49. 第3章|1941年・ハンブルク/ベルリン

 夏の休暇にユリウスはほぼ一年ぶりにハンブルクに戻った。

 とりたてて郷愁があるわけではないが実家以外に行く場所もない。それに、もしかしたらニコから新しいはがきが来ているのではないかという期待もあった。しかし家にあったのはナタリーからの手紙が一通だけで、父が不在の隙を狙って書斎もひととおり漁ってみたが、ニコからの連絡の形跡は見つけることができなかった。

 ナタリーの手紙は昨年の夏、ちょうどユリウスがベルリンに旅立つのと入れ違いに届いたものだった。開戦直前に出された手紙がどういうわけか一年近くかけて届いたようだ。彼女の暮らすイギリスとドイツは敵国同士となってしまったので、今となっては一般市民同士の交信は難しい。

 手紙には、今にも戦争がはじまりそうなのでユリウスや父のことを心配しているという内容が綴られていた。ユリウスはそもそも数年前からナタリーの手紙にほとんど返事をしなくなっていたが、今が戦時中で例え返信を書きたくても書けないことをありがたいと思った。

 ユリウスが親衛隊将校となるためにナチの学校に通っていると知ったらナタリーはきっと驚き、悲しむだろう。それどころか失望し、ユリウスを軽蔑するかもしれない。行き先が地獄であろうが自分の決断には後悔しないと決めているとはいえ、ナタリーから蔑まれることを想像すると捨て去ったはずの良心がかすかに痛む。

 帰省中だからといってのんびり過ごせるわけではなく、ナポラの生徒は休暇中は地元のヒトラー・ユーゲントの活動に参加することが義務付けられている。ユリウスの休暇もほとんどはユーゲントのイベントで潰れていった。

 一度は、地元のヒトラー・ユーゲントの管区長に頼まれ子ども達相手にナポラでの生活を話して聞かせる機会を持たされた。気は進まないが、こういった依頼に積極的に応えることもナポラの生徒の勤めとされる。

 心にもない「愛国心」「党への忠誠」についてとうとうと語りながら、ユーゲントの子ども達がきらきらした目で自分の話に耳を傾けるのは不気味に思えるくらいだ。そして、同世代のユーゲント達はユリウスに羨望と妬みの入り交じった視線を投げかけ必要以上に近づこうとはしなかった。

 唯一楽しみにしていたのはダミアンに会えることだったが、一切姿が見えない。周囲の指導者に聞くと、ダミアンは入隊試験に合格し、かねてからの希望通り親衛隊に所属することになったのだという。以前は二十三歳を入隊年齢と定めていた親衛隊だが、開戦以来徐々に基準は和らいできている。

「ちょうど軍事訓練でハンブルクを離れていてね。三ヶ月ほどで戻るようだが、このご時世だからもしかしたらすぐに戦地に向かうことになるかもしれない」

「会えなくて残念でした。彼には本当に世話になったから」

「そうだろう。ダミアンも君には期待していたから、きっと会いたがっただろうな。しかし、最初はあまりユーゲントの活動に熱心ではなかった君がこんなに立派になるとは正直驚いているよ」

 男は帰り際、ユリウスに奇妙な助言をした。

「君は最近のハンブルクを知らないだろうから言っておくが、外を歩くときは気をつけた方がいい。特にその格好をしているときは」

「どうしてです?」

 ユリウスはその日、ユーゲントの活動を行うときの決まりどおりに褐色の制服を着ていた。このご時世ユーゲントの制服を着ていることで賞賛されることはあっても「気をつけた方がいい」場合があるとは意味がよくわからない。すると男は声を潜めた。

「けしからん話だよ。不良少年たちがユーゲント狩りをやってるんだ、最近じゃ」

 ヒトラー・ユーゲントへの加盟はすべての若者に対する義務なのに、ユーゲントの活動に参加しないばかりか襲撃を行う若者集団とは穏やかではない。

「ほとんどはユーゲントの規律に耐えられなくなって脱落した奴らだよ。男女入り交じってふしだらな音楽で踊ってるくらいはまだかわいい方で、団員を捕まえて監禁したり殴ったりするようなグループもある。当局も取り締まってはいるんだがイタチごっこでね。奴らはこの制服を目印にしているから、君も気をつけたまえ」

 帰り、わざわざユリウスは遠回りをした。その不良グループとやらを見てみたかったのだ。もしダミアンと出会わなければ自分はもしかしたらユーゲントを狩る方の立場になっていたかもしれない。それは捨て去った方の選択肢、失われた自分の未来を確認したいという曖昧な好奇心だった。しかし結局ユリウスが帰省している間に不良グループを見かけることはなかった。

