48. 第3章|1941年・クラクフ

 眩しくてニコは目を覚ます。この部屋にはカーテンがないから夜明けが早まるにつれて目覚めの時間も自然と早まってしまう。体はいつもくたくたに疲れているからできることならもっと寝ていたいのだが、常に神経が高ぶっているせいで毛布を頭まで被っても二度寝をするのは難しい。

 この部屋に欠けているのはカーテンだけではない。小さな台所にかろうじて煮炊きのできる小さなストーブと水道、あとは狭い居室にベッドがあるだけで、それ以外の人間の生活に必要なもの――ほとんどすべてが欠落している。

 小さなベッドが三つ詰め込まれた部屋では、そのうちひとつをニコが、ひとつは年老いた大叔母が使い、もうひとつでは母とレーナが一緒に眠る。ここにやってきた当初は母親とニコがお互い「自分が床で寝る」と言い張り、結局今のかたちに落ち着いた。しかしレーナももう十一歳になり、母親とひとつの寝床で眠るのは明らかに窮屈そうだ。

 テーブルもないので食事は器を手に持って食べるしかない。もちろんシャワーもトイレもないので、体が汚れると冷たい水で濡らした布で拭くしかないし、用を足すときは外の不潔な共用便所に行く。それどころか真冬の真夜中など外に出ることが難しい場合は家の隅でバケツに済ませ、あとでまとめて捨てに行くしかない。

 ニコと母、妹、そして大叔母の四人がクラクフの南側にあるゲットーで暮らすようになったのは昨年の秋のこと。すきま風だらけの狭い部屋に劣悪な衛生環境の中で何とか冬をこすことができたものの、ここのところ大叔母は咳きこんで寝ていることが多い。暖かくなると伝染病がはやりやすくなるから、体調を崩している大叔母のことは気がかりだった。

 戦争がはじまって以来、ニコの周辺状況は坂道を転がるように悪化の一途をたどっている。

 一九三九年にドイツがポーランドに攻め込んだ。ポーランド軍も備えていたし、いざとなれば同盟国であるイギリスやフランスが援軍をよこしてくれるのではないかという期待もあった。しかし軍事支援は得られないどころか東側からソ連にも攻められ、あっという間にポーランドは降伏した。

 ドイツから逃げてきたのに、逃げてきた先すら結局はドイツになってしまった。その事実はニコと家族を打ちのめした。しかし、間もなくもっと恐ろしい出来事が一家を襲った。ある日の午後、玄関がノックされ、ドアを開けるとナチ親衛隊の制服を着た男達が立っていたのだ。

 ハンブルクでレオが連行されたときとまったく同じ状況にニコは戦慄した。あのときもレオが連れ去れる理由は一切わからなかったし、このときもなぜ親衛隊がポーランドにいるのか、この家にやってきたのか理解できなかった。後になって知ったところでは、占領した地域の治安維持を速やかに進めるために、正規軍である国防軍の後ろには親衛隊の武装部門とドイツ警察が控えていたのだという。

 彼らはまず大叔父を呼び出し、一緒に来るように言った。手には令状のようなものを持っていたが、そこに何が書かれているのかはニコの目には見えなかった。大叔母は動揺して夫を引き留め、ニコの父も連行の正当な理由をなんとか聞き出そうと食い下がった。すると親衛隊員はニコの父に名前を聞き、手にしたリストと突き合わせると「載ってないな」とつぶやいた。

「おまえはクラクフ市民か?」

「そうです」

 このときまでに一家は身分証明書を手に入れていた。賄賂を使ったとはいえ偽造ではなく正規の市民登録を行って手に入れた証明書なので、見られても後ろめたいところはないはずだった。

