35. 第2章|1939年・ハンブルク

 年が明け、街の空気は表面上落ち着いていた。水晶の夜クリスタルナハト以降は目立ってユダヤ人が暴行を受けるような事件も起きてはいない。だが、少し考えればそれが厳しい外出制限や多くの場所への立入制限により街にユダヤ人が出てこなくなったためであるのは明らかだった。

 父親はユリウスにグロスマン家への立入を禁止した。とはいえその言いつけは限りなく実効性の薄いものだ。経営する機械部品工場が急に忙しくなり、父親の帰宅時間も遅くなったからだ。

 年末までにユダヤ人経営の企業や工場は軒並みドイツ資本に譲渡されたが、譲渡がうまくいかず廃業となったり減産せざるを得なくなったケースも多い。結果として部品の安定供給が可能なユリウスの父の工場への注文が増えたというわけだ。

 ときおり訪れる友人たちと父が「戦争が」「軍事需要が」という話をしているのが漏れ聞こえてくる。ユリウスにとって父の多忙は喜ばしいことであり、その反面妙な不安を抱かせるものでもあった。

 学校に通うことができなくなって以来、ニコはほとんど毎日家にこもっている。ニコの両親やレーナも家にいることが多く、レオは友達を連れてなにやら話し込んでいるか出かけているかだった。

 ユリウスはニコと二人きりになる機会がないことに内心では焦れていた。自宅に呼ぶことも考えてみるのだが、家政婦が父親にこっそり監視を頼まれていないとも限らない。結局ニコと過ごすときは、至極健全な勉強会か将来を案じた暗い会話に終始するのだった。だが本心ではユリウスはいつだってニコに触れたい。

 そんなある日、珍しく家にはニコしかいなかった。

「兄さんは友達と出かけている。父さんと母さんはレーナを連れて、アメリカ領事館に行くって」

 ニコの言葉にユリウスはショックを受けた。

「領事館? ニコ、アメリカに行くのか?」

「そんなに驚かないで。どうせそう簡単にはうまくいかないよ」

 大げさな反応を制するようにニコが言うが、その口ぶりは少し寂しげでもある。

 少し前にニコの両親は親戚づてにアメリカ合衆国に遠縁が住んでいることを知った。そこでアメリカへの移民申請の際に必要とされる身元保証人になってくれないかと手紙で問い合わせたのだ。

 アメリカは移民受入数を大幅に絞ってきていて、申請時にも膨大な書類を要求する。その中には「決してアメリカ入国後に生活保護を受けない」ことを証明するための、米国市民権を持つ保証人からの一筆が求められているのだ。

 最近になって手紙の返事がきて、そこにはグロスマン一家の状況に同情すること、そしてできるかぎり助けになりたいという内容が書かれていた。そこでニコの両親は領事館通いをはじめたのだが、相談ひとつしようにも朝から並んで夕方までに順番が回ってくるかどうか。しかも既に大量の移民申請者がいて、これから申請したところで審査を受けられるまでに数年を要すると言われたのだという。

 ニコの悲しそうな顔を見るのは辛いが、ユリウスは内心では残酷なことを考えてしまう。そんな申請いつまでも順番が回ってこなければいい。もし審査の順がきたとして否決されてしまえばいい。

「ニコはアメリカに行きたいの?」

 ユリウスが問うと、ニコはどう返事をすべきか悩み黙り込んでしまった。その沈黙が胸に突き刺さる。

「俺は嫌だな。ニコと離ればなれになりたくない」

「僕だって、ユリウスとは離れたくないよ。でも……」

 ニコたち一家がそれだけでは割り切れない難しい状況に置かれているということをユリウスだって頭では理解している。ただ感情がついていかないだけだ。ニコがどこかへ行ってしまうかもしれない。考えるだけでおそろしくて、ユリウスは話題を打ち切るために結局ニコの唇をふさぐことにした。

「ユリウス……」

 戸惑ったようにニコがまつげを震わせる。前回キスして触れてからもう一ヶ月以上経っている。ユリウスは有無を言わせない態度でニコを抱き寄せズボンの中に手を突っ込む。雰囲気もなにもあったものではないが他に方法を知らない。

 指先に触れるのは、ざらりとした感触。

「ニコも生えてきたんだ。見せてよ」

 耳元にささやくと、ニコの体がびくりとおののいた。ユリウスの手を掴んで制止するような動きを見せるが、それは弱々しくて、ユリウスが強引に続けるとそれ以上拒むことはない。

 ズボンと下着を脱がせて足を開かせるとニコは恥ずかしそうに顔を隠してしまう。一ヶ月前は何もなかったはずの場所にうっすらと陰毛が生えはじめている姿は、少し寂しいような気もしたがひどくなまめかしかった。少しざらつく感触を指や手のひらでしつこくなぞってユリウスは堪能する。すると敏感な部分に触れられたニコも反応し始める。

 ニコの勃起した小さな性器をいじっているとたまらなくなり、ユリウスもズボンをずらした。はじめてニコに触れたときはまだ生えはじめだったユリウスのそこは、根本の茂みが濃くなり更に大人の姿に近づいている。

