40. 第3章|1939年・ハンブルク近郊

 ついさっきまで視界は真っ暗だったが、厚い布地越しに差し込んでくる光のおかげでようやく少しだけ周囲が見えるようになってきた。

 夜が明けたのだ、とニコは思う。

 一睡もできないまま夜を越え、朝になった。これまで眠らずに朝を迎えたことなど一度だってないのに、神経が高ぶっているせいか落ち着かない環境にいるせいか眠気はまったく襲ってこない。

 ごとん、とまた大きく荷台が揺れ体全体が浮き上がる。できるだけ人目につきにくい道を行くとは聞いていたが、郊外に出た頃から道路の状態が一気に悪くなり、ニコと両親、そして妹のレーナが詰め込まれた荷台全体は終始ひどく揺れている。大きな石に乗り上げるたび体が浮き、着地の際に床板にたたきつけられるものだから最初はひどく臀部が痛んだ。しかしあまりにも何度も尻を打ち、しかも床板自体がひどく冷たいものだから、今では尻がしびれてしまいほとんど痛みも感じなくなっていた。

 車酔いで泣いていたレーナは、母親が飲ませた酔い止めのおかげか疲れのせいか、今はよく眠っている。薬も無尽蔵にあるわけではないのでできるだけ妹のために取っておこうと、ニコはときおりこみ上げる吐き気を必死でこらえた。

 めまぐるしい一日が終わり、新しい日がやってきた。それでも悪夢が終わっていないことには、もはや絶望しか感じない。

 すべてが夢であれば良いと思ったことは何度もある。少しずつ世の中が変わり、自分を含む一部の子どもたちが「普通のドイツ人」とは違うのだと言われるようになったとき。優しかったはずの友人や大人が少しずつ自分と距離を置くようになったとき。とうとうドイツ人の子どもと同じ学校に通えなくなってしまったとき。さらには、ユダヤ人学校すら閉校になり厳しい外出制限を受けるようになったとき。でも、今ほど強く、目を閉じ再び開けば何もかも夢で、嘘で、元どおりに戻っていないかと強く祈ったことはないだろう。だが悲しいことに「元どおり」がどんな状態だったかすら、ニコは思い出すことができなくなりつつある。

 今日の午後――いや、もう昨日の午後のこと、突然玄関のドアが激しく叩かれた。そもそもグロスマン家を訪れる客などずいぶん前からほとんどいなくなっていたし、数少ない訪問者も人目を避けて裏口からそっとやってくる。こんな風に正面玄関から暴力的にドアを叩いてやってくるのが友好的な人間ではないことは明らかだった。

 警戒した両親はまずニコとレーナに二階に行くよう命じた。母親を守るようにレオはリビングに残り、父親が玄関に向かう。しかしどうしても様子が気になったニコはそっと階段の上から玄関の様子を伺っていた。

 父親がそっと玄関の鍵を明ける。外側から勢いよく扉が開けられ、そこには三人の男が立っていた。真っ黒い制服に同じく黒い制帽。全員が左腕には赤い腕章を付け、その真ん中には大きく白い円の中にナチスのカギ十字。ニュース映画や、最近はごくたまに街中でも見かけることがある――秘密警察ゲシュタポだ。だがこんなに近くで彼らの姿を見るのは初めてだった。

「こんにちは、一体何のご用ですか」

 ニコの父は平静を装って礼儀正しく三人組に話しかけた。しかし三人組はずかずかと玄関から内側に入り込んでくる。そしてぐるりと家の中を見渡し、言った。

「ここにレオポルド・グロスマンがいるだろう?」

 父の背中にかつて見たことのないような緊張が走ったが、それでもできるだけ落ち着いて話を続けようとしているようだった。

「レオポルドは私の息子ですが、あなた方に探されるようなことは何もしていないはず……」

「うるさい、貴様の言い訳を聞きにきたわけではない。話は我々が本人から直接聞く。いいからすぐに本人を連れてこい」

 何とかゲシュタポを玄関に押しとどめようとする父親の努力も空しく、彼らは強引にリビングに押し入ろうとする。それでも父親は彼らの後ろから追いすがり、このままではもみあいになるのではないかと思われたとき、レオが自ら部屋から出てきた。

