41. 第3章|1939年・ハンブルク

 一九三九年三月、ドイツは隣国であるチェコスロバキアを併合した。

 前年の九月にミュンヘンで行われた国際会議で英仏伊の首脳がヒトラーに譲歩した結果、まずはズデーテン地方がドイツに割譲された。それを契機に政府への不信が高まり民族運動が激しさを増す中、周辺国ハンガリーとドイツの領土的野心の板挟みになったチェコスロバキアは、結果としてドイツの従属国としてのスロバキア共和国の独立や、チェコのドイツ保護領化を許すこととなった。

 オーストリアがドイツになり、チェコスロバキアの大部分がドイツになり、すると第三帝国の次なる野心は――。

「次は、ポーランドだろうな」

 ぼそっとつぶやいた父親の言葉に、ユリウスは返事をしない。

 ニコたち一家が消えたあの日以来ユリウスは父親に心を閉ざした。できるだけ顔を合わせないようにしているし、会話も最低限しか交わさずに暮らしている。

 父はグロスマン一家の出奔に関して一切口にすることはない。おそろしくて直接確かめることはできずにいるが、ユリウスは、レオをゲシュタポに売ったのは自分の父親だとかたく信じている。もちろんその父に、レオに暴力を振るわれたと訴えたのはユリウス自身だ。

 結局はレオが逮捕されたこともニコがドイツを去ったことも自らの浅はかさに起因するものだとわかってはいるが、それでも父親を恨む気持ちはどうしても消えない。

 ニコが姿を消して早くも数ヶ月が経過していた。主を失った家には間もなくどこからかやってきたドイツ人の一家がまるで当たり前のような顔をして住み着いてしまった。身ぐるみ剥がれてドイツを去った、もしくは収容所に送られたユダヤ人の家がドイツ人に明け渡されることは最近では特に珍しくもない。

 だが、ユリウスにとってはたくさんの思い出のある場所だ。しかも心の中ではまだ、ある日ひょっこりニコやレオが戻ってくるのではないかと期待を捨てられずにいる、その大切な家で見知らぬ一家が我が物顔で暮らしていることは耐えがたい。ユリウスはその家の近くをあえて通らないよう意識していた、

 領土拡張のためドイツは各地に進軍している。だが、いくらポーランドのドイツ系住民を救うためという大義名分を掲げたところで、これまで建前上武力を伴わず併合してきた国々のように上手くいかないことは明白だ。なぜならイギリスとフランスという大国がポーランドの支援を約束しているし、ポーランドの向こうにはソ連がいる。ドイツがポーランドに攻め込んだとしてそれらの国が黙っているはずはない。しかし国民の多くは無邪気にも、無敵の第三帝国の元でアーリア人の巨大国家が実現するものだと信じているのだ。

 戦争に向かおうとする空気がドイツ国中に濃く漂いはじめていた。それも憂鬱さや陰惨さではなく、高揚を伴って。

 ユリウスは地図を開きポーランドの部分をじっと眺める。これはニコがいなくなって以来の日課だった。手紙の一通でも来ないかと毎日郵便受けをのぞき込むが連絡は今のところ全くない。

 ドイツを去ったニコの居場所に関する唯一の手がかりは、レーナの「パパはポーランドに行くと言っていた」という言葉だけだ。

 ポーランド。ニコはたまに「父さんの両親はポーランドからやってきた」と言っていた。だったら親戚を頼っているのだろうか。しかしニコの祖父母がポーランドのどこからやってきたのか、ユリウスはそれすら知らない。

 地図上の広大なポーランドを眺めて、都市名をひとつずつ指で押さえてはどこにニコがいるのかと想像してみる。ワルシャワ、クラクフ、ウッチ、ルブリン……このどこかでニコは家族と一緒に、安全に暮らしているのだろうか。ニコが幸せでいてくれればそれでいいという思いに嘘はないが、それでもニコに会いたい、ニコと一緒にいたいという気持ちも決してなくならない。

 もしドイツがポーランドを併合したら、どうなるのだろう。ポーランドがドイツになればビザも旅券もいらなくなり、今よりずっと簡単にニコを探しに行けるようになるのだろうか。それともドイツと同じようにユダヤ人排除の政策がポーランドでも行われるようになり、ニコはもっと遠くへ逃げることになるのだろうか。ユリウスはそんなことをときおり考える。

