43. 第3章|1940年・ハンブルク

 学校から帰ったユリウスに、通いの家政婦が「お父様は今日も遅くなるそうです」と伝えた。

 父親が早く帰ろうと遅く帰ろうとユリウスにとってはどうでもいいことだ。いや、同じ空間にいる時間が少なくてすむだけ帰宅はむしろ遅い方が望ましい。

 戦争がはじまり、開戦以前と比べても父の工場は忙しくなった。最近では政府の要請もあり軍需品生産のためラインを増やしているようだ。

  父はいつも慌ただしくしているが、家庭内にあって親子の仲はほとんど断絶しているのでユリウスは父が具体的に何をやっているのかよくは知らない。だが、状況を十分に把握しているとはいえない子どもの目にも、軍需品の生産が追いつかないのは当然のように思える。

 開戦してもうしばらく経つがドイツ軍の勢いはすさまじい。

 昨年九月、スロバキア軍とともに宣戦布告なしにポーランドに攻め込んだドイツ軍は陸海空から一斉に進撃を開始した。三日後にはポーランドの同盟国であるイギリスとフランスがドイツへ宣戦布告したが軍事的な支援は行われず、じりじりと東に後退したポーランド軍は今度は背後からソ連軍の攻撃を受けた。西のドイツ、東のソ連に挟み撃ちにされて、ポーランドはひとたまりもなかった。

 その頃、連日意気揚々と伝えられるドイツ軍の快進撃をを見聞きしながらユリウスはいても立ってもいられない気持ちでいた。特に市街戦が起きたという知らせなどあろうものなら、その街にニコがいて戦闘に巻き込まれたのではないかと心配で夜も眠れないほどだった。だから、開戦から約一ヶ月が経過した頃にポーランドが降伏したとを聞いたときには、これで戦闘が終わりニコも安全なはずだとむしろ喜んだ。

 降伏後のポーランドは四つの国に分割占領された。西側の多くはドイツに、東側はソ連に、そして一部はリトアニアとスロバキアに。

 ユリウスが夕食を終えると手早く片付けを済ませて家政婦は帰ってしまう。それから父親が帰るまでの間はユリウスひとりの時間だ。だからといって何かやることがあるわけでもなく、学校の宿題さえ終えてしまえば手持ちぶさたになってしまう。

 ぼんやりしていると嫌なこと――例えばもしニコが既に戦争に巻き込まれて死んでしまっていたらなどということばかり考えてしまうので、最近のユリウスは父の書斎から本を勝手に借りては、空き時間を読書に充てている。

 父の書棚にはたくさんの本が詰まっている。これだけの本を持っていて息子の前でほとんど読書する姿を見せたことがないのは不思議なくらいだが、量の多さ、内容の雑多さからしても、インテリアとしてただ並べているわけでもなさそうだ。

 これまでほとんど読書習慣のなかったユリウスだが、暇つぶしにまずはケストナーの子ども向け小説から読みはじめた。この人気作家が反ナチの立場を明らかにして、自らの本が焼かれようと発禁になろうと堂々としているところに惹かれた。小説の中の楽しそうで生き生きとした子どもたちの姿に、ユリウスは少し前のニコやレオやレーナと自分を重ねて少しだけ寂しくなった。

 いざ読んでみると本とは意外と面白いもので、まずは簡単なものから、続いて少し難解なものへといろいろな本を手に取るようになった。その日は読み終えたばかりのヘッセをもとの場所に戻し、次に読む本を漁ることにした。ヘッセもまた今では教育に良くないとされる作家のひとりだが、そう聞けばむしろ興味が湧くのがユリウスだった。

 父はユリウスと同じで几帳面な性格ではなく、書棚の中身は作者もジャンルもばらばらに様々な本が雑然と詰め込まれている。当てずっぽうで比較的新しそうな本の並んだエリアに手を伸ばしたときだった。取りあげた本と本の間から、一枚のはがきが落ちた。

 元の場所に戻そうとして手に取ったそれを何気なく眺め、ユリウスの心臓は止まりそうになる。差出人の名前も住所も、本文すらない、宛先だけが記された真っ白なはがき。その宛先は父ではなくユリウスだった。

 そして筆跡もユリウスのよく知る――少し角ばった几帳面そうで筆圧の強い、それは間違いなくニコの書く文字だった。

 毎日毎日ニコからの知らせを待ち続けて、一通のはがきもこないことから最近ではほとんどあきらめてしまっていた。しかし、ニコはちゃんとユリウスに連絡をしてくれていたのだ。ただしそれは父の手で隠されていた。毎日ポストをのぞいていたのに見逃したのは、もしかしたら父の命令を受けた家政婦がユリウスが学校から帰る前に抜き取っていたのかもしれない。しかし今は父への怒りよりも喜びと興奮が上回る。

