42. 第3章|1939年・クラクフ

 ニコは夢を見ていた。

 小学校にいたあの教頭が物差しを持って近づいてきて、逃げるニコを追い詰めると額に物差しを当てる。夢の中では彼はなぜか親衛隊の黒服を着て、左腕にカギ十字の腕章を付けている。彼はきっとまたあのときのように「君の額はアーリア人よりも狭く、それは君の脳みそが小さくて知能が低いことを示しているのだ」と薄笑いを浮かべるに決まっている。

 君はユダヤ人だ。君は劣っている。君には価値がない。どんな言葉を投げかけられたとしても、できるだけ傷つかないように、泣かずにすむように、ニコは体に力を入れてぎゅっと身がまえた。

 しかし、今日は教頭の様子が少し違っている。彼はニコの額を測り、頭を測り、鼻を測り、まぶたを指で押し上げて目の色を確かめると満足したようににっこりと微笑んだ。

「よし。ニコ、合格だ。君はなんの欠点もない完全な、美しく優秀なアーリア人だ。素晴らしい、誇らしいよ」

 まさか、そんなはずはないのに。あわてて鏡をのぞくと、そこには自分と同じ顔をした別人、金髪碧眼のニコラス・グロスマンが映し出されていた。

「ニコ」

 背後からよく知る声で呼ばれ、振り返るとそこには両親とレーナ、さらにはゲシュタポに連れて行かれたはずのレオまでもいる。奇妙なことに、茶色い髪に茶色い目を持っていたはずの家族全員が金色の髪と青い目になっている。

「ニコ、誤解は解けた。全部間違いだったんだよ。俺たちはユダヤ人なんかじゃない。純粋なドイツ人だったんだ。だから、もう身の危険はない」

 レオがそう言って笑う。そうか、全部間違いだったのか。ニコはほっと胸を撫で下ろす。

「だったら、ハンブルクに帰れるの? 学校にも通えるの?」

「ああ、そうだ。家に帰って、何もかも元どおりだ」

 よかった。兄さんも無事で、家族皆で家に帰るんだ。そして今度こそユリウスと一緒にギムナジウムに通って――。

 しかしニコの夢はいつもそこで終わる。喜びの絶頂で目を覚まし、その喜びが束の間の夢にすぎなかったことに気づいたときの絶望感には何度味わっても慣れることがない。

 隣のベッドにはレーナが寝ている。もちろんレーナの髪は濃い茶色のまま。確かめるまでもなく自分の髪も目も、茶色のままだ。

 同じような髪の色、目の色のドイツ人だってたくさんいるし、ハンブルクで通っていたユダヤ人学校では金髪碧眼のユダヤ人を見たこともあった。見た目がすべてというわけではないが、街を歩いているときなど警戒されやすいのはナチ党の言う純粋なアーリア人の外見からより離れている側の人間だった。

 甘美な夢の余韻が去り、落胆の後にやってくるのは自己嫌悪だ。ニコは自分の親やその血統を恥じているわけでも嫌っているわけでもない。ナチの主張こそが不当な言いがかりで間違っているのだと強く信じてもいる。なのにこんな夢を見るということは、もしや内心では自分も金髪碧眼のアーリア人種に憧れているのだろうか。それは家族や、今自分たちを助けてくれている親戚、そして同じような境遇で苦しんでいるユダヤ人に対して恥ずかしい裏切り行為であるような気がした。

 年が明けて間もない時期にハンブルクを後にしたニコと両親、妹のレーナは、何台もの車を乗り換え、貨物にまぎれて国境を越えてドイツを脱出することに成功した。かといって密入国状態であるため安心することもできず、捕まれば強制送還される恐怖に怯えながらようやく父の叔父叔母が暮らすポーランド南部の大都市クラクフに到着したときには心底安堵した。

 ニコの祖父母はすでに亡くなっていて、父と叔父叔母は決して親しく連絡を取り合う仲というわけでもなかったが、彼らはドイツから逃げてきた一家をあたたかく迎え部屋も空けてくれた。

 この家で暮らすようになって約半年が経つ。不法移民状態であることに変わりはないし、この国でも決してユダヤ人は歓迎される立場ではない。だがそれを差し引いても、劣等民族と名指しされゲシュタポに追われるドイツに比べれば圧倒的に気持ちは楽になった。

 起き出して着替えていると、物音で目を覚ましたのかレーナもベッドからむくりと体を起こす。

「お兄ちゃん、起きているの?」

「おはようレーナ。まだ六時だから寝ていても大丈夫だよ」

 しかし目が冴えてしまったのか、結局レーナもそのまま起き出した。あくびをしながらレーナは言う。

「変な夢を見たの。パパもママも、お兄ちゃんもレーナも皆、本物のドイツ人になってる夢。レオお兄ちゃんもいたのよ。それで、今までのことは全部間違いで、本物のドイツ人だからお家に帰っていいんだよって言われるの」

