45. 第3章|1940年・ベルリン

 ハンブルクからベルリンへは一本の電車で行くことができる。しかも高値ではあるが特急列車を使えば二時間少々だ。別れ際に父は「体に気をつけて、休暇には戻って来い」と告げたが、ユリウスはうつむき黙ったまま列車に乗り込んだ。

 ユリウスが編入することになったのは、ベルリンにあるナポラ、「NPEA ベルリン=シュパンダウ」で、ベルリン西部の二つの川が交わる街に位置する。ユリウスはひとりで長距離列車に乗ることも初めてなら大都市と聞くベルリンに行くことも初めてだったのでひどく緊張した。もっとも乗り換えの心配をせずにすむだけでもまだましだったが。

 しかしハンブルクからの列車がついたのはベルリンでも市街地から離れた場所にある駅だったし、そこまで来てくれた迎えに連れられ向かったシュパンダウは落ち着いた小さな古い街で、少なくともこの日はユリウスが思い描いていたベルリンの姿を見ることはなく終わった。

「元が体育大学だからそっけない作りだよ。君も運が悪かったな。もうすぐ開校になるズデーテンやヴァルトラントのナポラは城を使ってるらしいぜ」

 迎えに来てくれたのは若い親衛隊員で、トビアスと名乗った。ユリウスは、親衛隊員とはもっと厳格で権威的なものだと思っていたので、予想外にフランクに話しかけてくるトビアスに内心では驚いた。

「しかしまあ、途中から入ってくるってことはそれだけ期待されてるってことなんだろうし、頑張れよ。最初は苦労するだろうが」

「あの、編入の枠があるってことは……」

 ずっと気になっていたことをユリウスは勇気を出して訊ねる。察しのいいトビアスは質問が終わる前にニヤリと笑って少し腰をかがめ、ユリウスに視線を合わせた。

「ああ、高倍率を勝ち抜いて入学しても、脱落する奴はいるんだよ」

 途中退校の理由は様々であるらしい。入学直後に多いのはホームシック。十二歳の子どもが親元を離れて厳しい寄宿舎生活に入るものだから、どうしても馴染めない者も出てくるようだ。「特に最初の休暇の後は、ひとりふたりは戻ってこない奴がいるな」とトビアスは言う。その他、訓練中に負った怪我や病気。ナポラの生徒としてふさわしくない行為により退学にさせられる者もいる。

「まあ、健康と素行に気をつけることだな。特に君みたいな編入者は、いろんな意味で周囲に遅れているから戸惑うことや困ることもあるだろうけど、何かあれば周囲に相談しながらうまくやれよ」

 トビアスはそう締めくくった。

 学校は、授業を行う校舎部分と宿舎部分に大きく分かれている。ユリウスはまず学校内を案内された後で、これから暮らすことになる宿舎に連れて行かれた。詳しいことは同室者が教えてくれるのだという。しかし、現れた同室の少年たちは控えめに言っても歓迎ムードとは程遠かった。

「名前は?」

「ユリウス。ユリウス・シュナイダー」

「どこから来たんだ」

「ハンブルク」

 尋問調の質問はひどく感じが悪い。同室の三人のうち二人はダミアンにも劣らないほどの完璧な金髪碧眼の少年で、彼らはユリウスの髪や目をじろじろと眺めた。もうひとりは栗色の髪で、他の二人よりやや体格に劣る。彼は嫌な目で見てくることはしないが、どこかおどおどとした様子であまり顔を上げようとしない。

 入学前に健康診断として、様々な部位の測定や、髪の色、目の色のチェックも受けた。もちろん何代も遡っての家系資料も提出し純粋なアーリア人であることを確認された上でユリウスはナポラへの入学を許された。

 ユリウスは試験の際にはじめてアーリア人にも等級があることを知った。明るめではあるが鳶色の髪に緑の目を持つユリウスは、容姿の点ではあまり高い得点を得られなかった。これらの点数は入学試験の結果だけでなく、将来進路を選ぶ際の有利不利にも影響するのかもしれない。だから、目の前の生徒たちは今こんな目で、ユリウスを値踏みしているのだ。

 ちょうど休暇が終わったタイミングなので、同室者たちもまだ帰省の荷物を解き終わっていないようだ。どのベッドやロッカーを使えばいいのかわからずまごまごしていると、栗色の髪の少年が囁くように言った。

「空いているロッカーは奥から三番目。ベッドは入口から見て左手前だよ」

「ありがとう。君は?」

「僕はマテーウス。マテーウス・エッカルト。よろしく」

 ようやく話のできそうな相手と出会えてユリウスは内心ほっとした。ハンブルクでは学校でもユーゲントでも孤立をなんとも思わなかったが、さすがにまったくの新しい環境で気持ちが弱くなっているのかもしれない。

 ――いや、そんなことを考えちゃいけない。ユリウスは頭を振って弱気を追い払う。自分は目的を持ってここに来た。他人なんて関係ない。目的を叶えるために一歩一歩進むしかないのだ。荷物の間に大事に挟んだニコのはがきをそっと見つめた。