 親衛隊員はニコの父親の経歴や職業を聞き出し、頭の先から足の先まで、検分するように眺めた。

「よし、おまえも来い。理由は後で説明する」

 もちろん、大叔父も父も二度と戻ってはこなかった。

 消えたのはニコの大叔父と父だけではない。ポーランド人かユダヤ人かを問わず、医者や弁護士、教師や聖職者など知識階級とされる人々が街から根こそぎ消えた。

 やがて市民の間には、親衛隊が手にしていたリストにはたくさんの知識層ポーランド人の名前が載っていたのだというまことしやかな噂が流れた。社会的に影響力を持つ層が反乱を起こすことを警戒したドイツは侵攻前から密かに連行対象者のリストを作成していたのだという。

 ニコの大叔父は、現役時代は弁護士としてユダヤコミュニティで頼りにされる存在だったからリストに載せられていたのかもしれない。だが、連れ去られた人々がどこへ行ったかを知る人は誰ひとりいなかった。

 兄のレオを失ってわずか一年も経たないうちに、ニコは父親もなくした。しかし泣いている余裕すらない。なにしろ大人の男を失った今では、ニコが家で唯一の男として大叔母と母、レーナを守る重責を担うことになったからだ。

 大叔父と父がいなくなって間もなく、クラクフにはポーランド総督府が設置され全面的にドイツに支配されることとなった。着任した総督のハンス・フランクはクラクフのシンボルであるヴァヴェル城に暮らす。そして彼は、自らのお膝元となったクラクフにユダヤ人が留まり続けることを好まない。ナチスは全ドイツ領からユダヤ人を追放しようとしているらしい。

 その結果、クラクフで暮らすユダヤ人のうち多くは昨年のうちにポーランドの他の地域へ追いやられてしまった。働ける者とその家族だけはかろうじて、新たに建設されたゲットー内に移り住むことを条件にクラクフに残ることを許された。

 ゲットーはポドゥグージェ地区と呼ばれる川に近い場所に作られた。たいして広くもない区域に街のすべてのユダヤ人が押し込まれ、ひどく狭く、運が悪ければ扉すらないあばら屋での生活を強いられた。

 最初の頃はまだ昼間は外部に出ることも可能だったが、そのうち地区を囲む高い壁が完成しゲットーは完全に封鎖された。今では完全な管理下におかれ、労務以外でユダヤ人がゲットー外に出ることは一切許されていない。

 開戦してからまだ二年弱しか経っていないのに、ニコにとってこの期間はまるで数十年のように感じられた。最近では自分のことを年老いた老人のように思うことがある。

 その朝も、ニコは何も食べないまま家を出て集合場所へ向かう。腹は常に減っていて、今では麻痺してしまったのか空腹を感じることすらない。毎日同じ時間に迎えに来るバスに乗って近郊にある電池工場へ向かう。ゲットーの外にある仕事場に行くときには誰からも一目でユダヤ人とわかるよう、大きく目立つように黄色いダビデの星を縫いつけた服を着ることが義務付けられている。最初はひどく屈辱的に感じたが、いつの間にか何も感じなくなった。

 立ちっぱなしで一日電池を組み立てる作業は精神的にも肉体的にも楽ではないが、それもじき慣れた。仕事に集中している間は余計なことを考えなくてすむだけでもありがたいし、賃金は出ないものの工場では昼に質素ながらも食事が提供された。その分、家で配給の食糧を節約することができた。

 ニコの母は、毎日別のバスに乗って琺瑯工場に出かけている。四人家族のうち労働力と見なされているのはニコと母だけで、それは要するに、この二人が倒れれば家族が立ちゆかなくなることを意味している。

 ニコと家族がここに留まっていられるのは労働力としてわずかな価値があるからで、働けなくなればきっと以前に街から追放された人々同様ゲットーから追い出されてしまう。追い出されたその先に何があるのかはわからないが、年老いた大叔母とまだ十一歳のレーナを連れて生きていけるとは思えない。なにしろクラクフを出ても、そこはドイツの支配地域なのだから。

