52. 第3章|1942年・ベルリン

「さすがにきつかったな」

 カスパーが、糸の切れた操り人形のようにベッドに倒れこむ。

「死ぬかと思った。戦場で死ぬならともかく訓練で死ぬなんかありえないよ。いくら実践形式だと言ってもやりすぎだ」

 そう応じて、ラルフもベッドに身を横たえた。

 弱音を吐くことはプライドが許さなかったが、ユリウスも正直ヘトヘトだった。ベッドに座りそのまま仰向けに倒れ込んで目を閉じる。まぶたの裏は真っ白。苦しめられた雪景色が焼き付いてしまったかのようだった。

 ユリウスたちの学年は一週間の雪中軍事演習から戻ったところだ。真冬の高地で雪だらけの中の行軍や作戦遂行を二つのチームに分かれて行う訓練はナポラにやってきてもっとも過酷ともいえるものだった。雪中演習は今年初めて行われたもので、誰も口にはしないが、内心ではこの新しい訓練が対ソ連戦を念頭に置いていることに気づいている。

「でも、訓練じゃなくて、現場でああいうことやってるわけだよな。本物の軍人は」

 カスパーがぽつりとつぶやいた。

 昨年ソ連に攻め入ったドイツ軍は予想以上の厳しい反撃に遭い一進一退を繰り返しているとの噂だ。攻撃開はじ当初は電撃戦の勢いでドイツ軍の圧倒有利、モスクワ制圧も時間の問題だと思われていた。しかし敵の本丸まで後わずかというところで、例年より早い冬が邪魔に入った。極寒の中では進軍も補給もままならず、戦線は膠着していた。

「そういえば、ここでも卒業を待たずに軍に行く希望者を募るかもしれないって噂を聞いたぞ」

「じゃあ、俺たちもこのまま東部戦線に行かされるってこと?」

「バカ、あくまで希望者を募るかもって話だよ。ああ畜生、足の指がもげそうだ」

 カスパーとラルフの応酬に耳を傾けているユリウスの足も靴の中でひどく痛む。我慢できずに靴紐をほどき靴下を脱いだ。両足の指が真っ赤に腫れ上がっているのは重度のしもやけのせいだ。いくら軍用ブーツを履いていても雪の中の塹壕ざんごうで何日も寝起きしていれば無事ではいられない。

「うわ、ユリウスおまえの足もひどいな。湯で揉んできた方がいいんじゃないか?」

「うん……でも、まあ大丈夫だろ」

 明日からはまた普段どおりの授業や訓練がはじまるのだと思うと今は風呂場に行く体力すら惜しい。とにかく眠って体力を回復させなければ。ユリウスは痛む足指をできるだけ気にしないように、布団の中に潜り込んだ。

 いよいよユダヤ人の完全な排除がはじまったらしい、と耳にしたのは三月に入ってからだった。一月末にヴァンゼーで開かれた秘密会議で親衛隊のハイドリヒ大将が「ユダヤ人問題の最終的解決Die Endlösung der Judenfrage」を正式に宣言したという。

 ハイドリヒは旧チェコをドイツが併合したベーメン・メーレン保護領の統治者だが、それだけではなくナチ党のユダヤ人問題に対する責任者の立場にある。金髪碧眼の理想的なアーリア人であり頭が切れる「金髪の野獣」は、親衛隊の全国指導者でナポラ統括であるハインリヒ・ヒムラーの懐刀として知られていた。

「〈最終的解決〉って、どういう意味だ」

 不安に襲われたユリウスは思わず情報を持ってきたラルフの胸ぐらをつかんだ。一体奴ら――いや、今となっては「俺たち」というべきなのだろうか――はユダヤ人に、いや、ニコに何をする気なのだろう。ラルフは必死でユリウスの腕から逃れようと暴れながら、言う。

「知らないよ。だってヴァンゼーの会議に呼ばれたのは軍や省庁の幹部中の幹部だけだったって話なんだから。ここの教官たちだって、どこまで詳しい話を知ってるんだか……」

「でも、何らかの方法が示されたってことなんだろう?」

 いくらラルフをいたぶったところで得られるものはなさそうなのでユリウスは手を緩める。普段はできるだけ楽観的にニコの無事を祈り信じているが、こういった情報を耳にするたびにユリウスの心は焦り動揺する。

「最終的には国外追放するつもりらしいぜ。正真正銘の国外なのか、戦争で手に入れた新領土のことなのかはわからないが。ソ連が手に入るならば極東あたりちょうどいいんじゃないか?」

