39. 幕間|1948年・ウィーン

「レオ、郵便が来ているよ」

 老婦人がテーブルの上に封書を置く。

〈レオ〉――そう名乗るのはもはや正確ではないのかもしれない、しかし今手にしているのは「ドイツ出身のユダヤ系難民であるレオポルド・グロスマン」としての身分証のみだから、とりあえず対外的にはその名を名乗る他にはなかった。

 頭痛で倒れてから一年弱。

 ニコが消えてから一年弱。

 記憶らしきものは、少しずつ戻りつつあった。その一方でニコに与えられた〈レオ〉としての過去と、小刻みに頭の奥から現れるドイツ人ユリウス・シュナイダーとしての過去。いずれも自分であるようで、いずれも自分でないようで、気持ちはひどく不安定だ。

 そもそもレオやユリウスといった人間が本当に実在したのか。自分の手にしているグロスマン名義の身分証だって戦後の混乱に乗じて申請すれば誰だって手に入れることができた程度の代物だ。そんな風に考えはじめれば、ニコは本当にニコだったのか。そもそもニコラス・グロスマン自体も実在する人間なのかわからなくなってくる。

「まったく、もう一年くらい経つのかねえ。手紙の一通もよこさず、あの子はどこで何をしてるんだろう」

 淹れたばかりのコーヒーを手渡しながら、シュルツ夫人がため息をつく。

 ニコがいなくなって少し経った頃〈レオ〉は下宿を出ようとした。ベッドが二つある部屋は今の〈レオ〉には必要ないし、ニコと生活した思い出の残る部屋でひとりで暮らすことはあまりに辛かった。しかし、老婦人は強硬にそれを止めた。

「ニコがいつ戻ってくるか、連絡をよこすかわからないんだから、あんたまでここを離れようなんて言っちゃだめだよ」

 代わりに彼女は、半地下よりよっぽど狭くはあるが暮らし心地の良い自分の家の一室を与えてくれた。二人で暮らすには狭すぎるからニコがいるときには貸せなかったが、ひとりならここで十分だろうと。また、ニコがいなくなって以来まともに食事を作ることもせず荒んだ生活を送っている〈レオ〉に三食を食べさせ、何かと世話を焼いてくれた。

 ニコの行方は一向に知れない。ハンスは積極的に探すべきだと訴えるが、〈レオ〉はニコに会いたくて仕方ない反面、再会することがおそろしくもある。一体なぜニコは自分のことを彼の兄の名前で呼び、兄として扱っていたのか。そしてなぜ記憶を取り戻しかけたタイミングで消えたのか。

 最近になって思い出したことがある。少年時代のユリウスがニコへの思いをこらえきれず体に触れていたこと。それをニコの兄であるレオに見つかってこっぴどく叱られたこと。そして――その後まもなく、レオがゲシュタポに連行されたこと。

 戦後の今ならわかる。あの頃の状況からしてレオが無事に戻ることはなかっただろう。そして、ニコは本物のレオがすでにこの世にいないからこそ、彼の兄の名と身分を自分に与えたのだ。

 もし自分がユリウス・シュナイダーなのだとすれば、これは復讐なのだろうか。兄を死に追いやった人間に兄の名前を与える。それはどんな刻印よりはるかに重い意味を持つ罪の烙印であるように思える。いつかニコに再会する日がくれば、もしくは自分が詳細な記憶を取り戻すことができれば、すべては明らかになるのだろうか。

 つらつらと考えながら〈レオ〉は受け取ったばかりの手紙の封を切った。手紙は一ヶ月以上前に〈レオ〉がハンブルクにあるギムナジウムに送った問い合わせへの返信だった。

 虚ろな記憶の中にある「ユリウス・シュナイダー」という少年。まずはその痕跡を探る必要があると思った。もしかしたらユリウス自体が実在しない架空の人物で、怪我でおかしくなった自分の頭が作り出した妄想という可能性もある。もしくは自分以外にこの世に本物のユリウスが存在している可能性だってある。

 取り出した便箋には現在の学校長の名前とともに、〈レオ〉からの問い合わせに対する丁寧な回答が書かれていた。

〈レオポルド・グロスマン殿

 貴殿が我が校で一九三五年まで学ばれたとのこと、過去の名簿において確認いたしました。時代の要請とはいえ極めて優秀な生徒であった貴殿が最後まで我が校で教育を受けることが叶わなかったことを誠に残念で申し訳なく感じております。と同時に、過酷な戦争を無事生き抜かれたことについては大変喜ばしく思います。

 さて、お問い合わせいただいた件ですが、ユリウス・シュナイダーなる生徒についても我が校への在籍を確認できました――〉

 そこまで読んで、〈レオ〉の鼓動は激しく打ちはじめる。

 レオは実在の人物だった。そして、うっすら蘇った記憶と同様に一九三五年にギムナジウムを退校となっている。そして、ユリウス・シュナイダーも同じ学校に在籍していた。はやる心を抑えながら続きを読み進めた。

〈――ユリウス・シュナイダーについては一九三五年に我が校に同名の生徒が入学しておりますが、卒業の記録は残っておりません。我が校も戦時中には度重なる空襲の被害を受け、多くの書類が消失していることから、ご期待に添えませんこと大変申し訳なく思います。

 ただし公的書類から得られた情報ではないものの、戦前戦中に在籍していた教員から聞き取ったところによると、ユリウス・シュナイダーは成績も優秀で特段問題も起こさない生徒であったものの一九四〇年頃には我が校を去ったとのこと。その理由は――〉

 ずきっと頭の奥が痛んだ。今もときおり起こる頭痛は新たな記憶の断片が蘇るシグナルだ。せめて蘇るのが幸せな記憶ばかりであるならば救いだが、ユリウスとしての記憶は悲惨に満ちていて、最近では痛みがはじまるたびにどうしようもない恐怖に襲われる。

「あら、また頭が痛いの? 古傷って怖いわねえ」

 コーヒーカップを置き読みかけの手紙を折りたたむと、心配そうにシュルツ夫人が問いかけた。〈レオ〉はうなずいて立ち上がる。

「うん。たいしたことはなさそうだけど、少し横になることにするよ」

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