34. 第2章|1938年・ハンブルク

 べっとりと白いペンキで描かれたバツ印に、ユリウスの視線は吸い込まれる。真新しい筆跡はまだ乾ききっておらず、それはまるで神々しい十字架のようにも見えた。

 背後を通りすがった男が舌打ちをするのが聞こえて、あわててベンチから目をそらす。しかし既に目を付けられてしまっていたのか、男はユリウスに近づいてくる。上着の襟には赤いナチ党のバッジを付けている。

「おい坊主、あれをやった奴の姿を見たか?」

 話しかけられて、決して自分がやったわけではないのにユリウスの鼓動は早くなりあわてて男の言葉を否定する。

「み、見ていません」

「そうか、まああんなことするのはどうせユダヤ人の野郎だな。とりあえず通報だ」

 自分が叱られるわけではないことがわかったので、少し安心したユリウスは勇気を出して男に訊ねてみる。

「あの、落書きした人がわかったら、どうなるんですか」

「まあ、ゲシュタポに逮捕されて、収容所にやられるんじゃないか。その後のことまでは知らん」

 言い捨てて、男はそのまま歩き去る。

 ナチスが政権を取って以来、国内に建設されるようになった強制収容所は、今では数も規模もかなり大きなものになっている。そもそもは政治犯や犯罪常習者の更正を行う施設だったが、最近ではアルコール中毒や同性愛者といった社会不適合とされる者やユダヤ人、ロマなども送られることがあるのだという。そこでは更正のための思想教育や労務使役が行われるという噂だが、実際の状況はよくわからない。

 たかがベンチに印をつけたくらいで、と思うが、おそらく男の言うことは事実なのだろう。水晶の夜クリスタルナハトのときもたくさんのユダヤ人が逮捕されて収容所に送られた。

 次の日、ベンチは既に塗り直されて前以上に鮮やかな「ユダヤ人専用」の文字が躍っていた。ユリウスは、犯人は捕まったのだろうかと見知らぬ人間を心配した。できることなら捕まらないで、もし捕まったとしても軽い罪ですみますように、と心の中で祈った。

 その週の水曜、ヒトラー・ユーゲントの会合の帰りに呼び止められた。背後から名前を呼ばれ振り返ると金の髪を輝かせたダミアンが立っていた。

「やあ、ユリウス。どうだい最近」

 急に話しかけられたユリウスは反応に困った。何しろダミアンとまともに話したのは自分の体の異変について相談したあのとき一度きりだし、その内容ときたら今となっては思い出すのも恥ずかしいようなものだった。

「……普通です」

 固い表情のまま短い言葉を返すユリウスを見て、ダミアンは笑顔を崩さずまあちょっと座れよと近くの椅子を二脚引っ張る。上下関係に厳しいユーゲントではこういった場合に椅子を断って去ることは原則ありえない。ユリウスは仕方なく勧められるままに腰かけた。

「この間のことなら気にするなよ。誰でも最初は驚くさ。僕だって精通のときは、何か悪い病気にかかったんじゃないかって半泣きで相談して母親を困らせた。父親に相談すればまだ良かったんだろうけど、残念ながら母子家庭なものでね」

 ダミアンはそう言って、そのときのことを思い出したかのようにくすくすと笑う。こんなにりりしくて立派な青年にもそんな時代があったのかと、ユリウスは少しだけ救われた気持ちになり笑顔になった。

 そういえば、ヒトラー・ユーゲントに入って以来、団員同士の会話で笑ったのははじめてかもしれない。そのくらいこの集団の気質や上下関係はユリウスには馴染まなかった。なにより、こんな名前の集団の制服を着ていることそれ自体がニコへの裏切り行為であるように思えて後ろめたく心苦しい。

 ユリウスが笑顔を見せたことにダミアンは安心したようで、話を続ける。

「あのときは友人が君に対して失礼なことを言って悪かったよ。でも僕は君から相談されて嬉しかったんだ。特に、切り出すのにもすごく勇気がいるだろう相談の相手に選んでもらえてね」

 その言葉はユリウスにとって意外なものだった。こういう風な言葉をかけてくれる相手は今までユリウスの周囲にはいなかった。父は頑固で厳しく相談されることを喜ぶようなタイプではない。それ以外に唯一親密な年上の男性はレオだが、レオはユリウスをニコといっしょくたに弟扱いするので、もちろん優しい兄貴分ではあるものの、こんな風にユリウスを一人前の人間として尊重するような話し方はしない。ダミアンの態度にユリウスの心はくすぐられた。

「俺こそ急に話しかけて、ちゃんとお礼もいわないままですみませんでした」

 ユリウスが思い出したように非礼を詫びると、ダミアンは首を振ってそれを制す。

「いや、相談なんて急にしたくなるもんだろう」

「すごく安心したんです。俺は兄弟もいないし、父さんも厳しいからこういうこと誰に相談したらいいのかわからなくて」

「それなら良かった。実は僕も君とは話してみたいと思っていたんだ」

 ダミアンはそこで言葉を切って、少し考えてから用心深く続きを言った。

「ユリウス、君はヒトラー・ユーゲントが嫌いだろう?」

「えっ?」

「そんなに驚いた顔をしなくてもいいよ。嫌いっていうのが言い過ぎなのだとすれば質問を変えよう。君はヒトラー・ユーゲントという組織に魅力を感じていないね?」

 ユリウスは戸惑った。自分は試されているのだろうか? これが誘導尋問だとすれば、正直に思いを答えた場合、ゲシュタポと呼ばれる秘密警察に捕まるとか、そこまではいかなくとも危険思想の持ち主として要注意リストに載せられるとか、良くないことが起こるのかもしれない。

