29. 第2章|1938年・ハンブルク

 ユリウスは自らの体の異変に驚き、恐怖した。

 何か悪い病気にかかってしまったのか、もしかしたらふしだらなことを考えたから悪魔にでも取り憑かれたのか。学校がやっている時期だったら図書館で調べるとか――もしくは恥を忍んで医務室の先生に相談――いや、それはいけない。しかしともかく今は学校は夏休みだし、父の留守に書棚をあさってみたが子どもの病気に関する本は見つからなかった。

 体の不調は続いた。それまでもふとした瞬間に股間が突っ張るようなことはあったが、急に頻度が増した。しかも今でははっきりとしたトリガーがある。ニコのことを考えているときに頻繁にそれは起こるのだ。

 きっかけは下着を汚したあの日だった。あれ以来ニコのことを考えるとどうしても髪を撫でることや唇に触れることを想像してしまう。そうしているうちに必ず腰が重くなり、股間が硬くなる。最初の数回こそ他のことで無理やり気をそらしているうちに治っていたが、だんだんそれだけでは上手くいかなくなった。

 ユリウスはとうとう恐怖と興味に負けて下着の中をのぞいてみた。硬く立ち上がり見たことない形になったペニスはまるで自分の体ではないようで怖かった。全体が包皮に覆われていたはずが、今は先端が剥けて露出している。飛び出した先端は赤く腫れたような痛々しい姿をしているにも関わらず不思議と痛みはなかった。

 ヒトラー・ユーゲントの合宿で水泳をしたとき、他の男の子どもたちと同じ場所で着替えた。彼らのペニスがどうなっていたか必死で思い出そうとするが、ろくろく興味を持って見たわけではないものが思い出せるはずもない。これは普通なのか、それとも異常な状態なのか、恐怖を感じつつそれでもユリウスは本能的な何かに突き動かされてそこに触れた。おそるおそる手を伸ばすと、触れた部分から電気が流れるように強烈な快感が走る

「うっ」

 思わずうめき声が出た。怖い。やめなきゃ。でも気持ちいい。恐怖と快感と後ろめたさが混ざった感情に思考を引き裂かれながら、それでもユリウスはそこに触れる動きを徐々に強く大胆にした。

 呼吸が激しくなり、いつのまにかペニスも握る手もベトベトになっていた。液体はユリウスの意思とは関係なく、ペニスの先端のおしっこが出てくるのと同じ場所からとろとろと漏れ出てきている。硬くなったそこを握り擦り上げるたびにぬちゃぬちゃと濡れた音がし、その音のせいでまた興奮が高まる。気づけばうずうずと腰も揺れはじめ、そうなると罪悪感も何もなくなり、あとはただより強い快感を求めて動きを激しくするだけだった。

 最中もニコのことを考えていた。ニコを抱きしめて、キスをする。体を触る。ニコはくすぐったそうに笑い、抱き返してくる。今自分が気持ちよくなっているのと同じように、ニコの下着に手を入れてあそこを触ってやる。ニコは恥ずかしそうな素振りを見せるが拒否はしない。気持ちよさそうに声を出して腰を揺らす。それどころか想像の中のニコは自身も手を伸ばし、ユリウスのペニスを手で包み優しく擦ってくれる。

 急に腹の奥から衝動が湧き上がり、ユリウスは小さく声をあげて達した。

 先端からあの日下着を汚していたのと同じ粘り気のある白濁色の液体が噴き出し、その後もびくびくと何度かペニスが震えるのに合わせて最初より弱い勢いで何度か液体が流れ出た。その瞬間は頭が真っ白になるほどの、今まで味わったことがないくらいの強烈な快感に酔いしれたが、やがて遠泳を終えた後のような疲れが襲ってくる。

 汚れたペニスは普段どおりの柔らかさに戻っている。白濁を拭い清め下着とズボンを元どおりに履いて、ユリウスはベッドにごろんと転がった。なんとなくニコを汚してしまったような気がして「ごめん、ニコ」と心の中で謝った。

 次の水曜、ヒトラー・ユーゲントの会合の帰りにユリウスは年長の青年を呼び止めた。

 ユーゲントの組織は一定年齢ごとに小さなグループごとに分かれていて、それぞれの団長を中心に集団行動を行う。さらに、いくつかのグループごとに上の年齢の指導役がつき、全体として年長の者が年少の者を指導する年功序列が組織の基本になっている。全員が揃いの褐色の制服を着て、さながら小さな親衛隊といった子どもたちのうち、将来本物のナチス親衛隊の制服を着ることを夢見ているのは決して少数ではない。

 普段は活動に熱心でなく、言われたことを淡々とこなしては帰っていくユリウスがわざわざ別の団員、しかも年かさの青年に声をかけるのは珍しい――というより今までにないことだった。ユリウスも死ぬほどの勇気を振り絞ったし、声をかけられた相手も驚いた様子だった。

 声をかけた相手はユリウスの所属するグループの指導役に当たっている十七歳の青年で、確か名前をダミアンという。市内の実科学校レアルシューレに通っているらしい。

 軍隊式の指導を真似するような厳しい年長メンバーもいる中で比較的性格が穏やかなこともあり、ダミアンが他の子どもの相談に乗っているところを見かける機会はたびたびあった。それを覚えていたので、さんざん悩んだ結果ユリウスも彼を相談相手に選んだのだ。