 ゲットーは住宅環境も衛生状況もひどいものだが、屋根のあるところで寝ることができるし多少の配給を受け取ることもできる。大叔母が家からこっそり持ち出してきた金品や、ニコの母がハンブルクから持ってきた荷物の中にもまだいくらか価値があるものが残っている。人がいるところには自然と経済が生まれるもので、決して配給では手に入らないような食料や嗜好品、雑貨などが、金を払いさえすればどこかしらで入手可能だった。

 ニコにとってわずかな楽しみは、工場で年齢経験さまざまなユダヤ人と会えることだ。彼らの多くはポーランドで生まれ育ったユダヤ系ポーランド人で、ドイツ語しか話せないニコは当初彼らとコミュニケーションを取ることができず疎まれた。しかし、少しずつポーランド語やイディッシュを覚えていくにつれて会話の輪に入れてもらえるようになった。中にはロシア語を話すスラブ系ポーランド人もいて、ニコは少しだけロシア語も話せるようになった。

 学校を離れ学ぶことから離れてずいぶん経つが、新しい言葉を覚え世界が広がる感覚は率直に言って喜びだった。とりわけ楽しいのはイディッシュで、ユダヤ教を信じるユダヤ人が使うイディッシュはドイツ語と似ているのでニコにとっては学ぶことが比較的たやすい。そして、ユダヤ人工員の間でイディッシュは一種暗号として使われていた。

 工場で指示役を務めるのは大抵が「民族ドイツ人」と呼ばれるドイツ系ポーランド人で、彼らの多くはポーランド語と、一部はドイツ語を話す。そのためポーランド語での会話は彼らに内容を聞きとがめられる可能性があるが、ユダヤ人しか使わないイディッシュは秘密の会話にはうってつけなのだ。

 もちろんやりすぎれば内容を怪しまれ叱責される。しかしちょっとしたやり取りくらいであれば見逃されることが多く、ユダヤ人工員たちは仕事の愚痴や指示役の悪口など、イディッシュを使ってささやかな気晴らしをした。

 今になってニコは、数年間通ったユダヤ学校でももう少し真面目にイディッシュを勉強しておればよかったと思うが、あの頃は少し我慢すればドイツの教育に戻れると思っていたからユダヤ教信者の言葉は自分の人生には必要ないものだと考えていた。

 仕事を終えればバスに乗ってゲットーに戻る。朝集合するのと同じ場所でバスを降りて、疲れ果てたユダヤ人たちはそれぞれねぐらへ帰っていく。

「じゃあ、また明日」

 同僚と別れたニコは、棒のようになった足を引きずって家へ向かう。外灯のない真っ暗な道を歩くことに、数年前のニコであれば恐怖を感じたかもしれない。でもここはユダヤ人しかいない場所。働くことができる程度に健康で、ドイツ人に従順でさえいれば突然逮捕されて連行されることはない。こんなひどい場所なのに外の世界よりは安心だと思ってしまうなんて――ばかみたいだ。

「おい」

 突然誰かに話しかけられた。あまりに疲れていて、後ろを歩いてくる人間がいることに気づかなかった。

 振り返るとそこにはニコよりはるかに身なりの整った男がいた。

 新しいものではないがしっかりしたコートに、髪も整った二十代か三十代くらいの男。暗闇の中でも目を凝らせば彼の腕にある腕章を見分けることができた。ユダヤ人警察――ドイツ当局が命じてゲットー内の治安を維持するため作らせた自警団で、メンバーはユダヤ人から選ばれた。

 同じユダヤ人でも特権意識を持つ彼らの評判は悪い。ドイツ当局に媚びて他のユダヤ人の反逆を密告するとか、ユダヤ人同胞にちょっとした便宜を図る代償に賄賂を求めてくるとか、ろくでもない噂はいくらでも聞いたことがあった。

「何か御用でしょうか」

 逆らうと何が起こるかわからないからニコは立ち止まる。このご時世にゲットー内で酒を手に入れることは難しいのに、男は手にスキットルを持ち、近づくとアルコールのにおいがした。