 見かねたカスパーがラルフに助け舟を出した。しかしユリウスの心は千々に乱れる。なぜなら、国外追放にしろ併合地のうち辺境への追放にしろ、ニコがクラクフからさらにどこか遠い場所へやられてしまうことには変わりがないからだ。

 ユリウスが今おとなしく学校生活を送っているのは、何もかも「ニコが生きてクラクフにいる」ことを前提にしている。黙って我慢していればいつかニコのいる街に行くことができると思っているからこそ数えきれない理不尽にも耐えている。しかしもしニコが他の場所にやられてしまうとすれば、ユリウスの計画は完全に狂ってしまう。冗談ではない。

 情報は錯綜していた。ユダヤ人をマダガスカルに送るという噂もあれば、とりあえずゲットーに押し込めたまま絶滅を待つという噂もある。強制収容所に送ってひたすら労働力として使うという話も聞くし、いっそ殺してしまった方が早いという過激な意見も耳にした。校内で囁かれる何が本当で、何が根拠のない噂で、何が個人の希望的観測なのか、何ひとつユリウスにはわからない。

 一度だけ我慢できず、リーゼンフェルト中尉の部屋を訪ねた。

「何か用かシュナイダー。この部屋に入れてやるのは一度だけだぞ。私も特定の生徒だけを優遇しているとは思われたくない」

 そう前置きをしてから、リーゼンフェルトはユリウスを部屋に招き入れた。

「最近の総督領の状況が知りたいんです。中尉なら何かご存知なのかもしれないと思ってここを訪ねてしまいました、申し訳ありません」

 ドアの横に直立したまま、ユリウスは深々と頭を下げた。

「構わない、顔を上げろ。今は時間外だ、こちらへ来てソファへ座れ」

「はい」

 リーゼンフェルトはまるで友人を迎えるような態度でユリウスに椅子を指し、それどころか禁止されている酒を勧めさえした。

「ウイスキーは飲むか?」

「飲みません。生徒は飲酒が禁止されていますから」

「真面目なんだな。いや、私が不真面目な教員なのか」

 そう言って面白そうに笑う。もしかしたら本気で酒を勧めたのではなく、どういった反応を示すか試されていただけなのかもしれない。

「以前言っていた親戚の話が気になるのか? 総督領内にいる民族ドイツ人の話ならば心配はないぞ。私の友人で総督府にいる男と先日電話で話したが、ユダヤ人は完璧にコントロールされていて領内の治安に問題はない」

「コントロールというのは、強制居住地区ゲットーのことですか?」

 今やドイツ領全土で、ユダヤ人が自由に生活していないことはユリウスも知っている。生きているユダヤ人にはゲットーか強制収容所でしかお目にかかれないとの話だ。

「ああ、クラクフのゲットーは高い壁で完全に隔離されているからとりわけ安全だ。暴動が起こる可能性はないから心配するな」

 ユリウスは違うのだと叫び出したいのを堪えた。自分が気にしているのはゲットーの外側ではなくなのだと。

「その……ゲットーっていうのは普通に生活できる場所なんですか」

 本心がにじみ出たユリウスの質問に、リーゼンフェルトは薄く笑った。

「〈普通〉の意味にもよるな。だが、多くのナチ党幹部はあそこがユダヤ人にふさわしい住環境だと太鼓判を押すだろう。いや、まだ甘いと考えている者も多いかもしれんな」

「それって、つまり」

 自分の声が震えるのがわかった。何しろユリウスたちはここで、ユダヤ人は劣等人種であると日々教え込まれているのだ。強欲で嘘つきで知能も劣る、滅ぼされて当然の人種なのだと。要するに「まともなナチ党員」であれば、ゲットーがどれだけ酷い場所であろうと、いやむしろ酷い場所であればあるほど「ユダヤ人にはふさわしい」と満足げに笑うのだ。

 動揺を隠せず、かと言って何と質問すれば怪しまれずに欲しい情報を得ることができるのかわからず唇を噛むユリウスにリーゼンフェルトが言った。

「衛生状況が劣悪で死人も多く出ているようだ。特に人口過密のせいでチフスが流行していると聞く。幸い今のところはゲットー内部だけに抑え込まれていて、外部に影響は出ていないようだが」

「チフス……ですか」

「だが心配するな」

 その言葉に、何か良い情報があるのかと期待したユリウスは顔を上げる。しかしそこでリーゼンフェルトから伝えられた内容は何とも複雑なものだった。

「党は、ゲットーの人口過密解消のためにユダヤ人を各地の強制収容所へ移送しはじめた」

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