 右手でニコに、左手で自分に触れる。しばらくそうやっているうちに気持ちが高ぶって、ユリウスはニコの手を導き自分のものに触れさせた。びくりと驚いたように一瞬手を引こうとしたニコは、それでも促されると素直にそれを握った。ニコの白くて華奢な手が自分に触れているのだと思うとどうしようもなく興奮してユリウスのそこはさらに硬く熱くなった。

「ニコ、俺、ニコのことが好きだ。だからどこにも行かないで」

 思わず気持ちがこぼれ出た。言ってしまってからとんでもないことを口にしたと思ったが、意外にもニコは小さくうなずいた。

 ユリウスはそれを、自分の気持ちが受け入れられたのだと思った。じゃれあいだった行為が意味を変える。セックスの何たるかを詳しくは知らなくとも、これが本来は恋人同士が行う行為だと言うことにはずっと前から気づいていたのだ。

 快楽を追うことに夢中になった二人は階段を上ってくる足音に気づかなかった。

「おい、ニコ……」

 普段と同じようにノックもせずドアを開けたレオが、そのまま数秒固まった。ユリウスとニコははっとして手を止め、顔を上げる。もちろん下半身を露出したあられもない姿で、手は互いのものを握っている。

 ――時間が止まったような気がした。いっそ、止まったままならば良かった。

「おまえ、何やってるんだよ」

 時間が再び動き出すと同時にレオが大声をあげ、ベッドの二人に躍りかかった。両肩を乱暴に掴んでくる手はユリウスをニコから引き離し、その頰を思い切り殴りつけた。右の頬を打たれたら左の頬も差し出しなさい。何度も聞いたそんな教えを思い出したわけではないが、あまりの痛みにもうろうとした次の瞬間、反対の頬にも拳がたたき込まれた。

「やめて、兄さん」

 叫び声をあげてレオがユリウスを殴る腕にすがりつこうとしたニコはしかし、簡単に振り払われてしまう。レオの目は怒りに燃えて、レオの拳は怒りに震えていた。

「おまえたち、いつもこんなことやってたのか。いつからだ?」

「ちょっとふざけただけなんだ。今日だけ、今日はじめて……」

 痛みと驚きで口がきけないユリウスの代わりにニコが必死で訴えるが、もちろんそんな稚拙な嘘が信用してもらえるはずもない。真っ青な顔をしたレオは、大きく息を吐き頭を抱えた。

「なんだよ、信用してたのに。なんでこんなことに……」

 力ないつぶやきを聞きながら、ユリウスは頬の痛みをこらえつつズボンを履き直した。

 どう反応すれば良いのか、レオになんと言えば良いのかわからない。レオを裏切ったことは自覚しているし申し訳ないとも思う。ただそれ以上にこれからの展開がおそろしかった。

 レオは二人を前に、言った。

「ふざけただけって言っても程度がある。おまえたち、こういう行為が罪だって教会で教わっただろう。とても許されることじゃない。それにユリウス、自分がアーリア人だからって安心してるのかもしれないが同性愛者はドイツ人だろうと関係なく逮捕されて収容所に送られているんだ。ただでさえ危ない時期に……」

「兄さん、ごめんなさい」

 ニコのつぶやきはレオの言葉を肯定しているようで、ユリウスの心は深く傷ついた。

 神様に否定されてもナチスに否定されても、ニコには自分の気持ちを肯定して欲しかった。受け入れて欲しかった。罪だなんて言って欲しくなかった。だからといって今のユリウスはレオに言い返して、納得させられるだけの言葉を持っていない。

「ニコ、この件を父さんや母さんにどう話すかは少し考える」

 レオの言葉にニコはうなだれた。次にレオは振り返り、ユリウスに厳然たる通告をした。

「今までいろいろと助けてくれたことには感謝してる。でも、悪いがユリウス、もうここには来ないでくれ。二度と弟には会わせない」

 どうやって家まで帰ったのか覚えていない。

 家政婦は頬を腫らしたユリウスの姿に驚いて、すぐに冷やすための濡らした布を持ってきた。しかしユリウスは頬の痛みなどほとんど感じてはいない。ただただ心が痛かった。

 もうニコの家に行けない。しかも、二度とユリウスをニコと会わせないというレオの言葉にニコは反論しなかった。もしかして本当にこの先もう会わない気なのだろうか。

 はじめて正直な気持ちを伝えることができて、ニコもそれを受け入れてくれた気がした。あんなに幸せだったのに、一瞬でたたき落とされた。

 頭に血が上ったユリウスは、短絡的にレオを恨んだ。

 ――レオが悪い。だまし討ちみたいにやってきて、こっちの話も聞かずに一方的に断罪して、しかも自分とニコを引き離そうとしている。あんなに優しかったのに、兄のように思っていたのに、いともたやすく俺を切り捨てた。

 帰宅した父もユリウスの腫れた頬に気づいて驚き理由を聞いた。

「どうした。またけんかでもしたのか……」

 ひどく感情をかき乱され混乱したユリウスは、うっかり父親にいらぬことを口走ってしまう。

「……レオにやられた」