44. 第3章|1940年・ハンブルク

 ユリウスが「ナポラの編入試験を受けたい」と告げると、父親は「冗談を言うな」の一言で却下した。父と息子がまともに会話を交わすのは数ヶ月、いや一年以上ぶりだった。

 この件については、ユリウスは父親が賛成するか反対するか、あらかじめ想像することがまったくできなかった。

 父は今は国のため――というのはもちろんイコールナチ党のために工場の操業時間を延ばしてまで働いているし、ユリウスにも家の外では通り一遍の愛国的な言動行動をするよう求めていた。何より息子を殴りつけたユダヤ人についてゲシュタポに密告するくらいの人間だ。

 しかし一方で父は、この辺りのドイツ人企業経営者には珍しく、いまだにナチ党員ではない。しかも書斎には反政府的だとレッテルを貼られている作家の本が処分されることなく置いてある。まあこれは単に不精なだけなのかもしれないが。

 だが、父親が賛成しようが反対しようが関係はない。ユリウスは何がなんでもナポラに行くと決めていた。

「別に父さんに迷惑をかけるわけじゃない。むしろナポラは学費が無料だから負担が減るくらいだろう。俺が家にいなければ家政婦を雇う時間だって短くなる。悪い話じゃない」

 反対された場合に備えて準備していた説得の言葉をユリウスはとうとうと述べる。しかし頑固な父親がそんなことで簡単に考えを変えるはずもない。

「バカなことを言うな。うちがそんな出費すら惜しむような状態じゃないことくらいわかっているだろう。くだらない理屈づけに金の話を持ち出すな」

 父親の眉間の皺はさらに深さを増したような気がする。金の話は悪手だった――ユリウスは少し後悔した。

「でも、父さんに迷惑をかけないことは事実だ。父さんは俺がギムナジウムを出て大学に行けば満足なんだろ。アドルフ・ヒトラー・シューレと違って、ナポラは運営がナチ党なだけで、卒業後も親衛隊や軍に入るよう強制されるわけじゃない。大学に進む人もたくさんいるって聞いた。言ってみればただのギムナジウムだよ」

「ただのギムナジウムなら、今の学校で十分だ」

「違う。ナポラにいるのは厳しい選抜を抜けた、学力もスポーツも特別に秀でた生徒ばかりなんだ。きっと今の学校よりレベルが高くて得られるものも大きい」

 まるで政府のプロパガンダのように熱心にナポラの魅力を語るユリウスに、父親は大きくため息を吐いてから怪訝な顔を向けた。

「第一、おまえはナチ党が嫌いだったろう」

 いまさらそれを否定するのはあまりに苦しい。ユリウスは正直な気持ちを答えた。

「……ああ、嫌いだよ」

「だったら、あそこはおまえみたいな奴が行くべき場所じゃないってことはわかるだろう」

 父の言っていることは正論だ。何しろ一年前のユリウスは父が言うのとまったく同じ理由で編入試験の話を断ったくらいだ。ただあのときと今ではユリウス側の事情と動機が大きく異なっている。

「好き嫌いは関係ない。ただ、大事なのはそこで何ができるかだ」

 だが、いくら言葉を尽くしたところでユリウスが父親の口から編入試験受験に同意する言葉を引き出すことはできなかった。

 ユリウスは家で父と口論になっていることをダミアンに話した。今やユリウスにとって気を許して話をできる相手はダミアンだけだ。さすがにニコとの顛末のすべてを明かすことまではできないが、仲の良かったユダヤ人の友人が国外に去ったことまでは話した。あまりに苦しくて、少しでも誰かに気持ちを吐き出さずにはいられなかったのだ。ダミアンはユリウスの反愛国的な言動も、彼なりの公正で実直な態度で受け止めてくれた。

 そんなダミアンが、今回は意外にもユリウスの父の肩を持った。

「君のお父さんの言い分にも一理はあるな。何よりユリウス、君の動機は不純で安直だ。友達を探すために総督府に行きたいからナポラに編入するだなんて、目的と手段があまりにかけ離れているんじゃないか」

 心外だった。何しろ最初にニコを救う方法のひとつとして国の内側に入ることを示唆したのはダミアンなのだ。なのにいまさら教訓くさいことを言って反対するなんて。ユリウスははじめてダミアンに失望した。

