33. 第2章|1938年・ハンブルク

 翌朝ユリウスが通学中に目にした街の様子はひどいものだった。

 ユダヤ人の経営する商店はことごとくショーウィンドウが割られ、道路はガラスの破片でいっぱいだ。略奪の残骸なのか荒らされただけなのかわからないが、商店や民家から持ち出されたらしき物もそこらじゅうに散らばっていた。ひどいことに、真新しい血痕すらあちこちで目にする。まるで嵐か竜巻かが通り過ぎた後のようで、このすべてが人の手による暴力だと思うと背中がぞっと冷たくなった。

 ニコやその家族のことは気になったが学校を休むわけにもいかず、ユリウスはそわそわと落ち着かないまま日中を過ごした。クラスメートたちが見聞きした街の様子を興奮した様子で語り合うのを耳にすれば、不安はますます大きくなる。

 例えば、どこのシナゴーグが経典もろとも燃やされたとか。近所のユダヤ人の店は完全に破壊されたとか。自分の父親がユダヤ人を殴ってパリの事件について謝罪させてやったのだとか。ユリウスは、自分の通う教会に火が付けられ自分の父の工場が破壊されるところを想像しようとしたが、おそろしくなって途中でやめてしまった。

 はやる気持ちを抑えて何とか一日をやり過ごし、学校が終わるとニコの家へ駆けつけた。住宅街にある家自体には特段の破壊の跡は見られず、普段と変わらない様子にほっとしながら鍵のかかった裏口をノックした。

 家の奥から誰かがやってくる気配はあるが、ノック一度ではドアを開けることなく注意深く外の様子を伺っているようだった。根気強く何度もドアを叩きながら、ドアの隙間から「俺だよ、ユリウスだよ」と声をかけ続けると、がしゃりと解錠する音がしてようやくドアが開いた。

 そこにはニコがいた。会うのはたったの三日ぶりなのに、青白い顔と疲れた表情のせいでまるで別人のように見えた。

「ニコ! 大丈夫……」

「しっ。ユリウス、大きな声を出さないで」

 とりあえずの無事を確かめた喜びでニコに抱きつかんばかりのユリウスの口をふさぐようにして、ニコはユリウスを家の中に引きずり込むとすぐにまた鍵を閉めた。ドアノブを何度も回してしつこいほどに施錠を確認してから、ようやくほっと息を吐く。

「ニコ」

 ユリウスは改めて無事を確かめるようにニコの名前を呼ぶ。ひどく消耗した様子ではいるが、とりあえず怪我はないようだ。

「ごめん。誰が来るかわからないから気をつけるように言われていて」

 ニコはユリウスを居間に案内しながら謝った。

 居間にはレーナがいた。ニコ同様に顔色が悪く、ソファーの隅にうずくまるようにしてお気に入りのぬいぐるみを抱きしめている。ユリウスは本当ならばニコに抱きついて無事を確かめたいくらいの気分だったがレーナがいるので思いとどまる。

「レーナも無事だったか?」

 隣に座って頭を撫でてやると、知り合いの姿に気が抜けたのか大きな目いっぱいに涙が浮かんだ。しかし兄二人に似て意志の強いレーナはぐっとこらえ、泣くことはなかった。

「今日は、学校は?」

「朝少しだけ行ったけど、すぐに帰されて自宅待機になった」

 お茶を持ってきたニコは、隣のひとりがけソファーに座る。

「学校は無事だったの?」

「うん。でも殴られた先生がいるみたいだし、クラスには、家やお店を壊されたって言ってる子もいた」

 そこではっと思い当たる。昨日と異なり今日はこの家にはニコとレーナしかいない。こんな日にニコの両親やレオは一体どこで何をしているのだろう。

「レオたちは……?」

 ユリウスが訊くと、ニコは少し言いづらそうに口を開いた。

「うん。ちょっと……父さんの事務所も窓を割られちゃって。兄さんも片付けの手伝いに行ってるんだ。僕も行くって言ったんだけど、また何か起きたら危ないから家でレーナを見てろって」

 どう言葉をかければ良いのかわからず、ユリウスは黙り込んでしまう。

「でも大丈夫だよ。もう騒ぎもおさまったみたいだし、そんなに心配しなくたってすぐにまた普段どおりに戻るよ」

 ニコはそう言って笑うが、無理しているのは明らかだった。すぐに普段どおりに戻るという言葉はあまりに楽観的すぎて、ユリウスだけでなく口にしたニコさえもほとんどそんな期待をしてはいないだろう。

「もう嫌。レーナ、ドイツ人嫌いよ」

 うつむいてぬいぐるみを抱きしめていたレーナがつぶやく。

 兄二人とは異なり、彼女は結局一度もドイツの教育を受けることができず最初からユダヤ人学校で学ぶことになった。幼いだけに周囲の影響を受けやすいのだろう、今ではレーナはある意味グロスマン家の中で一番ユダヤ人らしいユダヤ人で、「家の中の宗教」であるカトリックと「家の外の宗教」であるユダヤ教を違和感なく自身の中に共存させているのだという。

「まったく頭が痛いよ。ときどき家の中でもトーラーを唱えるんだから。まるでユダヤ教徒が家にいるみたいだ」

 敬虔なキリスト教徒である両親や兄たちはレーナの振る舞いに戸惑いつつも、同調圧力の強い女の子のコミュニティでレーナが孤独な思いをせずにすむよう特に彼女を正そうとはしていないようだった。