 父は昨年別れたときよりも痩せて疲れて見えた。別れ際には珍しく弱気な様子で「ハンブルクもいつまでおまえの知っている姿のままでいるかはわからないから、目に焼き付けておけ」と言った。

 バトル・オブ・ブリテンでいったん撤退を余儀なくされたものの、ドイツとイギリスのにらみ合いは続いている。海に近い位置にある大都市であるハンブルクは、イギリス空軍がやってくるならば絶好の空爆の対象になるだろう。

 休暇を終えてベルリンに戻るとむしろほっとして、たった一年暮らす間にナポラが自分の居場所になっていたことを思い知る。ユリウスが一番乗りで、同室の三名も次々に故郷から帰ってきた。

「おい、やったぞ」

 荷物をほどきもせず、トランクを放り出すなりカスパーが笑いを隠しきれない様子で近づいてきた。

「やったぞって、何を?」

「バカ、分かるだろ。あれだよ、あれ」

 それでぴんときた。カスパーはこの夏、故郷で童貞を捨ててきたのだ。

「相手は誰だよ」

 ラルフは鼻息を荒くして身を乗り出す。

「友達の義理の姉さん。夫の方が戦死して寂しいかったみたいだ。そういうおまえたちはどうなんだよ。ラルフもこの夏はがんばるって言ってただろ」

「いや、俺は……もうちょっとだったんだけど」

年頃の男ばかりが集まる学校ナポラでは長期休暇を終えるたびにこういった会話が繰り返される。抜け目のない生徒の中には、学校の近くにもちょっとした金か、もしくは見返りなしに寝てくれる女性を見つけて夜間の自由時間や日曜に会いに出かけたりしている者もいると聞く。誰もが性欲を持てあます年頃で、しかも周囲への競争心もある。カスパーは負けず嫌いだから、友人たちの間で童貞喪失を先んじたのがよっぽど誇らしいのだろう。

 一方ユリウスはこの手の話題が苦手だ。当たり前のように「じゃあおまえは?」と聞かれることになるが、その際の答えに詰まってしまうからだ。かといって、あまりに女性に興味がない様子を見せていると同性愛者ではないかと疑われ立場がまずくなる。

 以前苦し紛れに「故郷に好きな人がいる」と言ってしまって以来、その設定で乗り切れてはいるが、だからといって健康な十六歳の男子が故郷の、しかも片思いの相手に操を立てるというのもあまり一般的な感覚ではないようだ。

「おまえはどうだったんだ? 今回こそ噂の思い人とうまくいったのか?」

 案の定、分の悪くなったラルフがユリウスに話を振ってくる。

「ないよ。会ってもいない。もうハンブルクにはいないんだ」

「え? なんでだよ」

 ユリウスは「故郷の想い人」の話をするときいつも、適当に事実と虚飾を混ぜて話すようにしていた。完全な出任せだと何を話したか忘れて、後でつじつまがあわなくなってしまうからだ。もちろん虚飾の部分についてはちゃんと記憶に残しておく必要がある。

「……彼女、学校に行ったんだ。離れた場所の看護学校に」

「へえ。看護学校なんてハンブルクにもあるだろうし、夏休みなのに帰って来ないのか」

「彼女の姉さんが結婚してニュルンベルクで看護婦をやっていて、そこの世話になってるから今年の夏は戻らないって」

 嘘はどんどん大きくなるが、まさか「クラクフにいるはずの同性でユダヤ人の幼なじみ以外に欲望を抱くことがないから、女とセックスをする気はない」などとは口が裂けても言えるわけもない。

 ユリウスの話は友人たちの興味を誘わなかったようで、ラルフは身を乗り出してカスパーの初体験の話を聞き出しはじめた。自分から話題が逸れたことにユリウスは内心でほっとする。隣の椅子では、ユリウスと同様にあまり前向きではない様子で、マテーウスが黙って話を聞いていた。

「おまえは何もないのか?」

 ユリウスはふと思い立って聞いてみた。

「ないよ。僕は第一、女の子にもてるようなタイプじゃないしね」

 背が低くおとなしいマテーウスは確かにあまり男性らしい感じがしない。本人もそれはよく自覚しているからなのだろう、女性に対して内気で、ユーゲントのイベントで女子と一緒になったときなど目も合わせられず隅に隠れている。平時であれば学者然とした知的な雰囲気を持つ彼のような男を好きになる女性もいる気がするが、運悪く今はそういった時代ではない。

「まあ、お互いそんなに焦ることもないだろ」

「そうだね」

 しかし、女性に対する内気さはこのような環境ではときおり思わぬ誤解を生む。ユリウスは後日そのことを思い知った。

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