30. 第2章|1938年・ハンブルク

「最近、兄さんがちょっと変なんだ」

 珍しくユリウスの部屋にやってきたニコが切り出した。

 ひとしきり勉強を終えたところだった。ニコはユリウスのベッドに腰掛け、ユリウスは自分の勉強机に座ったままニコの方を向いてとりとめもない雑談をしていた。

 普段はニコの家で会うことの多い二人だが、今日はニコの側からユリウスの部屋に行っていいかと聞いてきた。夏休みの昼間だから父親はいないし、家政婦の女性はユリウスの行動には干渉しない。特に断るような理由はなかった。

 少し前にレオが家で女性と抱き合っているところを見たことはニコには話していない。レオから口止めされているわけではないが、あえて話題にするのもはばかられた。自分以上にそういったことに疎いであろうニコが、兄と女性が抱き合って濃厚な口付けを交わしていたと知ったらどんな反応をするのか想像もできない。うかつなことを口にしてニコとレオの間がぎくしゃくすることになり、その責任を負う羽目になるのはごめんだった。

 ニコはニコで兄の変化を感じ取っていたことに、ユリウスは内心驚く。

「変って?」

 しかし、ニコの話はユリウスが想像していたものとは少し違っていた。ニコはシーツの上に所在なさげに指先でぐるぐると円を描きながら続ける。

「兄さん、最近よく年かさの友達を何人も連れてくるんだ。学校で見たことある人も少しはいるけど、そうじゃない人もいる。どこで知り合ったんだかわからないし、その人たちがいるときは僕やレーナを邪険にして近寄らせてくれない。前は友達が来ているときにもこんな意地悪しなかったのに。今日も、その人たちが来るからってそわそわして、僕にわざわざ出かける予定がないか聞いてきて……」

 ニコはそのプレッシャーに負けて、珍しくユリウスの家に来たがったというわけだ。

「そいつら、嫌な感じなの?」

 まさかあの賢く真面目で優しいレオが不良のような連中とつるむなどとは想像できない。しかし、ニコがこんなにも嫌な顔をするのだからそのまさかもあるのかもしれない。ユリウスがおそるおそる訊ねるとニコは左右に首を振る。

「ううん、悪い人ってわけじゃないんだ。優しい感じの人たちだし、会えば笑って声をかけてくれる。でもドアを閉めてひそひそ話をしていたり、僕やレーナがいるのに気づくと話を止めたり、邪魔者扱いされてる気がする」

 ユリウスがときにうらやましさを感じてしまうくらい、ニコは兄であるレオのことが好きで尊敬している。その兄に邪険にされるのは面白くないに違いない。しかし恋人と二人きりで過ごしたくて弟を追い出すならわかるが、友達が来るからといってニコにそんな態度をとるレオの姿はユリウスにとっても想像のできないものだった。ユリウスはニコの様子を伺いながらそろそろと切り出す。

「あの、俺さ、女の人なら見たよ。金髪の」

 だが意外にもニコは彼女のことは承知しているようだった。あっさりとその名前を口にする。

「イレーネだ。肩くらいの金髪で、くるんとしてるでしょう」

「知ってるの?」

「うん、よく来るから。ひとりで来ることもあれば、あの人たちと一緒のこともある」

 だったらニコも彼らの関係に気づいているのだろうか。勇気を出して訊ねてみる。

「あの人、レオの恋人なの?」

「そう見える?」

「うん。だって俺、あの人とレオがキスしてるとこ見た」

 ユリウスの言葉にニコは顔を曇らせ黙り込んだ。どうやらユリウスは先走ってしまったらしい。ニコは兄と彼女の関係については薄々察しながらも、今のところははっきりと恋人として紹介されたわけでも、親密な現場を見たわけでもないのだと言う。

「気にするなよ。レオは俺たちより年上だし、恋人がいるくらい普通のことなんじゃないのか? 照れくさくてニコやレーナにはまだ黙ってるだけで、きっとそのうち紹介してくれるよ」

