53. 第3章|1943年・ベルリン

 ソ連との膠着する戦況が大きく変化したのは、一九四二年の冬のことだった。

 スターリングラードの制圧をほぼ成し遂げたと思われたところで、ソ連赤軍が大規模な反撃に出てドイツ軍をすっかり包囲してしまった。いくら強固な軍であっても、主要な補給経路を押さえられてしまえばなすすべもない。形勢は完全に逆転し、年が明けて間もなくドイツ部隊は投降した。

 一九四一年のバトル・オブ・ブリテンでの退却と、大量に捕虜を取られたスターリングラード攻防戦では、同じ敗北でもまったく意味が異なっている。失われた兵力は五万とか十万とか、正確な数字は耳に入って来ないが、ここで奪われた兵力がドイツ軍にとって小さなものではないことは確かだ。

 ヒトラー・ユーゲントの若者たちも徴兵されて戦地に送られることになるという話で周囲はもちきりだ。ユーゲントでも最近は多少の軍事教育がなされているとは聞くが、ただの子どもをかりだしたところで一体どれだけの戦力になるかは疑わしいとユリウスは思っている。

「くそ、先を越されたくないな」

 ユリウスのルームメイト二人は功名心も愛国心も強いので、名誉あるナポラの生徒である自分よりもユーゲントが先に戦場へ行くことに悔しさをあらわにした。

 だが、ナポラとて放置されているわけではない。学校では定期的に意向調査が行われ、高学年を中心に学校を離れて国防軍や武装親衛隊に転属される者も増えてきている。特にスターリングラードでの敗北後は軍属への希望者が増えていて、櫛の歯が欠けるようにぽろぽろと上級生や同級生が消えていくのがもはや日常の風景になっていた。

「次に意向調査が来たらどうする? ……でも卒業試験は受けておきたいよな。今は行かなくたって終戦後に大学に通いたくなるかもしれないし。これまでくそつまらない授業に耐えてきたんだからいまさらふいにするってのもな」

 カスパーは身の振り方に迷っているようだ。ナポラの卒業試験は大学入学資格試験アビトゥーアを兼ねているから中退はイコール大学を捨てることを意味する。国への貢献のために中退した場合であれば戦後に何らかの救済措置が設けられるだろうと噂されているが、かといって今の時点で確約されているわけではない。

「戦場で武勲を立てたら大学どころじゃなく出世できるぜ。それに、試験のために卒業までいたからって落ちることだってあるんだから。ああ、悩むなあ」

 暗に学業成績が良くないことを指摘され、カスパーは気分を害してラルフの脚を蹴飛ばす。ラルフはあわてて謝罪した。

 一方、二人とは別の理由でユリウスの心中は穏やかではない。クラクフのユダヤ人についての情報はほとんど入ってこない。全員がゲットーに居住することになったと聞いたときにはこれでニコが探しやすくなると喜んだものだが、昨年からは各地のゲットーから強制収容所への移送が盛んに行われているようになっている。

 一説にはドイツから追放するための準備としてひとまずすべてのユダヤ人を収容所に集めているという話だが、もしニコが移送の対象になりやがてドイツを去ることを強制されるのであれば、ユリウスに残された時間は少ない。総督府に行きクラクフのユダヤ人をしらみつぶしに当たろうという作戦も、そろそろ再考が必要なのかもしれない。

 翌週、夕食がはじまる前にカスパーの肩が叩かれた。

 ナポラの生徒は全員が食堂に集まって同時に食事をとる。そして、家族に戦死者が出た者への連絡もこのときに行われることになっている。

 家族の訃報というデリケートな内容を衆目の中で伝えることにユリウスは違和感を持っているが、戦死者は「国のために戦い散った誇るべき英雄」なので、その栄誉は他の生徒の前で伝えられるべきというのが教員側の考えだ。肩を叩いて戦死家族の名前を伝えられた生徒は「誇らしいことだ」と声をかけられ、ほとんどの場合ぐっと涙をかみ殺す。

 カスパーの五つ年上の兄は西部戦線に参戦した国防軍兵士で、レジスタンス兵との戦いで命を失ったのだという。呆然とする友人に、ユリウスはとてもではないが兄を誇れと声をかける気にはなれなかった。お調子者のラルフすらうつむいて気まずそうにスープの皿を眺めるだけで、真っ青な唇を噛みしめて宙をにらむカスパーに不謹慎な言葉を吐くようなことはしなかった。

