47. 第3章|1941年・ベルリン

 意外にも、ユリウスはナポラでの生活に馴染んだ。

 ひとりっ子のユリウスにとって集団生活は不安でしかなかったが、同じ部屋で四人もの人間が寝起きすることにも、風呂やトイレを赤の他人と共用することにも、始終誰かしらが近くにいてろくろくひとりになる時間すら持てないことにもやがて慣れた。

 慣れたのはそれだけではない。教官や上級生とすれ違う度にナチス式敬礼をしながら「ジーク・ハイル」や「ハイル・ヒトラー」と挨拶することも、集会のたびに高らかに「旗を高く掲げよ」を歌うことにも、軍隊のような統制のとれた動きで行進することも。ユリウスはそれらすべてをいつの間にか、歯を磨いたり靴紐を結んだりするのと同じように、言葉の意味も是非も考えず自然に行うことができるようになっていた。

 編入三日目に殴り合いのけんかをして以降、カスパーはユリウスに友情らしきものを感じるようになったようだ。カスパーがユリウスに友好的な態度を取れば、もちろんその腰巾着であるラルフも追従する。この二人は、以前は同室のマテーウスに冷たく当たっていたようだが、ユリウスが間に入るようになってからは目立ったいじめはなくなった。生活は順調で快適といっていいくらいだ。

 厳しく管理された生活を嫌悪していたユリウスだが、慣れてみれば一日のスケジュールを誰かに決められそのとおりに動くのは、ある意味では楽だ。ナポラの授業や訓練はひどく体力を消耗するから、夜には余計なことを考える体力すら残されていない。毎晩夢も見ずにぐっすりと眠ることができた。

 ただ流れに身を任せ目の前に与えられるタスクをこなしていけば日々は過ぎる。そして、その自然な流れの先にクラクフの総督府があり、ニコがいる。そう考えユリウスはそれなりにナポラでの生活に満足するようになった。

「聞いたか、アメリカが戦争に介入しそうだぜ」

 部屋に入ってきたラルフはどこから手に入れたのか新聞を手にしている。この小太りでお調子者の少年は普段から真偽も確かめない情報を知ったかぶりで吹聴するものだから、カスパーはうさんくさそうな目を向けた。

「なんだよ。アメリカって中立国だろ?」

「でも前からドイツの領土拡張には反対していたじゃないか。ほら見ろよ、イギリスやフランス亡命政府に支援だってさ。アメリカはイギリス以上にでかい敵になるぞ」

「大丈夫だよ。見てろよ、二年後にはイギリスもアメリカも、我らが帝国ライヒの一部になっているさ」

「二年で終わったら俺たちの出る幕がないじゃないか」

「それもそうだな。じゃあ、五年」

 カスパーとラルフは戦況の話が好きだ。二人とも愛国心が強く、ドイツの領土拡張の戦いに参加して功績を挙げて将来は親衛隊の幹部になりたいのだという夢を持っている。

 一方でこういう話に乗り気でないのはマテーウス。腕っ節が弱く体力勝負の授業ではいつも周囲のお荷物になっているし、気が小さいので軍事のセンスもなさそうだ。頭は抜群に良いが、親衛隊の士官育成を大きな目的とするナポラには不似合いな人材に見える。

 本人の言うところによると、家が貧しいので経済的負担なしにアビトゥーアが取れるという謳い文句に惹かれてきたのだという。しかし戦争が始まり、最近ではナポラで専門的に軍事を学んだ子どもたちが強制的に親衛隊や国防軍に配置されることがないとは言い切れない情勢になってきた。マテーウスは将来への不安を強めているようだった。

 アメリカが参戦するか否かについて他の生徒の意見も聞こうと、新聞を片手にカスパーとラルフは威勢良く部屋を出て行った。あとはユリウスとマテーウスが取り残される。

「戦線はまだ広がるのかな」

 ぽつりとマテーウスがつぶやいた。その言葉には確認するまでもなくネガティブな響きが込められている。普通愛国心に溢れるナポラの生徒はこのような物言いはしないものだが、マテーウスはなぜかユリウスひとりしか周囲にいないときにはときおりこういった、公には口にできないようなことをつぶやいた。

 臆病な彼は戦場に行きたくないのだろう。もちろんユリウスも本心ではマテーウスの思いに同調しないわけでもない。しかし、かつて小学校でそうしたのと同様、ユリウスはナポラでできるだけ問題を起こさずに過ごそうと決めていた。

 噂では、ここでは成績が優秀なだけではなく、指導教官の覚えが良いほど将来の進路の希望が通りやすくなる。だから思想信条を試すような「悪魔のささやき」をしかけてこられるのはあまり楽しいことではない。

「広げない理由がないじゃないか。昨年は空中戦でやられたけど、イギリスにだって体制を整えたところでまた攻め込むことになるだろう。なにしろあそこには各国の亡命政府が集っているから、どうしたって叩きたいさ。そんな心配そうな顔しなくてもいい。誰の目に見てもおまえは戦場には向いてないんだから」

 昨年春にフランス、ベルギー、オランダを続けざまに落としてから、ドイツはすぐにイギリスを攻めた。他国同様に電撃戦で一気に叩いて降伏を引き出す作戦だったが、イギリス軍の猛烈な反撃に遭い最終的に退却する羽目になった。今のところ開戦以来、唯一のドイツの汚点といえるのがこのイギリスでの戦いバトル・オブ・ブリテンだ。