 周囲の本もくまなくひっくり返して調べたが、はがきはそれ一枚きりだった。

 ユリウスは当然それを自室に持ち帰る。父のことだ、いったん隠してしまえば安心してしまうだろうから奪い返したところでどうせばれやしない。

 ユリウスははがきの宛名を眺め、ニコの文字を指でなぞり、残り香などあるはずもないのにはがきに鼻を近づけてみることさえした。そして、机の引き出しから開きすぎてぼろぼろになりかかっているポーランドの地図を取り出した。

 ニコのはがきにはポーランドの切手が貼られ、その上に消印が押してある。少し薄くなりかかってはいるがスタンプの文字は読み取ることができた。

 一九三九年五月二十一日、クラクフ中央郵便局。一年近くも前の日付なのは気になるが、少なくともこの頃まではニコは無事で、クラクフにいたということになる。ユリウスは地図上の「クラクフ」の文字を赤い丸印で囲った。

 ポーランドのうちドイツに近い部分は今は完全にドイツに併合されて政府の直接の支配下にある。一方併合されなかった部分はポーランド総督府という統治機関を通じてドイツの管理下におかれるようになった。そして、まさしくその総督府が置かれているのがクラクフだ。

 それまで数ある可能性のひとつだったクラクフはユリウスにとって特別な場所になった。何しろそこはおそらくニコが暮らしている場所なのだ。

 はがきという大切な手がかりを得て興奮するユリウスの頭の中には、ニコが市街戦に巻き込まれ死んだかもしれないという可能性すらもはや存在しない。はがきが一枚しかないことから、クラクフから移動したという可能性も排除する。だって移動したら、きっとまた別のはがきを送ってくるはずだから。

 きっと、いや絶対にニコはクラクフにいる。その日以降ユリウスはクラクフの情報を集めはじめた。

 とはいえ十五歳のユリウスにできることは限られている。クラクフとはどういう街かについて本や地図で調べるとか、新聞に載っている総督領の記事をくまなく読んで写真の隅にニコのかけらでも写ってはいないかと目を皿にして探すとか。こんな子どもっぽい方法では百年かけてもニコを探し当てることはできないだろう。

 本当なら今すぐにクラクフに飛んでいきたい。だって自分はニコに「迎えにいく」と言ったのだから。しかし調べれば調べるほど、ポーランドの中でも南に位置するクラクフは北部ドイツのハンブルクからは遠く離れている事実に打ちのめされてしまう。

 鉄道を乗り継げばクラクフに行くこと自体は可能だろうが、子どもがひとりでそんな長旅をすることは現実的ではないし、そもそも切符を買う金もない。あの父相手にクラクフまでニコを探しに行きたいなど、言ってみたところで許可をもらえる見込みは皆無だった。

 中途半端にニコの居場所を確かめたことで、ユリウスの焦燥は増した。頭の中はいかにしてクラクフに行くか、ニコを探すかに占拠されて、何もできず日々にただ焦れた。父親の手を借りずに堂々とクラクフに行きニコを探せる方法――ユリウスはひたすらそれを探し求めた。

「俺の従兄弟、総督府に行くんだって」

 ある日、同じクラスの男子生徒が大きな声で自慢するのを耳にした。彼は一家揃って熱心なナチ党員で、ヒトラー・ユーゲントでも自ら立候補してグループ長を務めている。確かに頭もそこそこ切れるし快活ではあるが、権威主義的で何かと自分の身内のことを自慢するので、周囲も辟易しているようだった。

 彼が従兄弟の話をするのは何度か聞いたことがある。確かどこかの州のナポラに通っていて卒業したら訓練を経て親衛隊に入るんだと自慢げに語っていた。一切関心のない話をいつもならば聞き流したが、今のユリウスは「総督府」と聞けば黙ってはいられない。ユリウスはそっと彼に近寄った。

「おい、ナポラから総督府に行けるのか?」

 ほとんど話しかけられたことのないユリウスから急に声をかけられて、彼は明らかに驚き動揺しているようだった。

「う、うん……そりゃ、総督府だって中にいるのは親衛隊だから。ナポラを出た後に親衛隊に入るかも、実際にどこに配属されるかも能力や希望次第らしいけど、機会はあるんじゃないか」

 それから彼は怪訝そうな目でユリウスを見つめ、訊ねた。

「なんだおまえ、親衛隊に興味あるのか?」

 その目は「ヒトラー・ユーゲントの活動にも熱心ではないユリウスごときが俺のライバルになるつもりか」というあからさまな敵対心と侮蔑をはらんでいた。

「いや、ない」

 即答してユリウスが去ると彼がほっと息を吐くのが聞こえた。だが、それは嘘だ。ついさっきまで全く興味のなかったナポラや親衛隊にユリウスは急に関心を持ちはじめていた。

 いつかダミアンも言っていた。ニコを救うためにはパルチザンかテロリストに身を投じるか。でなければ国の中に入り込むかしかないのだと。つまりユリウス自身が親衛隊に入れば、堂々と総督府に行きニコの居場所を知ることができるのではないか。

 ユリウスはその選択が行き着く先について十分に検討も理解もしないまま自分のアイデアに満足した。そして数日後、今度は自ら校長室の扉を叩いた。

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