「おまえ、このあたりに住んでいるのか」

「……はい」

 嫌な感じがした。だってこんな夜に、酔っ払って話しかけてくるなんてまともではない。しかし相手はユダヤ人警察だから逆らえば何が起こるかわからない。

 男はニコの目の前まで歩み寄り、あごに手をかけると顔を上向かせた。

「ガキだが……まあ可愛い顔をしてるな」

「あの。何でしょうか……」

「おいガキ、ちょっと一緒にあっちに行かないか? ちょっと付き合ってくれたらたばこでも酒でも好きなものをわけてやるぞ」

 そう言うと同時に彼はニコの痩せた尻をぐいと掴んだ。ぞっと鳥肌がたつと同時に「あっちに行かないか」という言葉の意味をようやく理解する。いや、具体的に何を求められているかはわからないが、それが性的な要求であることだけは理解できた。

「あ、あの。困ります」

 ニコはうろたえ身をよじるが、酔っ払った男は楽しそうに顔を寄せてくる。

「何が困るんだ。それともたばこや酒より食い物の方がいいか? がりがりに痩せてるじゃないか。俺はユダヤ人警察だし父親はユダヤ人評議会の委員だ。配給を融通してやったっていい」

「……や、やめてくださいっ!」

 ニコは思わず声を上げた。家族もニコも飢えている。配給の食料を増やしてもらえるならばそんなありがたい話はないのに、あからさまな誘いに嫌悪が勝った。

 はっきりとした拒絶の言葉に男は眉をひそめる。怒らせただろうか、ひどい目に遭わされるだろうか、緊張は高まった。

 だが――幸いなことに、向こうの通りから別の声が男を呼ぶ。

「おい、イツハク! そこにいるのか?」

 イツハクと呼ばれた男はチッと舌打ちをしてニコの尻を掴む手を離した。こちらへ背を向けると声のした方向へ歩き出し、ふと思い出したように振り返る。

「邪魔が入ったが、その気になったら俺のところへ来い。差し出すものを差し出せば、話を聞いてやらなくもない」

 取り残されたニコは呆然と立ちすくんだ。

「お兄ちゃん、手が傷だらけ」

 疲れ果てて帰ったニコの手を握り、レーナが悲しそうに言う。電池工場では化学薬品を使うので、ニコの手はいつも荒れてボロボロだ。

 父がいなくなったとき、ゲットーに連れてこられたとき、泣いてばかりだったレーナは最近涙を流さなくなった。まだ働きに出る年齢ではないが、母とニコが留守にしている間大叔母の面倒を見てくれている。それどころか、ときには人の出入りにこっそりと紛れてゲットー外に行き、金品を食料と替えてくることもある。その手の仕事は子どもの方が怪しまれないのですでに十六歳になるニコには難しい。心配なので危険なことをして欲しくはないのだが、配給だけでは食べていけないから母もニコもレーナの行動を黙認した。

 神様に祈る回数はほぼゼロになった。それよりはまだ多いものの、ユリウスのメモを握りしめる回数もずいぶん減った。だって、こんな高い塀の中まではさすがのユリウスだって迎えには来られないだろうから。

 あれから二年以上も経って、きっとユリウスは背も伸びて立派な青年になっているだろう。もしかしたら見てもわからないくらい変わってしまったかもしれない。ユリウスだって、こんなに痩せて汚れてみすぼらしくなったニコのことは、たとえどこかですれ違っても気づかないだろう。自らの境遇をほとんどあきらめて、しかしニコはあのメモを捨てることはできずにいる。

 硬いベッドに横になってから、帰りに出会ったイツハクのことを思い出す。乱暴だと評判のユダヤ人警察に目をつけられて無事でいられたことに安心して――その一方では、追加の食料を手に入れる貴重な機会をわが身可愛さからふいにしてしまったのかもしれないと、家族への後ろめたさに苛まれた。