36. 第2章|1939年・ハンブルク

 ユリウスはその晩、熱を出した。

 頬の腫れはたいしたことはなくすぐに引いたが、精神的なショックの影響なのか熱が下がらず翌日からは学校を休んだ。多少の風邪や腹痛では休むことを許してくれない父親もさすがに高熱にうなされる息子をベッドから引きずり出すようなことはしなかった。

 ユリウスはひたすらベッドの中で悪夢にうなされた。夢にはいくつものパターンがあり筋書きは目を覚ますとすぐに消えてしまうが、どれも結末は同じだ。しかも結末だけは目覚めた後もしっかりと生々しく頭に残りユリウスを苦しめる。

 ニコと永遠に引き離されてしまう夢。ニコに別れを告げられる夢。汗まみれで目を覚まし、それが夢であることに一瞬ほっとする。しかし自分が置かれている状況が夢の中身とほとんど変わらないことを思い出し、再び地獄に突き落とされるのだ。

 三日目の朝にようやく熱が下がったが、気分の落ち込みは相変わらずだったので具合の悪いふりで引き続き学校を休んだ。このまま永遠に学校に行かずにすめばいいのに、とユリウスは思った。

 そもそも進学校になどまったく興味はなかった。ニコが代わりに行ってくれというから楽しくもないギムナジウムで毎日くそまじめに授業を聞いていたのだ。そのニコと二度と会えないのならば学校に通う意味などなくなってしまう。いっそ退学してしまえればいいのに。

 結局その日もだらだらとベッドの中で過ごしたが、悪夢が怖くて昼寝はしなかった。午後に往診に来た医者は「もう明日からは学校に行けますな」と太鼓判を押し、その言葉はユリウスを落胆させた。

 もちろん軽率なことをしてしまったという自覚はある。いつ誰が戻ってくるかわからないニコの部屋であんな行為に及ぶべきではなかった。それでも、ニコに触れたことそれ自体が間違いであるとはどうしても思えない。

 宗教上の罪、社会的な罪。レオに言われる前からそんなこと知っていた。だったらレオはどうなんだ。はっきりと見たわけではないが、あの親密さからすればレオだってイレーネと法を犯す関係を結んでいるのではないか。厳密な話をすれば婚姻外の性交渉は宗教上認められていないはずだし、ニコが不安がっているように、ユダヤ人のレオとドイツ人のイレーネが寝ること自体が明確な罪だ。それどころか教会では自慰行為さえも罪だとされているが、そんなの誰だってこっそりやっている。

 いや、本心ではユリウスもそれが八つ当たりであることはわかっている。たとえあれがレオではなかったとしても、ニコの両親や、例えばユリウスの父親だったとしても自分たちは非難されただろうし、自分のニコへの感情や行為は許されはしないだろう。

 ただユリウスは心のどこかで自分とニコだけは特別だと甘く夢想していたのだ。この恋心だけは善悪を超えた特別に美しく尊いものだから神様だって認めてくれるのではないか。運良く誰にもばれず責められることもなく、ユリウスとニコの密やかな時間は永遠に続くのではないか。そんなこと、あるはずもないのに。

 レオは家族にあのことを話してしまっただろうか。ニコは両親やレオに叱られただろうか。だとしたら可哀想なことをした。

 ユリウスの心はひどく揺れた。自分の罪を認める気持ち。衝動的な行為でニコにも迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思う気持ち。それでもニコに会いたくて、好きだという気持ちを消すことができなくて、自分たちを引き裂こうとする神様やナチスや、レオすら憎らしく思う気持ち。

 ――だって、ニコはあのときうなずいたんだ。

 気持ちを抑えきれず「好きだ」と告げたら、うなずいて体を委ねてきた。あれこそがニコの本心なのではないのか。今のユリウスにとって頼りになるのはそれだけだ。すべての周囲が敵でも、自分がニコのことを好きでニコも自分を好きでいてくれればきっとなんとかなる。その希望に頼る以外なかった。

 部屋の窓ガラスがコツコツと鳴ったのは夜も遅い時間になってからのことだった。

 父親は仕事でまだ帰ってきておらず、ユリウスの看病のため勤務時間を延長していた家政婦もついさっき帰ってしまった。二階の窓が鳴ることを不気味に思い放っておいたが、音はしつこく止むことがない。とうとうユリウスは窓に近寄りカーテンを開けた。