「ごめんごめん。困らせるつもりはないんだ。どう答えようが何も起こらない。僕はゲシュタポでも親衛隊でもない君と同じただの青年組織の一団員だよ。たださ、君はここでいつもつまらなさそうな顔をしているし友達を作ろうって気もないだろう。だから居心地が良くないんだろうなって思ったんだよ」

 答えあぐねるユリウスの気持ちを察したのかダミアンは笑いながら謝り、ユリウスはその言葉を素直に信じた。ダミアンの笑顔と柔らかい物腰には、ニコとはまったく異なる意味でユリウスの心を楽にさせる不思議な力があるようだった。

「俺はあまり集団行動が得意じゃないんです」

「珍しいね。君はスポーツも良くできるし学校の成績も優秀だって聞いてるよ。大体そういうタイプは集団行動でもリーダーになりたがるものだと」

 正直な返答にダミアンが首をかしげて見せる。スポーツや成績を評価されたことに悪い気はしないが、ユリウスはダミアンが自分という人間をひどく誤解しているような気がしてあわてた。

「それは誤解です。小学校のときは成績も良くなかったし、けんかも多くていつも先生に呼び出されていました」

「でも、そんなじゃギムナジウムには入れないだろう」

「それは、友達と同じ学校に行きたくて――……」

「その子はここには来ていないのかい? 一緒にくればいいのに

「あのう、それは」

 ユリウスは迷った。ダミアンのことは信用してもいいような気がしている。だがそうはいっても彼は金髪碧眼の絵に描いたようなアーリア人で、ヒトラー・ユーゲントのこの支部でもそれなりの地位にいる。将来は親衛隊行きだとか軍行きだとか、噂に聞いたことすらあった。

 躊躇したが、結局ユリウスは言った。

「その友達は、ユダヤ人なんです」

「そうか、それは気の毒だ」

「え……」

 てっきり「ユダヤ人とは付き合わない方がいい」程度は言われるものと覚悟していたが、ダミアンが口にしたのは意外な言葉だった。

「そのお友達は、今は?」

「ユダヤ人学校にも通えなくなったので家に。あの、良くないことなのかもしれないけど、ときどき一緒に勉強して……」

「そうか。君は優しいんだな」

 そう言ってダミアンはぐしゃぐしゃとユリウスの頭を撫でた。

「あの、あなたは俺を叱らないんですか?」

 ユリウスの心臓は早鐘のように鳴っていた。ニコと一緒にいることを責めない、それどころかそれを「優しい」と言ってくれる。そんな人間がヒトラー・ユーゲントにいることはユリウスにとって驚きだった。だが、ダミアンにとってはむしろユリウスの質問こそが意外であるようだった。

「どうして?」

「だって、ユダヤ人に勉強を教えるのは無駄なことだって学校の先生は言うし、父さんもニコ……友達には会っちゃいけないって言うから」

 するとダミアンは周囲を見回して誰も話を聞いている人がいないことを確認してから、小さな声で言った。

「僕はユダヤ人のことを嫌っているわけじゃないからね。彼らの中に優秀な人がいることもよく知っているから、勉強させる意味のない劣等民族だなんて思わない」

 そして、続ける。

「でもね、だからこそナチ党は彼らを警戒してるんだと思うよ。それに人の心をひとつにするには共通の敵を作るのが一番早くて楽だからね」

「だからってニコがひどい目に遭うのは嫌です」

「そうか、君はすごくその友達のことが好きなんだね」

 ユリウスはこくんとうなずいた。

 ダミアンは、それでもナチスを支持しているのだと言った。大戦後の不景気と治安悪化の時代にダミアンの家庭はずいぶん苦しい思いをしたのだという。そして、ナチスの公共事業拡大政策や都市計画については大いに賛成しているから、そういった施策を進めるためにユダヤ人にこの国を去ってもらわなければいけないとナチスが言うのであれば――やり方が乱暴であることは認めるけど、それだけを理由に反ナチスにはならないのだと。

「だって、自分の望むことを全て叶えてくれる政治なんてないんだから。比較して少しでもましなものを選ぶ。政治ってそういうものだよ」

「でも、そんなのずるいと思う」

 ダミアンの言うことは筋が通っているようで、ユリウスにとっては上手くけむに巻かれているようで納得がいかない。良いところは良い、悪いことは悪いと言うことはそんなに難しいことなのだろうか。明らかに不満そうな顔をしたユリウスに、ダミアンは言う。

「そうだよずるいよ。でもそれが社会で大人なんだ。僕は規定年齢になったら親衛隊に入りたいと思ってる。ナチスの目指す国づくりの大枠には賛成しているから、それをを中枢から支えたい。そして僕があまり意味がないと思っていること――それこそユダヤ人への扱いなんかは是正するよう何かしらできればと思ってるよ。何よりあんなこと続けたらドイツは国際的に立っていられなくなるだろうから」

 入り口の方から「ダミアン」と呼ぶ声がする。このあいだの軽薄な二人組がそろそろ帰ろうと呼んでいる。ダミアンは「ごめん、呼びつけて変な話をして」とユリウスに謝り立ち上がった。でも、君とは一度ゆっくり話をしたかったのだと。

 別れ際、一度は背を向けたユリウスの腕をダミアンが引いた。振り返るとそこには思いのほか真剣な表情があった。

「ユリウス、君が本当に今後友達を――ユダヤ人を救いたいと思うなら、方法は少ない。テロリストやレジスタンスになって戦うか国を中から変えるか、そのどちらかだ。どちらを選ぶかは君次第だけど」

 ユリウスは曖昧にうなずいて、足早にその場を去った。