50. 第3章|1941年・ベルリン

 新学期が始まって二週間ほどがたったある日のことだった。夕食後にラテン語を教えてもらう約束をしていたのに、マテーウスがなかなか戻ってこない。

 ユリウスは基本的に外国語全般が得意でないが、特にラテン語には見るのも嫌になるくらいの苦手意識を持っていた。ハンブルクのギムナジウムに通っていた頃は内容も初級程度だったためまだましだったが、ナポラにやってきて以降はレベルの高い授業になかなかついていけず、落第しないだけで精一杯といった調子だ。

 何度もドアを開けては廊下を確かめる様子が奇妙に映ったのか、雑誌を読んでいたカスパーが顔を上げる。

「どうしたんだユリウス。そわそわして」

「ラテン語の約束をしていたのにマテーウスが戻ってこないんだ。もう食事が終わって一時間近く経つのに、おかしいな」

 するとカスパーは口元に手を当てて記憶を探るような仕草を見せた。

「あのチビなら廊下で呼び止められていたぞ。相手はひとつ上の学年の……確かギュンターとか言ったっけ。外面はいいが何かと小ずるいって噂の奴だから珍しい組み合わせではあったな」

 ユリウスには覚えのない名前だが顔の広いカスパーがそう言うからには、それは確かに評判の良くない人物なのだろう。上級生の人格が良かろうが悪かろうが一切興味はないが、自分の友人が絡むとなると話は別だ。それにしてもカスパーの指摘するように、評判の悪い上級生とおとなしく目立たないマテーウスというのもいまいちしっくりこない。

「そんな奴とマテーウスが一体どういう関係があるんだ?」

「妙だとは思ったんだよ。あいつくそ真面目だから目をつけられてなきゃいいけど」

 そう言われるとなんだか心配になってきて、ユリウスは部屋を出てマテーウスを探しに行くことにした。途中念のためトイレやシャワー室も確認しながら食堂まで歩いた。それでも見つからず、あきらめて部屋に戻る途中で顔見知りの上級生に会ったので、駄目元でギュンターかマテーウスを見なかったか訊ねた。

「さあ、見てないな。ただ、ギュンターの奴はよく夕食の後はひとりになりたいって言って、作業小屋に行ってるみたいだから、もしかしたら外にいるんじゃないか?」

「ありがとうございます」

 思わぬヒントにユリウスは礼を言って出入口へ急いだ。

 作業小屋は中庭の隅にあるバラック作りの小さな建物で、庭師用の作業道具などが入れてある。ユリウスは一度も立ち入ったことがないが、かんぬきについた南京錠が緩んでいるらしく、上級生が禁止されているたばこをこっそり吸う時などに使っているという噂は聞いたことがあった。

 中庭に面した側の扉から外に出ると、ついこの間まで夏だったような気がするのに、外はもう肌寒い。上着を持ってこなかったことを少し後悔した。

 宿舎の窓から漏れる明かりを頼りに、作業小屋を目指す。マテーウスは貧弱だが利口で真面目だから、素行の悪い上級生について妙なことに手を出す心配はないだろうが、もしもということもある。小屋を確認して何も見つからなければ、ただの勘違いということで部屋に戻ればいいだけのことだ。もしかしたらただ入れ違いになっただけで、今頃マテーウスは部屋でユリウスを待っているかもしれない。

 作業小屋のドアは閉まっていた。しかしかんぬきは外れていて、ドアノブを引きさえすれば簡単に扉は開く。いったん扉に手をかけて、しかし思いとどまったユリウスは念のため先に外から声をかけてみた。誰が中にいるかわからないのにいきなり突入するのはトラブルの元だ。

「誰かいるのか? 入るぞ?」

「待て、開けるな」

 それはマテーウスの声ではなかった。しかしあわてたような口ぶりが妙に気にかかりユリウスは強く何度か扉を叩く。

「人を探しているんだ。開けるぞ」

「おい待て。開けるなって言ってるだろ」

 声に重なるようにばたばたと激しい物音がした。そして、はじけるように内側からドアが開くと同時にどこかで見たような顔が飛び出してくる。服装は妙に乱れていて、ベルトを締めながら宿舎の方へ猛然と走って去っていった。