「レオ……来るんじゃない。おまえは部屋に入っていなさい!」

 温厚な父親には珍しい厳しい声だが、レオは構わずゲシュタポの前へ進み出た。

「あなた方は僕をお捜しなんですよね。構いません、一緒に行きましょう。代わりに家族に乱暴はしないと約束してください」

「レオ!」

 母親が悲痛な叫び声を上げ、レオに駆け寄る。

「大丈夫だよ母さん。僕は神様に恥じるようなことは何ひとつやっていないから。心配しないでいい」

 レオは落ち着かせるように何度か母親の肩を叩いた。三人組のうち一番背の高い男がレオの腕をねじり上げる。

 心臓がどきどきして今にも口から飛び出しそうだった。兄がゲシュタポに連れて行かれてしまう。一体これはどういうことなのか。大声を上げて駆け寄り止めるべきなのか。でもニコの脚は恐怖に震えて動かない。

 玄関の扉をくぐるとき、ふとレオが振り返った。階段の真ん中あたりから玄関の様子をうかがうニコの姿は、レオのいる場所からでも目に入る。

 兄はかすかに――でも確かに、ニコに向けて笑って見せた。

 その数時間後、人目を避けてやってきた客人がニコの両親へそっとメモを手渡した。知らない人物だったが、渡された手紙の主は地元の警察の副所長をしているドイツ人の男で昔からニコの父親とは親しく、反ユダヤ人の情勢が強まってからも一家のことを密かに気にかけてくれていた。

「……荷物をまとめなさい」

 手紙を読み終えるやいなや、父は言った。

「どういうこと?」

 ニコは驚いて声を上げる。

「ゲシュタポが、明日の朝一番に我が家全員を連行すると決めたらしい。夜のうちにどこかに身を隠さなければいけない。急がないと」

 まったく意味がわからなかった。レオの連行だけでも十分混乱してるというのに、一体どんな理由で家族全員が捕まるというのだろうか。心当たりがあるのならばともかく自分たちはただ密やかに生活を送っていただけなのだ。何よりレオが捕まっている状態で他の家族だけで逃げるだと。家族を大切にする父が兄を見捨てるようなことを言い出すとだなんて、ニコにはとても信じることができない。

「だって兄さんは? 逃げるにしても、兄さんも一緒じゃなきゃ」

 しかし父は冷酷だった。同時に険しい表情はどうしようもない苦悩を表してもいた。

「そんなことを言ってる場合じゃない。運良くレオが戻れば連絡がつくよう人に頼んでおくから。ほら、ニコはレーナの荷造りも手伝ってやれ。たくさんは持っていけないから、本当に大切なものだけをカバンに入れるんだぞ」

 ――レオが戻れば。その言葉が引っかかった。ただ、両親がひどく焦っていて、今の自分には両親の言うとおり「身を隠す」以外の方法がないのだということは理解せざるをえなかった。

 両親はしばらく忙しく動き回っていたが、夕方になって子どもたちを呼び寄せると「車に乗せてくれる人が見つかった」と言った。

「車って、どこへ?」

 てっきり少しの間どこか近くへ身を隠すだけだと思っていたが、状況は思った以上に深刻であるらしい。父は荷造りの手を止めずに言った。

「とにかく遠くへ行かなければ。もうリストに載ってしまっているだろうから、ナチスの手のとどかないところ。ポーランド方面ならば父さんの親戚がいる」

「ポーランド?」

 隣国とはいえ一度も足を踏み入れたことのない国の名にニコは再び動揺する。それはどのくらい遠い場所で、一体どうやってそんなところまで行く気なのだろう。しかし両親にはしっかりとした説明をする時間も余裕もないようだった。

 そして家族は夜陰に紛れ、住み慣れた家を後にした。

「ねえ、父さん」

 ぽつりとニコは父親に話しかける。

 荷台に人が乗っていることに気づかれてはいけないから、停車中に口を開くことは禁じられている。しかし車が動いている間であれば荷物の揺れる音やエンジン音に紛れて多少会話をしたところで誰にもばれることはない。

「兄さんはどうして捕まえられたの? いつまた会えるの?」

 疲れた顔をした父はニコを抱き寄せ、悲しそうに髪を撫でた。

「……そのうち話すよ。また会えるかは神様にしかわからない。ただ、ニコ。こんなことを言わなければならないのはとても悲しいことだけど、今はレオのことは考えないほうがいい。父さんと母さんも、まだ手元にいるおまえとレーナを守ることを第一に考えるから」