「ユリウス、俺は学校を去ることにするよ。武装親衛隊に志願しようと思う」

 カスパーがユリウスに告げたのは、兄の訃報から三日後の夜だった。

「本気か?」

 ユリウスは耳を疑った。記憶が間違っていなければカスパーは兄と二人兄弟だ。兄弟で戦場に行くというのはこのご時世珍しいことではないが、長男を亡くしてすぐに次男を戦場に送り出すことをカスパーの両親はどう感じるだろう。

「ああ、兄さんが死んだと聞いて心が決まった。自分の国がこんな状況にあるのに、のどかに勉強だ訓練だと言ってる気にはなれないよ」

「でも、訓練じゃなくて本当の戦場なんだぞ。中尉みたいな武勲を挙げた人ですら回復不能な怪我を負ってここに来たんだ。親御さんにとってはおまえが残された唯一の子どもだろう。死んだら元も子もないとは思わないのか?」

 兄の死という衝撃的なニュースに動揺して、カスパーは極端な考えに走っているに違いない。ユリウスはそう思ってできるだけ理性的に、情にも訴えて友人を引き留めようとした。しかしカスパーの意志は固かった。ユリウスの言うことは百も承知の上で、それでも戦地に赴くことを選ぼうとしているのだった。

「おまえの言いたいことはわかってるよ、ユリウス。でも、正直ここから先は早いか遅いかの違いだけだと思っている。アメリカが欧州に戦力を集めれば総力戦になる。……どのみち俺たちは全員、大学なんかじゃなくて戦場に行くんだよ」

 強い言葉を前にユリウスは何も言えなくなかった。

 あれだけ戦場への熱い思いを語り合っていた相手であるラルフは、カスパーが学校を去る前の晩、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。そして、これまでカスパーが頼んでも脅しても決して渡さなかった一番気に入っているポルノ女優のグラビア写真を封筒に入れて、餞別にした。

 去り際に、マテーウスが退学した後ずっと空になっていたベッドを眺めカスパーはぽつりとつぶやいた。

「あのチビは早くにここを去って正解だったな。軟弱ですぐ死んじまいそうなああいう奴には、少しでも回ってくる順番が遅い方が良いに決まってる」

 その表情はもはや戦功に甘い夢を見る少年のものではない。死を見据えながらも家族や友人たちを守るため戦地に赴こうとする、悲壮な覚悟をたたえた男のものだった。

 四人部屋にラルフと二人きりになり、それからしばらくしてユリウスはリーゼンフェルト中尉に呼ばれた。

「シュナイダー、今日おまえを呼んだ理由だが」

 直立不動のユリウスにリーゼンフェルトは語りかける。

「いつだったか、総督府に行きたいと言っていたな?」

「はい」

 質問は単刀直入で、ユリウスも率直に答えた。

「その気持ちは今も変わっていないか?」

「もちろんです」

 リーゼンフェルトは机の上の書類を取りあげユリウスに示してみせる。書類の下の方にはハインリヒ・ヒムラーの署名が見える。書類のタイトルは――「内示」。

「昨日ヒムラー長官から内示を受けた。私はナポラを去る。そして、できれば新しい任地へ若い隊員を見繕ってきてくれという指令も受けている。私はおまえを買っているから、できれば連れて行きたいと考えているが……」

「行き先は、どこですか?」

 ユリウスの心臓が激しく打ちはじめる。これは大きなチャンスなのか、それとも長年の希望を打ち砕く残酷な命令なのか。リーゼンフェルトは顔を輝かせるユリウスにジェスチャーを交えて落ち着くように伝えた。その表情は少し呆れているようにも見えた。

「焦るな。上官に話の先をうながす奴がいるか」

「すみません」

 ユリウスはうなだれた。興奮しすぎて中尉を怒らせてしまえば、もしこれがいい話であったとしてもふいになってしまう可能性がある。用心深く振る舞わなければ。うなだれたユリウスにリーゼンフェルトは話の続きをはじめた。

「行き先はおまえの行きたがっていた総督府とはごく近い場所だ。ただし総督領内ではない。だから、それでも行きたいのかどうか聞いている」

「ごく近く……?」

 それは、ポーランドではポーランドでも総督領ではない場所ということだろうか。言われている意味が十分に飲み込めず黙りこむユリウスから軽く目をそらし、リーゼンフェルトは行き先を告げた。

