかし、今このときのレオは、ニコやユリウスと一緒にいるときには見せたことのない別人のような、大人じみた表情をしていた。

 ユリウスは驚きのあまり手に持っていたかばんを落とす。どさっという音にソファーの二人が驚いたように唇を離し、視線を扉の方に向ける。

 レオと正面から目が合った。

「ご、ごめんっ」

 思わずユリウスは声をあげた。見てはいけないものを見たという自覚はあった。レオも女性を膝に乗せたままで、少し気まずそうに言った。

「ああ……ユリウス。ニコは今日は父さんたちの手伝いに行ってるから夜まで戻らないよ」

「う、うん。わかった。また来るって伝えて」

 謝るのも奇妙な気がして、ユリウスはぎこちない返事をする。かばんを拾い上げ、ぎくしゃくとした動きで居間の扉を閉めると脱兎のごとくグロスマン家から去った。

 自分の部屋まで逃げ帰ってからも思わぬ光景を目にしてしまった動揺は治らない。顔が熱くて、心臓がどきどきと音を立てている。レオは十五歳、恋人がいてもおかしくない年齢なのだろうか。よくわからない。抱き合うこと、キスすること、そしてその先の親密な男女の行為。ませた同級生が教室の隅で盛り上がっているのは何度か見かけたが、ユリウス本人はうっすらとしか知識を持たない。

 下品なことだとわかっていても、目にしたばかりの衝撃的な光景はユリウスの頭の中で繰り返し再生される。普段のレオとは別人みたいな顔だった。首を傾け、唇から濡れた音を立てて、二人とも気持ちよさそうな顔をしていた。自分もレオくらいの年齢になったらああいうことをするようになるんだろうか。唇は柔らかいのだろうか? あれは気持ちの良いことなんだろうか?

 自分の唇が、他の人間のそれに触れるところをおそるおそる想像してみると、なぜだか思い浮かぶのはニコの顔だった。

 目を閉じたニコに顔を寄せ、あの小さな唇に自分の唇を押し当てるところを思い描く。なぜニコなのかはわからない。しかし、学校に同世代の女子生徒はいくらでもいるはずなのに、ユリウスの頭はニコの姿を想像することを止められない。

 顔を近づけたらニコからはきっといい匂いがするだろう。閉じたまぶたから伸びる濃いまつげはふるふると震えるだろう。小さな唇は触れたらどんな感触がするんだろう。

 想像していると腰のあたりがむずむずするような奇妙な感覚に襲われた。排泄に使う器官が熱く張りつめて来るような気がして、ユリウスは急に怖くなった。そこを見てみたい、触ってみたい気もするが恐怖が勝る。ユリウスはあわてて妄想を頭から振り払い、数字を一から百まで声に出して数え、それから念のため百から一まで数えた。数え終えると妙な熱は消え去っていたので、とりあえずひと安心した。

 だが、その晩ユリウスはニコの夢を見た。

 ニコを抱きしめる夢だった。子どもの頃仲良しだった、ナタリーにやってしまった熊のぬいぐるみを抱きしめる時のようにぎゅっと抱擁しては柔らかい茶色い毛に顔を埋める。ニコはくすぐったそうに笑っている。ユリウスもひどく気持ちよく安心した気分になる。

 ふと笑い声をあげるニコの薄赤い唇が気になり、そこに指で触れた。手や肩に触れるのとは違う柔らかさを持った不思議な感触だった。

 なおもニコが笑うのをやめないものだから、黙らせてやろうという意地悪な気持ちが湧いてきて、ユリウスは思わずニコの唇を自分の唇でふさぐ。ニコは少しだけびっくりしたように震えるが、すぐに目を閉じてぎゅっとユリウスを抱き返してくる。信じられないほど甘ったるくて、幸せな気分だった。

 はっと目を覚ましたユリウスは少しの間うっとりするような幸福に浸り続けるが、次第にそれが夢だったことを意識する。暗闇の中ひとりで横たわっている自分に気づいたときはひどく残念な気分になった。少し遅れて、今度はじっとりと不快な感触を肌に感じあわてて寝間着のズボンの腰部分をめくる。そして下着の中が尿とは違う何かで汚れていることに驚き、恐怖と混乱に襲われた。