「不純って。僕はあなたの言うことも聞いた上で真剣に考えたのに、そんな言い方ないよ」

 ユリウスの口調は自然と非難がましいものになる。ダミアンもかつて自身がユリウスに話した内容を忘れたわけではないようだ。ユリウスの不満そうな態度に困ったような顔を見せる。

「まあ、それはそうなんだけど。いや、君は僕が思っていた以上に素直と言うかまっすぐと言うか。……少し言い方を間違えたのかもしれないな。それに……」

 ふっとダミアンが美しい青い目を伏せる。

「それに?」

「いや、そうだな。君の言う通り、僕は君の味方になって決断を応援してあげるべきなんだよな。それなのに変なことを言ってすまない」

 急に謝罪されて今度はユリウスが戸惑う番だ。確かにダミアンの反応はユリウスの期待とは異なるものだったが、だからといって謝罪されるほどのことではない。

「変なことって、別に」

 どう反応すればいいのかわからないユリウスが口ごもっていると、ダミアンは顔を上げ、体裁悪そうに笑った。

「ちょっとうらやましかったのかもしれない。僕にはナポラなんて手の届かない話だから」

 それは、ダミアンがユリウスにはじめて見せる少年らしい表情だった。

 美しく凛々しく堂々としていつも公正なダミアン。確かに職業系の学校には通っているが、これ以上ないほど完璧なアーリア人種の特徴を備えた彼は将来的には党や軍で活躍することになるだろうと誰もが信じている。だからユリウスは、ダミアンが他人を――こともあろうかユリウスのことを羨んだり嫉妬したりするようなことはないのだと勝手に思い込んでいた。

「ダミアン……」

「さっきの話は忘れてくれ。ユリウス、僕は君の決断を応援するよ」

 そう言ってユリウスの頭をぽんぽんと叩くダミアンは、すっかりいつもの調子に戻っていた。

 ユリウスが「父親が編入試験に反対している」と告げてから、校長やヒトラー・ユーゲントの指導役が父の説得のため頻繁にユリウスの家を訪れるようになった。

 彼らは、いかにユリウスが卓越した生徒で、その能力を一般の学校に埋もれさせておくことが国にとっての損失であるかを訴えた。彼らが本心からそんなにもユリウスを評価しているとは思えない。しかし教師たちにとっては「自分の教え子の中からナポラ入学者を出す」ことそれ自体が大きな党への貢献で、誇るべきことなのだろう。

「息子さんのことを党の地方支部長にお話ししたら、そんな優秀な生徒がいるならば是非とおっしゃったんですよ。総統もお喜びになるだろうと」

「しかも今回編入の機会が得られるのは、首都ベルリンのナポラですよ。もしかしたら直接、ヒトラー総統にお目にかかる機会もあるかもしれない」

「これだけ期待されていて、しかもユリウスくんも編入を望んでいるのにも関わらず親のあなたのわがままで断るのは、ある種の非愛国的行為とは思いませんか」

 なかば圧力と思えるほど露骨なやり方に、少し前のユリウスならばきっと嫌悪を覚えただろう。しかし今のユリウスは例えそれが自分が忌み嫌い軽蔑するものであっても、使えるものは使うつもりだった。

 結局ユリウスの父は周囲のプレッシャーに負けて、編入試験受験の同意書にサインをした。

 その晩、険悪な夕食の席で父親は再びユリウスを問い詰めた。

「おまえ、何を考えている?」

「全部、父さんには話したよ」

 白々しい言葉に、父は舌打ちで返す。

「親をバカにするな。国も嫌い、党も嫌い、スポーツも勉強も本心では興味ないはずのおまえがこんなにもナポラに行きたがるなんて、絶対に裏でろくでもないことを考えてるに決まってる」

 しかし父はそれ以上踏み込んだ話はせずに苦々しい顔で夕食を終えるとすぐに書斎にこもってしまった。ユリウスの真の目的にはおそらく気づいていない。

 ユリウスは部屋に戻り、ニコのはがきと地図を眺める。地図上の距離で、ベルリンはハンブルクよりはるかにクラクフに近くにあるように見える。

「ニコ、少しだけ近くに行けるよ」

 白いはがきに向かって思わず呼びかけた。すべてがうまく運んだとしても、ユリウスがナポラを卒業して総督府に行くまでにはまだ数年がかかる。だが、少しずつニコのいる場所に近づいていく以外に今の自分に方法はないのだ。

 そして一九四〇年の夏、無事ナポラへの編入試験に合格したユリウスは、ベルリンに向けて旅立つことになった。