 氷のように冷たくなったガラスに手を当て、暗い外に目を凝らす。見下ろすと窓の真下のあたり、裏庭の隅に小さな人影があった。またひとつ、コツリと音がして窓ガラスが震える。窓の音の正体はその人影が投げる小石だった。

 ――ニコだ。ニコが会いに来てくれた。他にこんなことをする人物がいるはずがない。

 裏庭の人物の顔は闇に紛れて見えないが、ユリウスには確信があった。ユリウスはあわてて上着を引っ掛け部屋を出た。

 ユリウスの心は一気に躍った。ユダヤ人には夜間外出禁止令が出ているから本来ならばこの時間ニコは外に出られないはずだ。それを破ってここに来るほど、ニコはユリウスに会いたかったのだろうか。脚をもつれさせながら階段を駆け下り、裏口を開けて裏庭に飛び出す。上着を着ていてもドイツの冬はあまりに寒く外気がヒリヒリと肌を刺すが、そんなことより喜びが勝った。

「ニコ!」

 興奮して大声を上げそうになり、あわてて口をつぐむ。こんな時間にニコがここまでやってきたことが誰かに――特にユダヤ人を目の敵にしている人間に知られたら大変なことになるに違いない。じっと二階を見上げていたニコも、裏口から飛び出してきたユリウスに気づいて駆け寄ってくる。

 ユリウスはとにかくまずニコの顔をしっかり見ようとした。叱られて殴られてはいないか心配だった。

 冷たい頰に手をあて顔をのぞき込み、その顔面がおそろしいほどの蒼白であることに気づいた。外は暗くニコの顔は部屋の中から漏れ出る灯りにうっすら照らされている程度だが、それでも異様なほど白く、普段つやつやした薄紅色をしている唇も今はかさついて紫色をしていた。

 公教育から追い出されてギムナジウムに通えないと知った日、水晶の夜クリスタルナハトのとき、過去に何度もニコが激しいショックを受けたときの表情を見てきたが、今見ているニコの様子はそのどれとも違った。顔は蒼白で目はうつろ、全身ががたがた震えているのはきっと寒さのせいだけではない。

「ニコ、一体どうしたの?」

 どうやらニコがここにやってきたのはユリウスが思ったような理由ではないようだ。てっきりあんなことがあった後のユリウスを心配して、もしくはニコ自身も会いたい気持ちが抑えきれなくなって来てくれたのだと甘い妄想をしていた。だがそれはきっと間違いで、何かおそろしいことが起こって、ニコはそれを知らせにやってきたのだ。

「どうしよう……ユリウス、兄さんが」

 震えながら口を開いたニコの舌はもつれ、そこでいったん言葉が止まる。ユリウスはもどかしくて、ニコの腕をつかんで揺さぶるようにして先を促す。

「レオが、レオがどうかしたの?」

 ニコは絶望的な顔をして、続けた。

「家にゲシュタポが来て、兄さんを連れて行った……」

 ゲシュタポとは国家秘密警察のことで、ナチ党に反対する人々や社会主義者、共産主義者、最近ではユダヤ人犯罪者の摘発などを行うことを主な任務にしている。ほとんど特権的と言っていい立場にある組織で、ゲシュタポに逮捕された者は「保護拘禁」の名の下に裁判も経ずに強制収容所へ送られ、刑事裁判で無罪判決を受けた者が拘束され収容所に送られることすら、それがゲシュタポによるものであれば違法とはならない。

「レオが捕まるなんて、なんで。捕まるようなことするはずが……」

 悪夢のよう、というより悪夢そのものな知らせにまずは驚き、そんなことあるはずがないと頭の中で否定する。だが、それからゆっくりとユリウスの脳裏に浮かび上がってきたのは、三日前感情に任せて吐いた自分の言葉と、それを聞いたときの父親の表情だった。

 そう、ユリウスは頰を腫らした理由を問われ、確かに父に言ったのだ。

 ――レオにやられた、と。

 すっと全身から力が抜け、ユリウスはその場に崩れ落ちそうになった。

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