 気まずさを打ち消そうとしてユリウスは意図せずレオをかばうようなことを言ってしまう。ニコはそれでもまだ不満げだ。

「普通……なのかな?」

「多分」

 本当はそんなことユリウスだって知らない。こんなにニコがこだわるならば、あのときダミアンやその仲間たちに聞いておくべきだった。恋人を作ることやキスをすることは何歳からなら普通なんですか、と。いや、そんなことを聞いたら妙なことを気にする奴だとますます彼らに笑われ恥をかいてしまっただろうか。

 恋人やキスはいつから? その疑問は不意にユリウスの中で大きくなった。レオは十五歳だからそういうことをしてもおかしくないのだと自分に言い聞かせていたが、そういえば学校でも、女子の誰が可愛いとか、誰と誰がデートしているのを見かけたとか、噂話を耳にすることは少なくない。

 もしかしたら、自分たちと同じ十三歳でも恋人を作ったりキスをしたりすることはあり得るんだろうか。だってもう体は結婚して子どもを作るための準備をしているのだ。だったら恋人やキスだっておかしくはないのかもしれない。考えはじめると止まらなくなり、ユリウスは好奇心を抑えきれずニコに切り出す。

「そう言うニコこそ、キスしたことあるのか?」

「な、何言ってるんだよ」

 ニコのあからさまな動揺に安心した。キスという言葉にすら顔を真っ赤にするニコはユリウス同様にそっちの方面には奥手であるに違いない。ほっとすると同時に常々気になっていたこともついでに訊いてみたくなる。

「でも、ニコの学校にも女の子いるんだろ。仲良い子とかいるんじゃないの?」

 顔を赤くしたままニコはぶんぶんと頭を左右に振る。あまりに勢いをつけるものだから、柔らかい髪の毛が動きに合わせてふわふわと揺れた。

「そんなのいないよ。それに、学校に女の子がいるって言うなら、ユリウスだって……」

 ニコは反応を伺うように少し上目がちにユリウスを見た。二人して照れながら、互いの様子を伺いながら、雰囲気がおかしくなっていく。普段どおりの会話を交わしているつもりなのにやたら照れくさくて居心地が悪い。居心地が悪いのに、でもなぜだかユリウスは今この流れを止めたくないと思った。いや、止めてはいけないのだと。

「俺は、ないけど。でも」

「でも?」

 目が合うとハッとしたようにニコはユリウスから視線をそらす。向かい合って座る二人の間に妙な緊張感が生まれる。

「どんな感じか、興味はある」

 ユリウスは思い切ってそう言った。そして、問う。

「ニコは?」

 ニコは困ったように身をよじらせながら小さな声で答えた。

「僕は、あの。よくわかんない」

 恥ずかしそうに紅く染まった頰にユリウスは妙な興奮を覚えた。いつものあの、ひとりでニコのことを考えているときに体が熱くなるあれ。あの感じが湧き上がる。

 普段ならニコと一緒のときにあれが起こらないよう必死で我慢しているのに今日のユリウスは違っていた。今ならばニコも自分に同じように感じてくれるんじゃないか。根拠はないがそんな期待が生まれ、うずうずと止まらなくなる。

 ユリウスは立ち上がりニコの隣に並んで腰かけた。ニコは居心地悪そうに腰を浮かせ、少しだけ座る位置をずらしてユリウスから離れた。ユリウスは負けじと再度ニコに体を寄せる。今度はニコも逃げようとはしなかった。

「聞いたんだけど、俺たちくらいの年になると、ちょっとずつ体も変わるんだって」

「うん……」

 ニコの言葉には明らかに動揺がにじんでいる。普段と違う態度で、普段は口にしないことを言い出すユリウスに驚き戸惑っているのは間違いない。

「結婚して子どもを作るために、体が成長するんだって年上の人が言ってた。ニコは、どう?」

「どうって……」

 曖昧な質問にニコはますますうろたえた。緊張と興奮の入り混じったユリウスは、ここから先をどう進めていいのかわからずしばらく黙りこんでしまう。しかし、いったん火のついた興味と欲望は止まらない。

「あそこに毛が生えたり、あそこの形が変わったり、あそこからおしっこじゃない、えっと、白いのが出たりするんだって」

 露骨な言葉に耳まで赤くして俯くのを見て、ニコも何も知らないわけではないのだと確信する。ユリウスはニコの膝に手を乗せて、耳元に口を寄せてもう一度質問を繰り返した。

「ニコは、どう?」