「……なんだ今の」

 彼がここで「見られたくない何か」をやっていたのは確かなようだ。小屋の中は暗く、他には誰にもいないようだったが、ユリウスは念のためドアの脇にあるスイッチを押し、明かりをつけて中を確かめることにする。そして、息を飲む。

「おい、マテーウス? どうしたんだ?」

 小さな裸電球に照らされて、そこにはズボンや下着を膝のあたりまで引き摺り下ろされた状態でマテーウスが転がっていた。名前を呼んだが返事はない。横向きに丸くなるようにして床に倒れているマテーウスに駆け寄り、ユリウスは痩せた体を助け起こそうとした。

「痛い……」

 マテーウスはがたがたと震えながら小さく悲鳴を上げた。薄暗いので気づかなかったが、異様な様子によくよく確かめると臀部にべっとりと血の混じった白いものが付着している。ユリウスは言葉を失い、とりあえずポケットのハンカチを出して汚れを綺麗に拭ってから下着とズボンを引き上げ身なりを整えてやった。そのままマテーウスが落ち着くまで待とうと思っていたが、次第に消灯時間も近づいてくる。

「とりあえず部屋に戻ったほうがいい」

 時計を気にしながらユリウスが言うと、マテーウスは答えの代わりに切羽詰まったような目を向けて来た。

「ユリウス、友達なら約束してくれ。このことは誰にも言わず黙っているって」

 ユリウスはすぐには首を縦に振れない。何しろ友人がひどい目に遭わされたのだ。ついさっき犯人を捕まえ損ねたのを後悔する程度には腹が立っている。

 ニコを探しにいくという目標のため、トラブルを起こさないよう変に目立たぬよう気をつけて過ごしているユリウスだが、我慢できることとできないことがある。この一年はおとなしく過ごしてきたのだから、一発殴るくらいでは大きな問題にはならないはずだと胸の奥で計算した。

「何度もこういうことをされているのか? なぜ逃げないんだ」

 尻がよっぽど痛むのか、マテーウスはまっすぐ歩けない。ユリウスは肩を貸してやった。

「数回だよ。嫌だけど、断ったら同性愛者だって言いふらすってあいつが。僕はなよなよしているからきっと皆が信じるって脅されて恐ろしくて。ここを追い出されたら僕は両親に合わせる顔がないし、大学進学だって台無しだ」

「ばかなこと言うな。……こんなことやってるあいつこそ、バレたら大変なことになるぞ」

 それでもマテーウスが食い下がるので、結局ユリウスは、今見たことは忘れてギュンターに復讐はしないという約束をさせられた。

 しかし、ユリウスに見られたことで焦ったのかギュンターは自ら「同性愛者であるマテーウスに誘いをかけられた」という噂をばらまいた。信じているのか面白がっているのかわからないが、少年たちの間に噂と中傷は瞬く間に広がり、数日後にマテーウスは指導教官に呼び出された。

 夏休みが終わってほんの一ヶ月も経たないうちにマテーウスは再び荷物をまとめることになった。普段から気が弱く心象が良いとはいえない少年の必死の抗弁は聞き入れられなかった。不祥事を嫌う幹部の判断ですぐに収容所送りとはならなかったが「不適切行為」を理由に退学を告げられたのだ。

 怒りに震えるユリウスに、最後マテーウスはあきらめたような顔をしてうっすらと笑った。

「いいんだ。気づいてはいたけれど、やっぱりここは僕に向いていなかったん。このままだと大学どころか卒業前に徴兵されてしまうかもしれないし、潮時だったのかもしれないよ」

 それが本音でないことは明らかだが、ユリウスにはうなずくことしかできなかった。

 しばらくは学内はマテーウスの噂で持ちきりだった。あれは濡れ衣らしい。いや、頑なに否定しなかったということは、後ろめたい事情があったに違いない。本人がいなくなったのをいいことに好き放題な言われようだった。だが、マテーウスの同性愛疑惑が真実だろうがそうでなかろうがユリウスには関係ないことだ。ただ確かなのは友人がひどい目に遭わされた上に一方的に罪をなすりつけられた、それだけだった。

 ユリウスは我慢できずにギュンターを殴って、一年ぶり二度目の懲罰室行きになった。

 前回はカスパーが一緒だったが、今回はひとりきり。そのせいか懲罰室はやたらと広く寒く感じた。起きていてもやることがないのでさっさと眠ってしまおうと毛布を被って横になって、うとうとしかかった頃に背中から何度か軽い力で蹴飛ばされた。