 ユリウスの言葉に少し考え込んでから、マテーウスは言った。

「でも、戦争に行かなくたって嫌な仕事はいくらでもある。このあいだ聞いたんだ。最近じゃ家畜みたいにユダヤ人をつかまえて、収容所に運ぶんだって」

 ユリウスは露骨に顔をしかめた。それはできるだけ触れないようにしている話題に遠慮なしに手を突っ込まれた不快感の表明だった。

 学校内に籠もっていればユダヤ人を見ることはない。だが、最近ではユリウスがハンブルクで暮らしていた頃以上にユダヤ人への取り締まりが厳しくなっているらしいことは知っていた。ちょっとしたことで捕まえて収容所に送る。そんな話を耳にする度ニコのことを考え不安になり、まさか彼に限ってそんなことはないと自分を鼓舞していた。

「そんなのゲシュタポの仕事だ。おまえがやらされるわけじゃないだろ」

「でも収容所は親衛隊が管理してるよ。ひどく働かせて、言うこときかないと殴ったりするんだって。もし半強制的に親衛隊に進まされたとして、僕にはそんなことできない」

 ユリウスは好ましくない話題をうじうじと続けるマテーウスにだんだん苛立ってきた。

「黙れよ、ユダヤ人の話は聞きたくない」

 きつい言い方に、マテーウスはそれきり黙りこんだ。

 しばらく背を向けて雑誌を読んでいたが、あまりにしんとしているのでまさか泣いているのではないかと振り返ると、マテーウスは本を読んでいた。

 読書家の彼はいつも何かしら読んでいる。ときたま「君も読む?」と読み終えた本を差し出してくれるのだが、ハンブルクを離れる少し前にようやく読書の習慣を身に付けたばかりのユリウスには、彼の選ぶ本はたいてい内容が大人びて、難解すぎた。

「何を読んでるんだ」

 きついことを言い過ぎたと少し反省して、ユリウスは機嫌取り半分に話しかける。

「……これ」

 マテーウスは本の表紙をユリウスに向けた。英語で印刷されたタイトルは『ハックルベリー・フィンの冒険』、著者はマーク・トウェインと書いてある。ラテン語も英語もフランス語も、ユリウスはおよそすべての外国語が苦手だが、マテーウスは語学好きでよく勉強がてら外国語の本を読んでいる。

「イギリスかアメリカの本? 読んで問題ないやつなのか?」

 多くの本が禁書になっている時代なので、特に外国の本には注意が必要だ。心配して訊くユリウスにマテーウスは笑いながら肩をすくめた。

「わからない、もしかしたら持っているのを知られたら怒られるような本なのかも。でも、僕にも読めるくらいのやさしい英語で書かれた、子ども向けのお話だよ」

 どうやらさっきユリウスがきつい物言いをしたことは怒っていないようだ。

「どんな話?」

「これは前に書かれた別の小説の続編なんだ。主人公の少年は大金持ちになってお屋敷で暮らしてるんだけど、悪い父親に誘拐されて、でも知恵を使って逃げる」

「ふうん」

「で、逃げる途中にお屋敷で知り合いだった黒人奴隷の少年が売られそうになってるところに出くわして、彼を救って一緒に冒険するんだ」

 ユリウスにはありふれた冒険譚のようにしか思えないが、マテーウスは主人公のハックルベリー・フィンに憧れているのだと熱く語る。

「ハックは黒人奴隷の逃亡を助けるのが罪である時代に、自身の正義に従って奴隷のジムを助けるんだよ」

 マテーウスはきらきらと夢見るような瞳で語った。

 ユリウスはその表情をみて、彼にとってこの学校が場違いであることを再確認した。と同時に正面から正義感でぶつかることを美しさだと考えているらしきマテーウスを浅はかだとも思った。マテーウスの理想主義はかつて父親に論争をふっかけた幼いユリウスとよく似ていた。だが、そんなやり方では結局ニコひとりすら救えなかったのだ。

 やがて消灯時間になり、部屋にもどってきたカスパーとラルフもそれぞれベッドに入る。誰もが疲れていて、明かりが落ちればすぐに部屋は穏やかな寝息で満ちた。

 しかしユリウスは、さっきマテーウスに聞いた話が妙に気になってなかなか眠れずにいた。あの小説の主人公であるハックルベリー少年は、罪だとわかった上で黒人の少年を救うと決めたとき、こう言ったのだという。

「よろしい、ぼくは地獄へ行かう。」*

 その覚悟は本当に美しいものだろうか。

 そもそもこの世界では、何が罪で、何が地獄なのだろう。

 このままナポラで学び続ければユリウスは将来きっと親衛隊に身を置くことになる。ニコを救うためにユダヤ人の追放を是とする組織の一員にならざるをえないし、それは総督府に行きたいユリウスが自ら選んだことでもある。

 かつてダミアンに示唆されたときには「国を内側から変える」などと威勢の良いことも考えたが、ナポラに来て国や党の考えに触れれば触れるほど自分ひとりの力ではこの大きな流れをどうすることもできないという思いが募る。

 ユリウスはニコを救いたいがためにここにやってきて、その結果、いつか人を――もしかしたらニコの同胞をこの手で殺すことになるのだろうか。

 想像は生々しくて、背中にすっと寒気が走る。しかしもう後戻りはできないのだ。

「いいさ、地獄にでもどこにでも」

 ユリウスはそっとつぶやいた。


*『ハックルベリー・フィンの冒険』中村為吉・訳(1941、岩波書店)

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