 兄妹でまったく同じ夢を見ている偶然にニコは苦笑するしかない。いや、偶然なんかではない。いくらクラクフの生活の方が安全であっても、やはり自分たちはドイツの人間なのだ。

 ――いつか夢が本当になる日が来るのかな。

 ニコは服の下に隠れるように首にかけた小さな革袋を握りしめる。その袋は大叔母にもらった。本来はお守りを入れておくためのものであるらしいが、長いひもの先についた巾着袋の中に、ニコはユリウスのメモを小さく折りたたんで入れている。衣服のポケットやカバンの中ではいつなくしてしまうか不安だし、こうしておけば常に肌身離さず持っておくことができる。

 不安なとき、寂しいとき、ニコはいつもそれを握りしめて夢が現実になるよう強く祈った。もちろん金髪も青い目もいらない。ただ、昔のように自分が愛するドイツの一員であると認められ、普通に生活することが許されさえすればいい。

「そういえばお兄ちゃん、ユリウスから返事は来たの?」

 レーナの質問はちょうどニコの頭の中を読んだようなタイミングだった。妹の手前体裁が悪くて、ニコは握りしめた袋をそっと手から離す。

「来るはずないよ。だって、ここの住所を書いていないんだから」

「どうして? それじゃはがきを出す意味ないじゃない」

 目を丸くするレーナに、ニコは笑った。

「いいんだよ、それで」

 クラクフに来て少し生活が落ち着いた五月頃、ニコはユリウスに宛てて一通だけはがきを出した。宛先を書いて切手を貼っただけの、差出人も本文もない真っ白なはがきを。

 何も書かなかったのは家族の身の安全のためだ。差出人の名前やここの住所を記したら、その内容がゲシュタポに渡ってしまう危険性がある。国境を隔てた場所にいるとはいえ、居場所は知られないに越したことはなかった。

 それに、きっとユリウスならばわかってくれるだろうという確信もあった。レーナはユリウスに行き先がポーランドであることを話した。ポーランドから真っ白なはがきが届けばユリウスは必ずニコからのものだと気づくだろう。

 祈りを込めて、ニコはわざわざはがきをポストに投函せず、郵便局まで持っていった。

「あなた、これ何も書いていないわよ?」

 ポーランド語がわからないニコに、窓口の女性はわざわざドイツ語で確認した。

「いいんです。そのまま送ってください」

 ニコが欲しかったのはクラクフの消印だ。しっかりスタンプが押されるのを確かめたくてわざわざ郵便局まで足を運んだ。どうかこれを見たユリウスが、ニコが無事で、クラクフにいるのだと気づいてくれますように。そしていつか、約束どおり迎えにきてくれますように。

 だが、ポーランドの短い夏が終わる頃、ニコや家族の束の間の平穏な日々は終わりを告げた。

「大変だ、ドイツがソ連と手を結んだ!」

 ラジオに耳を傾けていた大叔父と父が大声を上げた。

 これまで、ドイツの総統であるアドルフ・ヒトラーと、ソ連の最高指導者であるヨシフ・スターリンは犬猿の仲で、この二ヶ国が手を組むことはないだろうと思われていた。それこそが、ニコの父親がポーランドからさらに逃げる先を探さずにいる一番の理由で、ポーランドを挟んで二国がにらみ合ってくれてさえいれば、ヒトラーといえどもソ連を刺激する危険を犯して軽々しくポーランドに手は出せないだろうと考えていた。

 もちろんドイツが最終的にはポーランドから更にソ連までも奪おうとしていることはわかっているが、ソ連はこれまでにドイツが併合してきた国々と比べても圧倒的な大国だ。

 しかし、突然のニュースは、ドイツとソ連の外務大臣が相互不可侵と中立を約束する条約に調印したことを報じている。これ以降、ドイツとソ連は互いに、武力行使、侵略行為、攻撃を行わない――もはやソ連すらドイツの抑止力にはならないということだ。

 この日以降、ドイツとポーランドの国境付近ではきなくさい事件が続いた。

 決定的な契機となったのは八日後の八月三十一日に起こった出来事だった。ドイツ・ポーランド国境からほど近いドイツの街にあるラジオ局を、ポーランド人が襲撃した。ラジオからは、周辺地域に住むポーランド系ドイツ人の住民に向けて反ドイツを呼びかけるプロパガンダ放送が行われた。ナチスドイツはこれを明確な敵対行為と捉えた。

 一九三九年九月一日、ドイツ軍はついにポーランドに侵攻した。