 ふくれっ面でドイツ人に悪態をつくレーナを見て、ニコは小さくため息をついて「ごめん」と言う。少し遅れてユリウスはそれが自分への謝罪の言葉なのだと気づいた。

「だめだろレーナ。ドイツ人皆がひどいことをするわけじゃないんだから」

「いいよニコ。俺は気にしないから」

 ユリウスはあわてて制止するが、ふくれっ面のレーナは不承不承、訂正した。

「じゃあ、レーナ、ユリウス以外のドイツ人は嫌い」

 結局、グロスマン家の三兄弟は水晶の夜を最後に学校に通うことはできなくなった。

 安全確保のために一時休校していたユダヤ人学校の再開を目前に控えた十一月十五日、ユダヤ人が学校に通うことそのものが禁止されたからだ。

 それだけではない。暴動の晩に壊された窓や建物の修理費用はすべてユダヤ人側が負担することとされたし、ドイツ人経営の企業は雇っているユダヤ人をすべて解雇するよう定められた。すでに数少なくなっていたユダヤ人経営の企業は経営権を奪われ、映画館など公共の場所への立ち入りも相次いで禁止され、あっという間にユダヤ人はほぼ完全にドイツ社会から締め出されることになった。

 ユリウスは最近、三年前にドイツを去ったナタリーのことをよく思い出す。彼女はときどきロンドンから手紙を書いてくれるが、そこには抑えたトーンながらも、ドイツがいかに国際社会から孤立しつつあるかについて彼女らしい心配が記されている。そして、何の制限もなく生活できるロンドンが彼女にとってどれほど暮らしやすいか、このような幸運を与えてくれたユリウスの父にいかに感謝しているか――悪意などあるはずもない手紙が、今ではユリウスの不安をどうしようもなくかきたてる。

 ドイツはそんなにひどい国なのだろうか。ユダヤ民族にとってドイツ以外の国はそんなに自由で暮らしやすい場所なのだろうか。だったら、もしかしたらニコだって――ついそんなことを考えてしまうから、ユリウスはナタリーの手紙を読むことをおそれるようになった。一番最近届いた手紙については封すら切る勇気がないままで、もちろんまだ返事も書いていない。

 ニコの父が事務所を閉めたと聞いたとき、ユリウスの不安はますます膨らんだ。もちろんほとんどのユダヤ人が仕事を失う中でグロスマン家だけが特別だと思っていたわけではないが、実際にニコの口からそのことを知らされたショックは想像以上に大きなものだった。

「そんなの嘘だろ。だって仕事できなくなったらどうやって……」

「こっそりちょっとした仕事を頼んでくれるような知り合いがまだ少しはいるみたい。貯めてあるお金もあるからしばらくは心配するなって」

「しばらくって」

 しばらくというのは当面ということで、ずっとという意味ではない。もしニコの父がここでの生活が厳しいから亡命すると言い出したらどうしよう。そうしたらユリウスはニコと離れ離れになってしまい、下手をすれば二度と会えないかもしれない。二度と――死んでしまった母親と会えなくなってしまったように。

「ニコも、ナタリーみたいにどこかに行っちゃわないよね」

 ユリウスは自分の声が震えていることに気づいた。実際、ほとんど泣きそうだった。

「うん……亡命は、父さんも考えてはみたけど難しいだろうって」

 今ではナタリーが出国した三年前とは比較にならないほど海外への脱出は難しくなっている。

 ナチスはユダヤ人を国外に追い出したがっている反面、限界までその資産をしぼりとろうとしている。つまり受け入れる側にとってはほとんど金銭も持たずやってくるユダヤ人など負担にしかならないということだ。どこの領事館にも大量のユダヤ人がビザの順番待ちの列を作っているが、移民受け入れに人数割当を行い現地に生活の面倒を見てくれる親類がいるかなど厳しい要件を求めてくる国がほとんどだ。

 ユダヤ教の相互扶助的コミュニティに入っていれば特別なコネクションを得られることもあるようだが、グロスマン一家はクリスチャンに改宗しているため便宜を図ってもらうことは期待できない。彼らには国外脱出の道はほとんど現実的ではなく、当面ここに留まり続けるしかないという結論に達していた。

 市民権すら奪われながら、ドイツにとどまり続けるしかない。その事実がグロスマン家の面々にとって厳しいことを理解しながらも、ユリウスは内心ではニコがドイツを離れられないことを喜んでいた。それはニコの身の危険を喜んでいることと同等で、ときおりジレンマに身を引き裂かれそうになる。それでもユリウスはニコと離れたくはないと、離れずにいられるようにと日々強く祈った。

 ただ、悪い話ばかりではない。急進的な反ユダヤの動きに違和感を持つドイツ人も少なくないようだった。特に水晶の夜クリスタルナハトの派手な暴力沙汰とその後の過激な排外政策に同情心を示す市民が、ごく目立たない形でユダヤ人への支援を行う姿は注意していればあちこちで目にすることができた。

 それだけではない、過激な動きが起きれば必ずその反動があるものだ。ある日ユリウスは「ユダヤ人専用」と書かれたベンチにペンキで大きなバツ印がつけられているのを見た。

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