54. 第3章|1943年・クラクフ

「おい、近々また大きな移送があるらしいぞ」

「本当か? 規模はどのくらいになるんだ」

「わからない。ただ今までとは比べものにならないって話だ。評議会の関係から聞いたから多分ただの噂じゃないな」

 クラクフゲットーから強制収容所への大規模移送が近々行われるらしいという噂を工場で耳にしたとき、ニコはぼんやりとした頭で「またか」と思っただけだった。寒さで眠れない日々が続いている上に食事も極限まで切り詰めている。最近では頭の動きだけでなく感情まで鈍くなっているのを感じる。

「おい何をぼーっとしているんだ。ニコ、聞いてるか?」

「え? ああうん。移送があるって話だろ」

 肩を叩かれはっとする。だが続けて同僚が口にした言葉はひどく不穏なもので、ニコの意識を完全に覚醒させた。

「言いたくはないがニコ、おまえのところはそろそろやばいんじゃないか」

「え……?」

 率直な警告に不安が黒雲のように湧きあがった。

 クラクフゲットーでは前年のうちに三度の大規模な移送が行われていた。名目上は過密状態のゲットーの環境を改善するため一定人数を収容所に移すというものだが、誰もそんなことを信じてはいない。

 収容所がどのような場所なのかは誰も知らない、というのも一度移送されてしまったら最後、再び戻ってきた者はいないからだ。

 ひどい拷問や強制労働が行われているとか、いやゲットーよりは多少ましな場所らしいとか様々な噂が流れてはいるが、全般的に収容所に対する人々の印象はネガティブなものだった。中には移送直後に収容所の環境を褒め称える手紙を送ってくる者もいるが、不思議なことに手紙は最初の一通だけで、二通目が届いたという話はまず聞かない。それはますますもってゲットーに残されたユダヤ人たちを不安にさせた。

「母さん、近々大きな移送があるかもしれないって噂を聞いたんだけど」

 夜、レーナが寝静まった後で、そっと母親に切り出してみる。すると母は険しい顔でひとつ大きなため息を吐いた。母の勤務先でも同様の噂が流れているらしい。噂の規模が大きいということは、すなわち信憑性が高いということでもある。母はちらりと寝台に目をやり、レーナが完全に眠っていることを確かめてからニコに不安を打ち明けた。

「ニコ、今度こそわたしたちもリストに載ってしまうかもしれないわ。だってもう叔母さんはいないんだもの」

「うん」

 ニコは昼間に同僚から指摘されたのと同じことを母も考えていたのだと知り力なくうなずいた。

 ユダヤ人評議会はナチスの側からゲットー内で自治を行うよう要請して作らせた機関で、要職を占めるのは主にクラクフのユダヤ人コミュニティの有力者だ。自治と言えば聞こえはいいが、彼らに与えられた裁量は非常に限定的で、はっきり言ってしまえば、親衛隊が直接ゲットー住民に接触することを避けるための緩衝材に過ぎない。なぜあえて緩衝材を置くのかといえば、直接的な接触の機会が少なければ少ないほど反乱の機会もまた少なくなるからだ。

 例えば配給の方法、収容所への移送対象者、そういったものを決めるのは評議会だ。食料の総量や移送者数自体は親衛隊から厳しく割り当てられているにしても、そこから先を決めるのが評議会でありさえすれば、それはユダヤ人が自ら決めたことであり自己責任の範疇とされてしまう。卑怯で、賢いやり方だ。そして、ユダヤ人評議会のメンバーも、限られた食料を振り分け決められた人間を収容所に送る必要に迫られれば、彼らなりに優先順位をつけざるを得ない。

 親衛隊が強制収容所への移送とその規模を決定すると、内容はゲットーに暮らすユダヤ人の自治機関であるユダヤ人評議会に伝えられる。そして、具体的に誰が収容所行きになるかについて移送者のリストを作成するのはユダヤ人評議会の仕事だ。これまでのところニコは、評議会の幹部やその身内、ゲットー内の治安を自主的に管理するユダヤ人警察といったいわゆる特権階級の者が移送リストに載ったという話を聞いたことはない。

 特権というのは当事者にとっては失うまで自覚しづらいものなのかもしれない。大叔母が発疹チフスで死んだ直後にニコの一家への食料割り当ては目に見えて減った。それは老女ひとりがいなくなった分というだけではとても納得できない量の減少だった。

「何かの間違いかもしれない。担当者にもう一度聞いてみる」

 三人が生きのびるには到底足りない食料を前にそう言ったニコに向かって母は悲しそうに首を振った。

「ニコ、違うの。今までが特別だったのよ」

「え?」

「叔母さんがいたから配給もずいぶん優遇してもらえていたの。でもこれからはもう同じようにはいかないのよ。母さんからもずいぶんお願いはしてみたんだけど、どうしようもないことなんだって」

 母の話を聞いてニコは初めて、自分たちがそれまで優遇される側にいたことを知った。

 ポーランドがドイツに占領されて間もなくニコの父とともに親衛隊に連れ去られてしまった大叔父は、かつては弁護士として現地のユダヤ人社会に貢献し尊敬されていた。その妻である大叔母がいたからこそクラクフゲットーのユダヤ人評議会はニコたち一家の住居や配給に便宜を図ってくれていたというのだ。

 確かに、かつての暮らしと比べればひどい住居ではあるが、バラックとも呼べない貧相な建物に複数の家族でプライバシーもなく暮らしている人も多いことを考えれば、狭くても鍵のかかる場所に家族だけで暮らせているニコの一家はまだ恵まれていた。