「私の次の任地は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所だ」

 アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。ユリウスもその名前を聞いたことはある。

 昨年からユダヤ人の移送が本格化したこともあり、全国の収容所数は膨れあがりそれぞれの規模も大きくなっているが、アウシュヴィッツとビルケナウという複数の巨大収容所を同じ敷地に持つそこは、紛れもないドイツ領内最大の収容所として知られていた。

 場所は確か――クラクフ近郊。

 総督府のあるクラクフと収容所のあるアウシュヴィッツのちょうど中間地点あたりに、ポーランド総督府が支配する総督領とドイツ本国に編入された東部編入領との境界がある。

 ユリウスは悩んだ。総督府そのものに赴任するのと、位置的には近くとも東部編入領の、しかも収容所勤務では職務上の権限はまったく違っているだろう。理想的なプランはもちろん総督府に行き、上手くいけば職務を理由にユダヤ人名簿を参照してニコを探すことだ。だが数年前の幼い自分が考えた計画がいかに穴だらけで、しかもごく低い可能性に頼りきったものであるかについて今のユリウスはじゅうぶん理解していた。

 距離的には総督領からほんの近くにあるアウシュヴィッツ。休日にはクラクフに出向くことも可能だろう。そこでニコに関する何らかの手がかりを得ることができるかもしれない。何よりユダヤ人の収容所への移送が規模を増している今、ベルリンでただ手をこまねいているよりは少しでもニコのいる場所の近くに行けるならその方がましだ。

 しかし、ユリウスが「行きます」と答えるとなぜかリーゼンフェルトは返事を保留して奇妙な質問を投げかけてきた。

「ところでシュナイダー、おまえは収容所について何を知っている?」

「ええと、社会不適合者や劣等民族の矯正をはかるための施設です。労働を通じた矯正教育でドイツ人としてふさわしい人間になるよう導きます」

 それはまるで授業中に生徒を当てるような調子の質問だったから、ユリウスも用心深く自分の知る限りのことを正しく答えたつもりだった。しかしリーゼンフェルトは不満げに首を左右に振り、口調を強めた。

「今はそんな教科書どおりの文句を聞いているのではない。おまえは〈本当は〉何を知っているんだ?」

 質問の意味がわからない。だが、わからないなりに何かを答えるしかない。ユリウスは必死に言葉を絞り出す。

「……収容所では、被収容者を軍需工場や工事現場で働かせます。ユダヤ人は……ユダヤ人は、いずれ東方に追放する日のために集団で管理しています」

 それがユリウスの知る限りのすべてだった。そして、答えを聞いたリーゼンフェルトは小さくため息を吐いた。

「やはり止そう。おまえにあそこは向いていない」

 その言葉に目の前が真っ白になる。失敗した。中尉の口頭試問に自分は失格したのだ。

 ユリウスはその晩眠れなかった。ニコに会いに行くための大切な切符を落とした絶望は大きくなるばかりだ。カスパーのいうとおりに戦争が激しくなれば、やがて配属の希望など聞いてもらえなくなるだろう。ヨーロッパ全土どころかアフリカにまで戦線を広げるドイツ軍の中で運良くクラクフに行ける可能性がいったいどれだけあるのか。そして、再びニコと生きて会える可能性がいったいどれだけ――。

 ユリウスは翌朝早い時間にリーゼンフェルト中尉の部屋のドアを叩いた。失礼なことだとわかっている。下手をすればまた懲罰室行きかもしれない。それでもどうしても強い思いを訴えたかった。

「俺を連れて行ってください。昨日、中尉のテストに失敗したのはわかっています。能力が足りないと判断されたのだということも。でも俺はどうしても行きたいんです。正直収容所の任務について俺はよくわかっていません。でも、どれだけ大変でもやってみせますから」

 一気にまくし立て頭を下げた。リーゼンフェルトはしばらく黙って考え込んでいたが、低い声で「顔を上げろ」と告げてからユリウスの目を正面から見据えた。

「……あそこはおまえが思っているような場所ではない。本当にそれでもいいのか?」

「はい」

 ユリウスは迷わなかった。だって、これがニコを迎えに行くための、最初で最後のチャンスなのだから。