 それとも――平和的な併合ではなく噂されているように戦争が起こるのだろうか。

 ユリウスはある日、校長から呼び出された。

 ニコを失ったときにはいっそやめてしまいたいと考えたギムナジウムだが、結局そのままだらだらと通い続けている。ニコに授業内容を伝えるというモチベーションもなくしてしまったにも関わらず、数年間にわたって真面目に授業を聞き続けているうちに、それはユリウスにとって当たり前のことになっていた。ユリウスは以前と変わらず不真面目な優等生として教室に座り続けていた。目標も向上心もない、ただの暇つぶしだ。

「失礼します」

 校長室に入るのははじめてだった。どっしりした大きな机と椅子。応接セット。壁際の書棚には難しそうな本や、表彰状やトロフィーなどがこれ見よがしに飾ってある。呼び出されるような良い行いにも悪い行いにも心当たりがないユリウスは、部屋に足を踏み入れたもののどうすれば良いのかわからずドアの横に立ったままでいた。

「ちょっとここに座りたまえ」

 校長は応接セットの奥のソファーに座り、ユリウスを手招きして椅子を勧める。言われるがままに座るが落ち着かず、ユリウスはうろうろと視線を泳がせた。こういう権威主義的な場所は苦手だ。できればさっさと用件を聞いて去りたい。

「あの、俺、何かしたでしょうか」

 不安そうなユリウスの言葉に、校長は白くなったひげを撫でつけながら笑った。その胸にもナチの印。もはや校内にこのバッジをつけていない教員はほとんどいない。

「いや、悪い話じゃないからそんなに緊張しなくても大丈夫だよ」

 安心させるようなことを言うくせに、もったいぶってすぐには続きを口にしない。たばこを取り出し火を付け、気持ちよさそうに大きく一回煙を吸い込んで、ようやく校長は本題に入った。

「シュナイダーくん、君、ナポラって知っているかい?」

「……はい、まあ」

 ナポラというのはナチ党が幹部養成を主な目的として作った学校で、全国に十ヶ所あまり設置されているらしい。

 類似の教育機関には「アドルフ・ヒトラー・シューレ」と呼ばれるものもあり、ユリウスは実のところ両者の違いをよく知らない。いや、これらの学校いずれについても正確な知識は持っていなかった。ユリウスが知っているのは、これらの学校が将来の親衛隊入りの最短距離として、野心的なヒトラー・ユーゲントの少年たちにとっての憧れであることだけだった。

 同じ支部に所属する少年の中にもときおり「従兄弟がナポラにいるんだ」と話している者がいるが、それは「従兄弟が親衛隊なんだ」というのとほぼ同等の自慢話として受け止められる。これらの学校に入るには学力、体力、協調性など多くの面で優れていることが求められ、数日間にわたる厳しい選抜試験は狭き門らしい。

「君はナポラに興味はあるかい」

「特には。それに、ああいう学校には十二歳で入学するんですよね。俺には関係ない話です」

 思わせぶりな訊き方が気にくわないし、親衛隊員の育成機関になど興味ないというのがユリウスの本音だ。だがあからさまに党を悪し様に言うことがまずいことくらい今では理解するようになった。

 校長はひとつ大きく煙を吐き出すと、ユリウスの目の前に一枚の紙を差し出した。

「実は、段階的に優秀な若者を集めるために、数は少ないがナポラは編入の制度を持っているんだよ。もちろん十二歳で入学した生徒に途中から混ざるわけだから、学力やスポーツの要求水準は高い。今回、次学年からの編入枠について党を通じて私にも話が来た。そこで君のことが思い浮かんだのだが」

 ユリウスは即座に頭の中で適当な断り文句を考えはじめる。

 学力、スポーツ、それだけではないことは知っている。ナチ党の学校なんかに入れば二十四時間ヒトラー・ユーゲントを煮詰めたような集団の中での生活が待っているに決まっている。そんな生活はごめんだ。しかもナポラはハンブルクには置かれていないはずだから、編入するとすればどこか別の都市に引っ越すことになるだろう。

 ユリウスはハンブルクを去りたくなかった。それがどれほどちっぽけなものであろうと、ずっとここで待っていればいつかニコが帰ってくるのではないかという期待を捨てたくない。

 ユリウスは校長が気を悪くしないように、自分が父子家庭のひとりっ子であることを理由に編入試験の話を断った。