37. 第2章|1939年・ハンブルク

「今日の午後、急に兄さんが連れて行かれたんだ」

 震えながら事情を説明するニコの言葉はほとんど耳に入ってこなかった。もやのようにおそろしい想像が渦を巻き、ユリウスの頭の中ではっきりした形を作ろうとしている。

「――それで、危険だからって」

 ニコが必死に紡ぐ言葉がユリウスの耳を虚しく通り抜けていくうちに、通りの方からエンジン音が近づいてきた。ユリウスははっと正気に戻る。その音が父親の運転するオペルだと気づいたからだ。

「まずい、父さんだ」

 ニコが夜間にこんなところにいるのを父親に見られるのは危険だ。ユリウスはあわててニコの腕を引き、家の裏の小道に繋がる植え込みの方へ引っ張っていく。

「ニコ、裏から逃げて。またこの話は明日……」

 裏から出ればおそらく父親には気づかれない。ニコはユリウスに促されるままに敷地を出て行ったが、その表情はどこか寂しそうで、何かまだ言いたげな様子だった。しかしユリウスは、レオが逮捕されたショックと父親の帰宅に対する焦りで、ニコが未練がましく何度も振り返っていることに気づきもせず、さっさと裏口から家の中に戻ってしまった。

 帰宅した父親は熱の状態を確かめようとしてユリウスの顔に触れ、驚く。

「どうした、外にでもいたのか? 冷え切っているじゃないか」

「い、いや。父さんまだ帰ってこないのかなって心配で、さっきちょっと外に見に行ったんだ」

 苦しい言い訳だったが、父親はそれ以上問い詰めることはせずにもう遅いのだから暖かくして寝るようにユリウスに言いつけた。

 部屋に戻りベッドに潜り込むが、眠れない。

 レオが逮捕された。一体どうして。どちらかといえばお固いくらいな、真面目で優しいレオが犯罪を犯すことなど考えられない。家に集まる友人たちも、レオが付き合うにはやや年かさではあるが皆悪いことをするようなタイプには見えなかった。逮捕される理由なんて、もしあるとすれば――。

 ユリウスは三日前、ニコとの一件をレオに責められたことへの恨みから父親に「レオにぶたれた」と訴えた。もしかしたらユリウスの父親が、息子がユダヤ人から暴行を受けたとゲシュタポに訴えたのだろうか。それでゲシュタポはレオを捕まえてしまったのだろうか? 確信などないが、一度意識した「もしかしたら」はどんどん強固になりやがてユリウスの中で「多分そうじゃないか」、そして「そうに違いない」へと形を変えていく。

 ユリウスは恐怖に震えた。ゲシュタポに捕まった人は強制収容所に送られるのだと聞いている。水晶の夜クリスタルナハトのときに捕まった人たちはしばらく経って戻ってきたが、それから間もなくドイツを出て行った。それ以外の人は――戻ってくるのだろうか。それとも一生そこで過ごすことになるのだろうか。レオは一生家族の元に戻れない? まさか。でも。

 ばかなことをした。いくらニコとの関係を責められたからといって、ユリウスはレオにこんな目に遭って欲しいわけではなかった。ただニコに二度と会わせないと言われたことがショックで、腹立ち紛れにちょっと口を滑らせただけなのだ。だって、レオは訳もなく人を殴るような人間ではない。レオがユリウスを殴ったのにはちゃんと理由があった。

 布団をかぶったユリウスは恐怖でがたがたと震え、心の中で何度もごめんなさいと繰り返す。時間が戻せるのならば絶対にあんなこと言わない。神様お願い、あれはなかったことにしてください。幾度も強く願うが、もちろん時間が巻き戻せるはずもない。

 眠れないまま時計を見ると午前三時を過ぎた頃だった。ユリウスはこんな遅い時間まで起きていたことはない。

 ニコに会わなきゃ、とふいに思った。

 家に行ったところで夜中だが、さっきのニコと同じように窓ガラスに小石を投げたら気づいてくれるかもしれない。ニコには正直に自分の過ちについて話さなければいけない。自分がレオの謂れなき罪を訴え、それがレオが逮捕される理由になったかもしれないことを。

 謝ったところでどうなるのかわからない。ニコは怒るだろうし、悲しむだろう。でも今ならまだ間に合うかもしれない。自分がゲシュタポに朝一番に訴え出てあれは嘘だったと正直に話せば、レオは許され家に帰してはもらえないだろうか。

 ユリウスは寝間着の上にコートを着て、そっと部屋を出た。父親に気づかれないように足を忍ばせ音を立てないように階段を降り、廊下を抜けてそっと裏口から外にでる。建てつけの悪いドアがギイっと音を立てて心臓が飛び跳ねたが、幸い父親が起き出す気配はなかった。

 ガレージから自転車を出し、暗闇でも困らないよう前かごに携帯用のランプを入れる。冷え切ったサドルにまたがり同じく冷え切ったハンドルを握る。一刻も早く、ニコの家へ。

 闇の中ではいつもの調子とはいかず、通い慣れた道を行くのに少し時間がかかった。ニコの家は灯りが消え、しんと静まり返っている。時間を考えれば当たり前のことだ。ユリウスは裏口側に自転車を停め敷地内に入った。ニコの部屋がどこなのかはもちろんわかっている。さっきニコがやったように、庭の小石をいくつか拾って窓のあるであろう場所の下に立つ。