 ニコは改めて、父はレオが無事に戻ってくることを期待していないのだと感じた。優しい兄、賢い兄、頼りになる兄。最後にちらりと見せてくれた笑顔を思い出す。あんなに怖そうな大人の男三人に囲まれても一切怯える風もなく兄は堂々と行った。自分も兄のように強くならなければいけないと思うのに、どうしても寂しさがぬぐえない。

「僕たち、家にはいつ帰れるの? ユリウスにちゃんとさよならを言えなかったんだ」

 夜間禁止令を犯す覚悟で会いに行った幼なじみとは別れを告げる直前に邪魔が入ってしまったせいで肝心な話ができなかった。ユリウスは「続きはまた明日」と言った。でも、明日は――ニコがユリウスと会って話ができるような明日はやってこなかった。一体いつになればまたユリウスと会えるのだろう。

「それも……今はまだ何とも言えないよ」

 父はやはり、悲しそうにそう答えるだけだった。

「お兄ちゃん」

 寝ていたレーナが目をこすりながら起き上がる。薬の効き目が切れたのかもしれない。

「レーナ、気分は?」

「うん、大丈夫」

 ほろ一枚隔てた外側は真冬の外気。そのまま眠れば命取りにすらなりかねないので、レーナにはありったけの衣類を巻き付けていた。小さな雪だるまのようにころんとした彼女は、甘えるように兄の肩に頭をもたせかけた。

「怖い夢を見たのよ。ニコお兄ちゃんも連れて行かれちゃう夢。良かった、夢で」

「大丈夫、僕はここにいるよ。父さんも母さんも一緒だ」

冷えた頬を温めるようにこすってやると、レーナはくすぐったそうに笑顔を見せた。レオが帰ってくる可能性が薄いことはまだ妹には知らせたくない。

「そういえば、ユリウスが」

 しばらく経ってから、ふと思い出したようにレーナがコートのポケットに手を突っ込んだ。

「ユリウスが?」

 思わず大きな声を出しそうになる。ニコの唯一の心許せる友人、いつだってニコを守ってくれた、家族以外で唯一の味方。別れもきちんと言えなかった幼なじみの名前がレーナの口から出たことに驚き、続きを促す。

「ママとレーナが家を出る少し前に、ユリウスが来たの。ニコに会いたいって。もうお兄ちゃんはいないって言ったら、どこに行くのって」

 会いにきてくれた。ユリウスはあのとき言えなかったニコの言葉の続きを聞きに、暗闇の中わざわざ家まで来てくれたのだ。結果として会えなかったにしても、その事実だけでもニコは嬉しかった。

「レーナはなんて答えたんだ?」

「パパはポーランドって言ってるけど、よくわかんないって。すぐに迎えの人が来たからあまり話す時間がなくて……でも、これ、お兄ちゃんに渡してって言われたの」

 レーナはポケットから折りたたんだ紙片を取り出した。あわてて手帳から切り取ったような、一辺だけぎざぎざになっている紙。ニコは凍える指でそれを受け取り、そっと開く。

 ――迎えにいく J

 Jはユリウスのイニシアル。青いインクで走り書きされた、それは短くて力強いメッセージだった。

 ニコを守ろうとしてくれる友人。気持ちのむらの激しさに驚いたり戸惑ったりすることもあったが、人の気持ちを気にしすぎてけんかができないニコの代わりにユリウスはいつだって戦ってくれた。世の中が変わってたくさんのドイツ人の友人がニコの元を去ったが、ユリウスだけは変わらず、むしろ前よりも強い意志でニコのそばにいてくれた。そのユリウスが迎えに行くと言っている。

 もちろん、これからどこへ行くのかニコ自身すら知らないのだから、ユリウスにわかるはずもない。同じ無力な子どもであるユリウスがどうやってニコを探し出して迎えに来るのか、見当もつかない。しかし、夢想でも出任せでもニコはユリウスの言葉にすがりたかった。

 いつだってニコを守ってくれたヒーロー。きっとユリウスはいつの日か迎えに来て、ニコを再び以前のような穏やかな暮らしに連れ戻してくれる。

 ニコは紙片をぎゅっとにぎりしめ、どこにもなくさないよう一番内側のポケットの奥深い場所にしまいこんだ。今の自分にとっての唯一の希望を決してなくしてしまわないように。

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