「あの……」

 他の団員の多くが帰り、人がまばらになるのを待ってからユリウスはダミアンに話しかけた。隣にはダミアンと親しい他の年長団員が二人ほどいる。内心ではそれを邪魔だと思ったが、彼らは大抵一緒に同じ方向に帰っていくので、いなくなるのを待とうとすれば相談の機会までも失ってしまう。

「どうしたユリウス。珍しいな」

 ダミアンは人懐こく笑いかけた。背が高く彫りの深い顔立ちに金髪碧眼、絵に描いたようなアーリア人のダミアンの凛々しい姿はまるでナチ党のポスターや映画に出てくる人物のようだ。

「相談があって。あの、ここの活動のことではないんですけど」

「いいよ。学校のことだろうが親のことだろうが、好きな子のことだろうが、何でも話せよ」

 ダミアンは集会場の椅子に腰掛けると隣に座るようユリウスを促した。邪魔な二人が興味深そうに顔をこっちに向けているのが不快だが、仕方ない。

「ヒトラー・ユーゲントの上の年齢の人は、応急処置とか、病気のこととかも習っているって聞いたから、もしかして何かわかるかもしれないと思って。……俺、あの、病気かもしれないんです」

 もじもじとユリウスは本題を切り出した。

 最近やたらペニスが硬くなること、ときどきおしっこではない白い液体が出てくること、それは寝ている間にも起こること――死ぬほど勇気を出して話したのに、ユリウスの話が終わる前からダミアンの横の二人はにやにやしながら肩を震わせていた。彼らが何かしら口を挟もうとするのを、横目でダミアンが制していることにもユリウスは気づいていた。

「あのさ、君、それは病気じゃないよ。異常なことでもない」

 少し言いづらそうにダミアンは切り出した。何か困ったような顔をしているのは気になるが、ユリウスは病気でも異常でもないという言葉にともかく安心した。

「本当ですか?」

 安堵のあまり声が大きくなるユリウスを、邪魔な二人がくすくすと笑う。

「うん。あの、まあ、大声で言うようなことではないけど、僕もこいつらも同じようなことはある。大人になるための成長の一部で、要するに、将来的に結婚して子どもを作るために体が準備をはじめているんだ。例えばさ、好きな子のことを考えるとそうなるんじゃないか?」

 ダミアンの言葉にかぶせるように隣の二人も話に入ってくる。

「おまえセックスって知ってるか。硬くなったちんちんを女の股にある穴に入れて擦るんだよ。で、精液出したら子どもができるんだ。おまえもそれができるようになったってことだ」

「まあ、子作りのためばかりってわけじゃないけどなあ。それに、女だけじゃなく男や山羊に入れるような奴もいる」

「おい、余計なこと言うな。子どもだぞ」

 ダミアンがきつい声を出すのを待たずとも、それが下品な会話だということはわかる。ユリウスが反応に困って黙っていると、ダミアンの隣にいる男が笑いながら肩を叩いてきた。

「まあ、心配すんなよ。教会じゃ自慰行為は健康に悪いって言われることもあるかもしれないけど何も気にすることはない。誰でもやってることだ。俺たちだってしょっちゅうやってるがこんなに健康なんだから。むしろ我慢した方が体に悪いぞ。小便といっしょで溜まったものは出した方がいいに決まってる」

 とりあえずユリウスを元気づけようとしてくれているらしい。見た目は軽薄そうだが、彼らも意外と悪い人間ではないのかもしれない。

 妙なことを聞いてしまい、しかもどうやら多少からかわれたらしいことは恥ずかしかったが、ひとまずユリウスはほっとした。自分は病気でも異常でもない。ペニスがあんな風になって、あんなものが出てくるのもおかしなことではない。それを確認することができただけでも勇気を出して質問した意味はあった。

 でも、ひとつだけ聞けないことがあった。同性の幼馴染を思い浮かべて自慰行為をすることも「普通」の範疇に入るのだろうか。さっきダミアンはあれは体が結婚して子作りをする準備をはじめているから起こるのだと言った。好きな子を思い浮かべて勃起するのは普通だとも。

 だが、ユリウスが思い浮かべるのはいつだってニコだ。ということはユリウスはニコのことが好きなのだろうか。その感情は家族や友人に対するような「好き」ではなく、結婚して子作りをしたい相手に抱く「好き」だということなのだろうか。

 結婚も子作りも男と女がセットでやるもので、男同士、女同士でできるとは聞いたことがない。「女だけじゃなく男や山羊に入れる」と言っていた口ぶりは明らかに揶揄する響きを含んだもので、子作り行為を男と行うことは、イコール山羊を相手にするのと同じくらい異常なのだと言われているようだった。だとしたら、自分がニコを思い浮かべてああいった行為をすること自体が異常ということになる。

 ユリウスは混乱した。混乱しながらも、ニコを思い浮かべて体を熱くすることは止められないどころか意識すればするほどより頻繁になった。そして、ついにはニコの顔を見ると不埒なイメージが浮かびそうになり、それを抑えるのに苦労するようになった。

「どうしたの?」

 それまで勉強するときは決まってテーブルの同じ側に並んでいたユリウスが向かい側の椅子を選んだ日、ニコは不審そうに訊ねた。

「こっちの方が見やすいから」

 ユリウスは苦し紛れにそう答えた。まさか、隣に並んでときおり触れ合う肩やふわりと漂うニコの匂いに体が反応しそうになるからだとは口が裂けても言えない。

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