 時計を見て、金髪の二人が出て行く。のんびりと片付けを続けているとマテーウスが声をかけてくる。他に誰もいないとあって、さっきの囁くような声とは違う普通の話し方だ。

「ユリウス、夕食の時間だよ。食堂で皆で食べるから、遅れちゃいけない」

「わかった、ありがとう」

「あと……しばらくは気をつけて」

 少し言いづらそうに、マテーウスは目を伏せた。その仕草は少しだけニコに似ていて、ユリウスはこの少年に好感を持った。

「気をつけてって何を?」

「うん。その……ここで編入生は珍しいから、しばらくは注目を浴びたりからかわれたりするかもしれない」

 なんだそんなことか、とユリウスは拍子抜けした。

「別に、大丈夫だよ」

 そして、それでもまだ不安げな様子でいるマテーウスに、食堂まで一緒に連れて行ってくれるよう頼んだ。

 食事は成長期の少年たちの胃袋を満たすには十分な量の肉やジャガイモ、スープやパンが準備されていた。戦時体制で一般国民の物資購入に食券制が導入されていることを考えれば、衣食住が支給されるナポラの生活は恵まれていると言えるほどだった。

 マテーウスの言う「気をつけて」の意味をユリウスが本当に理解したのは三日後の晩のことだった。

 ナポラの授業は思ったよりもきつい。と言うのも、ユリウスが事前に聞いていた内容と比べて圧倒的に体力を使う軍事的な訓練が多かったからだ。戦時下に入り親衛隊にも「武装親衛隊」という戦闘に参加する部隊が作られた。卒業後の進路は自由とされるナポラでも実際の進路としては親衛隊のSS士官学校に入る者が多い。要するに、戦場での即戦力育成の色合いが濃くなって来ているということなのだろう。

 すでに三年間にわたってナポラの訓練を受けて来ている他の生徒たちと違って、初心者のユリウスにとって軍隊式の訓練は心身ともに消耗するものだった。

 その日、夕食を終えて部屋に戻ると誰もいなかった。

 消灯時間の九時まで生徒たちは自由に過ごす。皆どこかに出かけているのだろうと、ユリウスはベッドに倒れこむ。疲れ果ててこのまま眠ってしまいそうだ。ずっとこんな生活で自分はやっていけるのか……つい弱気が顔を出しそうにもなる。

 やがて部屋のドアが開いた。うとうとしているユリウスは、どうせ同室者が戻って来たのだろうとそちらを見ようともしない。

「うっ!」

 背中に強い衝撃を受けて一気に意識が覚醒する。あわてて体を起こそうとしたところを、後ろから羽交い締めにされた。

「でかい声を出すなよ。余計なことをしたらシュナイダーがけんかをふっかけてきたって報告するぞ。まさか入学三日で懲罰室には入りたくないだろう」

 背後からそう言ったのは同室者の金髪その一、名前は確かカスパー。体格もよく大人びているが人を見下すような目が気に食わない。横でニヤニヤ笑っている小太りはラルフ。同室者の金髪その二で、どうやら自分の意思はなくなんでもカスパーに追従するタイプに見える。さらにその背後には見たことのない顔が二つ。上級生らしい。

「編入者がいるって聞いてな」

 彼らも、同室者二名と同じような嫌な笑みを浮かべていた。ユリウスも体力には自信があるが、カスパーの方が体が大きい。気を抜いているところに襲いかかられたのでしっかりと後ろから締め付けられた体はもがくだけでは自由にならない。

「ここでは新入りはしっかり鍛えられるんだ。人並みの洗礼を受けなきゃ、本当のナポラの生徒にはなれない」

 嫌な予感がした。そして、その予感を裏付けるように、カスパーが無理やり立ち上がらせたユリウスの膝を後ろから蹴飛ばし、床に跪かせる。

「やめろ、離せ」

「黙れって言っただろう」

 上級生がカチャカチャと嫌な音を立てて、ベルトを外す。緩めたズボンの前から陰茎を取り出し自らの手で何度か擦り上げるとグロテスクに形を変えたペニスをユリウスの顔の前に差し出した。

「やめろ」

「噛んだらただじゃおかないぞ」

 それ以上抵抗の言葉を吐かなかったのは、口を固く閉じないと目の前にそそり立つものをねじ込まれてしまうからだ。

 カスパーは体を押さえつけるだけで精一杯なので、横から近づいてきたラルフがユリウスの顎を持ちこじ開けようとする。唇に触れる生暖かいペニスの感触がおぞましい。ユリウスは決してここから先には侵入を許すまいと固く歯を食いしばった。

「くそ、こいつ強情だな」

「仕方ない。立たせろ」

 上級生の命令を受けてカスパーがぐいとユリウスの腕を引き、立ち上がらせる。そしてベッドの上に倒してうつ伏せすると、ラルフとともにその背中に馬乗りになった。

「おい、何する気だ……」

 言う間もなく、今度はユリウスのベルトが抜き取られ、ズボンと下着が一気に引き摺り下ろされた。明かりの元に情けなく尻を晒す格好になり、さっき以上に身の危険を感じた。しかしそれ以上体に触れられることはなく、頭の上からは下卑た笑い混じりの話し声が聞こえてくる。

「おい、間違っても入れようと思うなよ」

「冗談よせよ。『ピンク』じゃないんだから、そんなことするか」

「そういえば、ゲオルクが簡単にやらせてくれる女を見つけたらしいぜ。農家の未亡人で。週末行ってみるか」

「いいな」

 やがて、時間差で小さな二つのうめき声が聞こえ、ユリウスの臀部に生暖かい液体が飛び散った。

 二人の上級生が上機嫌で部屋を去り、カスパーとラルフがユリウスの背中から降りた。のろのろと身を起こすユリウスに、カスパーがタオルを投げてよこす。

「悪く思うな。大抵の奴が最初に通る……」

 言葉は途中で途切れ、どさっという音とともにカスパーは床に崩れ落ちる。ユリウスは倒れたカスパーに飛びかかり、二度三度と続けて殴りつけた。