 手が冷えきっているからうまく投げられないかもしれない。もし間違えてニコの父親と母親を起こしてしまったらどうしよう。レオはあのことを話してしまっているだろうか。だったら、もしかしたらニコには会わせないと言って追い返されてしまうかもしれない。だが、考えていたって勝手にニコが出てきてくれるわけではない。とにかくユリウスはやってみるしかなかった。

 少しは目が闇になれたとはいえ視界は悪い。はっきりとは見えない窓に向かって、ユリウスはゆるい力で小石を投げる。力を込めすぎてもしガラスを割ってしまえば大変なことになる。加減は重要だった。

 コツン。手応えがあった。しかし、反応はない。

 少し待ってみては反応がないのを確認し、繰り返し石を投げる。ひとつ投げるごとに祈るような気持ちだった。どうかニコが目を覚ましてくれますように、どうかニコが俺に気づいてくれますように。

 家の中からふいに物音がした。だがそれは二階ではなく一階の方からだった。しまった、親を起こしてしまったのだろうか? ユリウスは逃げるか留まるか迷った。でもさっきのユリウスのように、気づいたニコが下に降りてきた音かもしれない。結局その場所に立ち、少し様子を伺うことにした。

 少し経って、裏口のドアが細く開いた。そこから出て来た小柄な影は――。

「ユリウス?」

 小さな声で名前を呼んでくる。しかしその声は愛しいニコのものではなかった。

「レーナ……」

 とりあえずそれがニコの両親ではないことに安心した。さすがに性的な話を幼いレーナにまでは聞かせていないだろう。もしかしたらユリウスがグロスマン家に出入り禁止であることくらいはレーナだって知っているかもしれないが、まだ話をする余地のある相手である気がする。

 ユリウスは裏口へ歩み寄りながら、何か奇妙な――嫌な雰囲気を感じていた。

「レーナ、ニコは?」

 ささやき声で問いかけながら違和感の理由に気づく。こんな真夜中にレーナが出てくること自体は彼女が小石の音に気づいたからだとして、ではなぜレーナはこんな格好をしているのだろう。

 レーナは深夜だというのに寝間着姿ではなかった。それどころかまるでこれから外出するかのように、洋服の上に厚い外套を着て襟巻きまで巻いている。

 嫌な予感がする。ユリウスの鼓動は激しくなった。レーナが口を開くその先は、本当は聞きたくない。

「ニコお兄ちゃんはパパと一緒に先に行っちゃったわ。皆一緒だと目立つからって。聞かなかったの? ユリウスにお別れを言いに行くって出かけたのに」

「お別れって――」

 そこでユリウスは、さっきニコが言いかけた言葉が何だったのかを知った。そして、あんなにも未練がましい顔をしてユリウスの家を後にした意味も。

「……嘘だろ」

 拳を強く握りしめて絞り出した言葉をレーナはすぐさま否定した。

「嘘じゃないわ。ドイツ人の警察官で、パパの昔からのお友達がこっそり知らせてくれたのよ。レオお兄ちゃんだけじゃなく明日の朝一番でゲシュタポが家族全員を捕まえに行くことになったから、今のうちに逃げなさいって。だから目立たないように先にパパとニコお兄ちゃんがここを出て、これからママとレーナも行くの」

 レーナの表情は蒼白で、しかし普段よりずいぶんと大人びて見えた。年々厳しさを増す環境がニコに悟ったようなあきらめの良さを与えたように、家族の危機は八歳の少女を急激に大人にしようとしているようだった。

「レーナ、君たち家族はどこへ行くんだ? いつ戻るんだ?」

「ポーランドに行くんだってパパは言ってたけど、それ以外知らない」

 できれば遠くなければいい。できれば長い期間でなければいい。祈りながらの質問には曖昧な返事しか得られない。レーナは左右に小さく首を振った。

 部屋の奥からランプの灯が合図するようにちらちらと揺れた。それを見たレーナはあわてて会話を終えようとする。

「ユリウスごめんね、もう行かなきゃ。支援の人がこっそり連れ出してくれるの」

 そう言って、最後にレーナはユリウスの手を名残惜しそうにぎゅっと握りしめ、ユリウスはその手を強い力で握り返した。

 ユリウスはふとコートのポケットに手帳とペンが入ったままになっていることを思い出した。ヒトラー・ユーゲントの活動では何かとメモを取ることが求められるので、忘れないようユリウスは常に筆記用具を上着に潜ませるようになっていた。ドアが閉まる直前、取り出した手帳にただ一言書きつけて、そのページを破り取ると四つ折りにしてレーナの手に握らせた。

「レーナ、頼む。これをニコに渡してくれ」

 レーナははっきりと縦に首を振り、最後に弱々しい笑顔を見せると裏口のドアを閉めた。グロスマン家はそれきり静かになり、ユリウスはしばらくの間そこに立ち尽くしていたが、空っぽになった家へはもう誰も戻って来なかった。

 朝になる前に家に戻らなければ。ユリウスはよろよろと自転車にまたがり、真っ暗な道を家に向かって漕ぎはじめた。

 あまりに時間がなかったからさっきのメモには今のユリウスの強い思いだけを書き付けた。ただ、また会いたい。何としてでもニコに会いたいという気持ちだけを。

 ――迎えにいく J

 あのメモは、ちゃんとニコの元に届くだろうか。

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