 しかし大叔母はもういない。残されたのはクラクフ出身でないどころか、ユダヤ教徒ですらないよそ者で異教徒の一家だけだ。ニコたち三人のゲットー内での立ち位置は大叔母の死により一気に最下層まで滑り落ちたのだった。それはつまり移送者リストを作成する際にも評議会側が「 最もリストに載せやすい」グループに入ったことを意味している。

「移送は来月だっていう話よ。せめて三人が同じ場所に行ければいいけど、ばらばらの行き先に送られることもあるっていうし、心配だわ」

 母はそう言って涙ぐんだ。

 若々しく朗らかで美しかったニコの母は、いつの間にかひどく疲れ年老いてしまったように見える。いつもつやつやと輝いていた栗色の髪にはたくさんの白髪が混じり、工場の重労働で腰を痛めたせいで背筋を伸ばして歩くことすらままならない。それでも気丈に仕事に出かけていくが、心身ともに限界が近いことは見た目に明らかだった。

 ばらばらに収容所に送られるかもしれない、その発想はニコを焦らせた。兄を失い父を失い、母と妹を守れるのは自分しかいないのに引き離されてはどうすることもできない。もうこれ以上家族を失うのは耐えられない。

「考えたってどうにもならないことよ。とにかくここでは労働力にならないと見なされるのが一番危険なんだから、夜更かししている場合じゃないわ。寝ましょう」

「うん」

 母の言葉にうなずいてベッドに入ったものの、なかなか眠りにつくことはできない。そして、ニコの頭に浮かんだのはひとりの男の顔と声だった。

「その気になったら俺のところへ来い。差し出すものを差し出せば、話を聞いてやらなくもない」

 耳元で囁かれた言葉を思い出す。触れられた場所に鳥肌が立ち、粘り気のある声にぞわっと背筋が冷たくなった。決してあの男を頼ることなどないだろうと首を横に振り続けてきたが、今はその声がやたら生々しく頭に蘇る。

 イツハクという名の彼は父親が評議会メンバーに名を連ねており、本人はユダヤ人警察の一員だ。偶然酔っ払った彼から夜道で品のない言葉で誘われ、しかもそれは一度だけではなかった。

 あれからしばらくして父親の使いとやらでニコの大叔母を訪れた彼と再会し、たびたび顔を会わせる関係になった。人前では体裁を気にしておかしなそぶりを見せないイツハクだが、その後もニコを物陰に呼び出しては、追加の配給や嗜好品の手配といった便宜と引き換えに肉体関係を求めてくるのだった。

 もちろんユダヤ教は、ニコの信じるカトリック同様に同性愛を禁じている。しかしどこの世界にもルールから逸脱する人間は多少なりともいるものだ。誘いを受けるたび、穏便に断ることにニコは心を砕いた。

「何も全部させろと言ってるわけじゃない。なんならちょっと手を貸してくれるだけでも構わないんだ。どうも自分の手だけじゃ寂しくてさ」

「……困ります、そういうのは僕は」

 それ以上深追いはされないが、しつこい誘いを受けたニコは不安になった。遊びの延長だったとはいえ、かつてニコは幼馴染のユリウスと互いの体に触れあったことがある。ハンブルクを去る直前にはその現場を兄のレオに見られひどく叱られた。

 結局レオは「今回だけは見逃す」といい、ユリウスとの行為について両親に言いつけることはしなかった。そのレオはゲシュタポに連れ去られ、今となってはニコの過去について知る者がいるはずもないのに、いざイツハクのような男に言い寄られれば、自分のどこかから同性を求めるオーラのようなものが出ているのではないかと不安になった。

 ――今あの男のところに行けば、リスト入りを免れることができるんだろうか。ぼんやりと考える。イツハク本人が移送者リストづくりに手心を加えることができるのならば、もしかして。

 目を閉じて考える。かつて兄のレオは家族を守るために刃向かうことなくゲシュタポに連行されていった。父だって同じだ。家族を巻き込まないよう自分がまず犠牲になった。兄に救われ父に救われ、だったら次はニコの番なのではないか。しかも、父と兄の場合と違って、イツハクと取引をしたところでニコは命を取られるわけではない。

 何をさせられるんだろう。考えると得体の知れない不安にぎゅっと心臓が締めつけられる。そろそろ十八歳になろうとするニコには性的な知識は決して十分とは言えない。普通ならそういうことに興味関心を持つ思春期のほとんどを、生きるか死ぬかの状況で過ごしてきた。同世代の女の子との接点もほとんどなかった。

「ユリウス……」

 久々にその名を口の中でつぶやいてみた。

 もう離れ離れになってから四年も経つ。触れられたときのこと、戸惑いや恥ずかしさもはっきりと思い出せない。そもそも自分がどういう気持ちで行為を受け入れていたのかについては、当時からはっきりとはわかっていなかった。

 ユリウスの「好きだ」とつぶやきを耳にしたとき嫌な気持ちにはならなかった。むしろ嬉しかったからニコもうなずいた。でも、ユリウスがどういう意味で「好きだ」と言ったのか、そして自分がどういう意味合いでうなずいたのか、振り返っても答えは出ない。

 自分は彼のことを恋人を思うような気持ちで思っていたのか。それともあれはただ行き過ぎた友情の形だったのか。ユリウスに触れられること自体は決して嫌ではなかった。

 ユリウスに対してしたのと同じように、自分はイツハクへ体を差し出すことができるだろうか。想像すると恐怖と嫌悪に背中が震え、ニコは毛布の中で丸くなってぎゅっと目を閉じた。

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