「おい、シュナイダー」

 ユリウスは眠りの淵から呼び起こされて不機嫌だ。しかし、顔を上げて自分を蹴った相手の顔を見ると、あわてて立ち上がり「ジーク・ハイル」と敬礼をする。そこに立っているのはリーゼンフェルト中尉だった。

 軍事訓練の総括をしているリーゼンフェルトは半年ほど前にナポラにやってきた。国防軍から親衛隊に引き抜かれた叩き上げで、武装親衛隊の部隊を率いて西部戦線で活躍したが、脚に傷を負いナポラに異動してきたのだという。制服に輝く騎士鉄十字章は極めて優れた戦果を挙げた者にしか与えられない名誉ある勲章で、生徒たちにとって彼は憧れの存在だった。

 軍事訓練の場で指導を受けることは何度もあったが、生徒にとって雲の上の存在である中尉がなぜこんなところにいるのだろう。ただの説教ならば直接の指導役がやってくるはずだ。ユリウスは訳がわからず、ただ緊張して直立していた。

「君の資料を見た。一年ぶりか? 定期的にけんかで問題を起こすようだな」

 特に怒りを感じるような口調ではないが、それだけにユリウスは体裁悪く感じた。もしかして退学を申し渡されるのだろうか、そんな不安すら湧き上がる。

「だって、あいつが無理やり乱暴をしていたのに、なんで一方的に被害者の側が排除されるんですか。公正さを欠いていると思ったから、俺は……」

 だが、リーゼンフェルトはそこでユリウスの言葉をさえぎる。

「今日は言い訳を聞きにきたわけではない。君をここから出してやりにきたわけでもない。……まあでもけんかはほどほどにしておけ。私は君を面白い奴だと思ってるが、ここでは悪目立しても何もいいことはない」

 とりあえず、何か特別に叱られたり処罰されたりするわけではなさそうだ。安堵すると途端に今しがたのリーゼンフェルトの言葉が気になりはじめる。「面白い奴」というのは一切心当たりのない評価だし、それは「優秀」「見るところがある」と形容と比べると数段劣っているように感じた。

「俺は面白くなんかないです」

 憮然とつぶやくユリウスを見てリーゼンフェルトは笑った。

「面白いさ、何を考えているかよくわからない。他の子どもたちはもっと単純で可愛い。君の同級生はほとんど全員が愛国と功名と女の子についてばかり考えている。しかしどうやら君は違うようだ。だから可愛げがないが、面白い」

 そして、質問を続ける。

「シュナイダー、おまえ卒業後はどうしたいんだ。親衛隊に入るつもりはあるのか?」

 来た、とユリウスは思った。リーゼンフェルトは権力者のひとりだから、希望を告げておけばいざという時にチャンスをもらえるかもしれない。

「俺は総督府に行きたいんです」

 リーゼンフェルトは唇の端を軽く持ち上げた。

「こういう質問には普通、何をしたいかを答えるものだがな。おまえにとって総督府には何がある?」

 聞き返されてしくじったと思った。「総督府に行きたい」という進路希望が奇妙であることは今まで友人たちにも何度も指摘されてきたことだ。なのにとっさのことで対応できなかった。例えば「フランク総督を尊敬していて彼の下で働いてみたい」などいくらでも言いようはあったのに、リーゼンフェルトは完全にユリウスの動機を怪しんでいる。

「……そ、総督領に親戚がいるので。できることならばその近くに」

「ふうん、その親戚はポーランド人なのか?」

 何か疑われているのだろうか? 執拗な質問に不安がないわけではないが、ユリウスはぐっと正面からリーゼンフェルトの目を見つめ力強く嘘をついた。

「ええ、ドイツ系のポーランド人です」

 リーゼンフェルトはそれ以上質問はせず「そうか。だったら面倒起こさず頑張るんだな」と声をかけると懲罰室を出ていった。

 再びひとりきりになった部屋の中で、ユリウスはまるで奇妙な夢を見た後のような気分でぼんやりと中尉の出て行った扉を眺めていた。

 結局その後もギュンターが処罰されることはなかったものの、誰かが何かを言いふくめでもしたのかすっかりおとなしくなったと評判だ。