挨拶もなしに部屋に駆け込んできたハンスが「大変だ、レオが倒れた!」と叫んだとき、ニコは驚きと恐怖のあまり心臓が止まるのではないかと思った。
大家の部屋に泊まったラインハルトを家まで送り、そのまま仕事に行くのだとレオ――正直言ってこの名前にはまだ馴染まないが――が部屋を出て行ってから三時間ほどが経過していた。
ちょうど搬送された先がレオの勤務先の病院で、そこにはハンスの母親が勤めている。母親から連絡を受けたハンスはあわててニコのところへ飛んできたというわけだ。
激しく動揺するニコに、ハンスは言った。
「その場にいた人によると、すごい勢いで走ってきたかと思ったら、そのまま急にぶっ倒れたらしい。命に別条はないみたいだけど」
「兄さんは戦争中に頭に怪我をしているから……」
「でも、通勤経路でもない場所で一体あいつ、何していたんだろう」
命に関わる状態でないというのは良い知らせだが、ニコにとって「頭痛」というキーワードは不安をかき立てるものだ。今の彼の記憶喪失が頭の傷によるものだとしたら、頭の異変をきっかけに記憶を取り戻すこともあるのかもしれない。もしそうだったらどうしよう。落ち着かない気持ちになる。
ハンスは用事があるからと言ってすぐに帰ってしまったが、ニコは病院に居座った。ひどく緊張していたのに、眠る男をじっと眺めているうちにいつの間にか眠ってしまった。
目を覚ますと、髪を撫でられていた。優しい手の動きにもう少しそのままでいたかったが、そんな素振りを見せることはできないから上体を起こす。完全に目を覚ましているわけではない男は、普段よりゆったりした調子でニコが話しかける内容に「うん」「いいや」と簡単な答えを返すだけだ。
大丈夫、多分普段と変わらない。のんびりとした会話を交わしながらニコはなんとか確信を得ようとする。目の前の彼がまだ「レオのままで」いられるように。最近ではずいぶん危うくはなってきているが、なんとか兄弟としてのささやかな暮らしが続けられるように。
そのためには――。
「夢を見てたよ」
そんな言葉が耳をくすぐる。
「夢?」
聞き返すニコに、ぼんやりと寝ぼけたような視線で宙を眺めながら、男はほとんど独り言のようにつぶやく。
「不思議な夢。……別の人間になった夢だった。俺はそこではおまえの兄貴ではなくて……」
そのとき、ニコは自分の長い嘘と、つかの間の幸せな生活が終わるときが来たのだと知った。
そもそもが薄氷の上を歩くような日々だった。記憶喪失という幸運な偶然に助けられて、戦後の混乱に乗じて彼を「自分の兄だ」と言い張った。意外にも誰からも疑われることはなく二年間も彼と一緒に過ごすことができた。でも、もう潮時だ。
兄弟としての生活はすでに破綻している。本来ならこうなる前に姿を消すべきだった。それでも色々なことをごまかしながら、まだ何とかなるのではないかと、沈黙と言い訳を繰り返してここまでやってきた。けれどおそらく〈レオ〉は近々記憶を、本当の自分を取り戻してしまうだろう。――ニコと彼のお互いにとって、この上なく残酷な記憶を。
最初からこんなことすべきではなかった。記憶を取り戻し二年間の生活が虚構だと知ったとき彼がどれほど傷つき自分を、そしてニコを責めることか。そして全てを思い出した彼に対して自分がどのような感情を持つか。でも、ニコには他に方法がなかったのだ。
「もう少しだけ眠って。次に起きたらゆっくり話そうね」
声をかけると、半覚醒状態だった〈レオ〉はそのまますっと眠りに落ちる。
名残惜しくて、しばらくの間ニコは安らかな寝顔を眺めていた。けれどいつまでもここにいるわけにはいかない。次に彼が目を覚ます前に、決して追いつかれない場所まで――。
ずっと昔、ハンブルクで別れを告げに行ったとき、話は途中で遮られて結局ちゃんとさよならを言えなかった。出発の時間は迫っていたし、夜間にユダヤ人が外にいること自体危険この上なかったのに、名残惜しくて何度も何度も振り返った。
でも、ニコはもう振り返らない。
最後に一度だけ明るい鳶色の髪を撫で、頬に触れ、ニコは立ち上がった。
「さようなら、ユリウス」
久しぶりに口にした名前は口の中で苦く溶けた。