55. 第3章|1943年・クラクフ

 夜明けまで眠れず過ごしたが他に名案は浮かばず、ニコはイツハクを訪ねることを決めた。

 ユリウスとの行為を宗教的にも社会的にも許されないことだと怒った兄は、今ニコがやろうとしていることを知ったらなんと言うだろうか。母と妹を守るためであれば、ひどくは叱られないだろうと自分を慰めた。

「遅番を替わるから、今日は帰りが遅くなると思う」

 朝、出かける前に母とレーナに告げると二人は心配そうな顔でニコを見た。特にレーナは玄関先までついてきてニコの袖を引っ張る。

「お兄ちゃん働きすぎなんじゃないの? 顔色が悪い」

「気のせいだよ、大丈夫」

 レーナの柔らかい髪を撫で精一杯の笑顔を見せる。から元気であることはあまりに明白だが、それでも妹の健気な姿を見ればどんなことをしてでも守ってやらねばという気持ちが強くなる。

 その日、仕事を終えてからニコはイツハクの家を訪ねた。評議会メンバーの多く住むブロックにあるそれはゲットー内の一般的な家屋と比べれば格段にまともな住居で、応対したイツハクの母親も血色が良い。開いたドアからは夕食のいい匂いが漂ってきて反射的にニコの胃はぎゅっと収縮し痛みを感じた。

 イツハクに会いに来たのだと告げると、まだ帰宅していないのだと告げられる。

「息子に何か用かしら? もし生活に対する要望ならば夫や息子に直接言うのではなく、評議会やユダヤ人警察の窓口を通してもらわないと困るんだけど」

「……いや、あの。はい」

 迷惑そうな口ぶりにニコはたじろぐ。評議会員の家族としていろいろな人から苦情や要望を寄せられることに彼女は疲れ切っているのだろう。特に今みたいに大量移送の噂が流れる時期ならば、ニコと同じようなことを考えここを訪れる人間が他にもいたっておかしくはない。結局ニコは家の中に入れてもらうことすらできず、暗くなり寒さの増す野外でイツハクの帰りを待った。

 半時間ほど経っただろうか、待ち望んだ人影が現れた。いや、待ち望む気持ちの反面でニコはイツハクが戻ってこなければいいと思っていた。戻ってこなかったなら、会えなかったならば、彼に何の話ができなかったとしても仕方のないことだ。でも――それでは母もレーナも救えない。

「あの」

 勇気を出して声をかけるとイツハクが振り向いた。帽子からのぞく顔は闇の中でもわかる程度に赤らんでいる。また酒を飲んでいるのだろうか。闇の中で目を凝らし数歩近付いてから彼はようやくそこにいるのがニコであることを認めたようだった。

「何だ。……ああ、ニコか。どうした、こんなところで」

 ニコの住む部屋はこことはまったく異なるエリアにあるし、ニコが自分から彼を訪れたことなどこれまで一度としてない。イツハクは奇妙なものを見るような目でニコの頭から足先まで眺め回した。心臓が激しく打ち呼吸が苦しくなる。何をどう切り出せばいいのかわからずニコは言葉に詰まった。

「あ、あの……」

「どうした、寒くて口が回らないのか。少し飲むか?」

 イツハクはポケットから出したスキットルのキャップを外しニコに向けて差し出した。質の悪いアルコールの匂いがぷんと鼻を刺激する。ほとんど酒を飲んだことがないニコにとってそれは毒のようにしか思えず首を左右に振って断った。

「結構です。あの、僕はあなたに話……いや、相談があって」

 断られて行き場をなくしたボトルを自分の口元に持っていき、イツハクは一口酒を煽る。そしてニコが切り出した言葉の意味を少しの間考えているようだった。

 返事を待つうちにニコはだんだん不安になってくる。最後にイツハクの軽口をあしらってからはもう半年近く経っていた。その間に彼の状況や関心も変わっているかもしれない。いまさら古い申し出を持ち出してやってくることは、もしかしたらひどく場違いで無礼なことなのかもしれない。

「以前、困ったことがあれば相談に来ていいと言ってくれたから。でも、もし気が変わっているなら……」

 一歩、二歩と後ずさる。これ以上耐えきれず、きびすを返して走りだそうかというところでイツハクが手を出し、ニコの腕をつかんだ。

「困ったことがあるのか?」

「……ええ」

 うなずきながら、ニコはじっと自分の顔に注がれる視線から逃げるように下を向く。背の高いイツハクが見下ろすようにニコを値踏みしている。

 やっぱりあんな言葉は冗談で出まかせだったに違いない。いくら彼が同性愛者で相手に飢えているにしたって、こんな薄汚れた痩せっぽちよりましな相手はいくらだって探せるだろう。からかいを真に受けてここまできたことが心底恥ずかしくなり、震えるほどの寒さにも関わらず頰が熱くなるのを感じた。

 だが、イツハクはいたたまれない気持ちでいるニコの腕を不意にぐいとつかんだ。

「話を聞くのは家じゃない方がいいな。行こう」

 イツハクはそう言ってニコの腕をつかんだまま歩きはじめた。五分ほど歩いた先でバラックの鍵を開けるとイツハクはニコに入るように言った。灯りをつけても薄暗い部屋には人の気配がなく、古ぼけたテーブルと古ぼけたソファが置いてあるだけだ。不安できょろきょろと周囲を見回すニコを座らせると、イツハクも隣に並んで腰掛けた。

「ユダヤ人警察の集会所に使っている部屋だ。この時間には誰も来ない」

 そう言ってポケットから取り出したタバコに火をつける。アルコールとタバコの入り混じった強い匂いに、ただでさえ疲労と睡眠不足でふらふらのニコは気分が悪くなるがぐっと我慢した。

「で、何だ話って。おおかた噂になってる移送の件か」

「はい」

「自分と家族をリストから除外してくれって?」

「……はい」

 用件をあっさり当てられ、ニコは気まずい思いで自分の膝に目を落とす。やはりすでに同じような依頼をあちこちから受けているのだろうか。

「やっぱり移送の噂は本当なんですか」

「ああ、三月の初めには最大規模の移送があるって話だ。普通に考えればおまえの家族は対象になるだろう」

 もしここでイツハクが移送の噂自体を否定してくれたらどれほど幸せだっただろう。しかし彼はあっさりと噂を肯定した。しかも順当にいけばニコの一家が揃って収容所送りになることまでも。

「どうにかしてリストから外れることは……」

 膝の上で握りしめた拳が震えているのは寒さのためだけではない。ニコは自分がとんでもないことを口にしようとしていることをわかっている。しかしこれは家族のためなのだ。

「あの、僕にできることなら何でも……何でもしますから」

 切羽詰まった気持ちがあふれだし、ニコはとうとう顔を上げてイツハクを見た。タバコをくゆらせながら思案している風の男に、必死で頼む。

「全員が難しければ母と妹だけでもいいんです。僕は収容所に行くことになっても構わないから、せめて二人はどうにか。お願いします」

「二人か。しかしお袋さんはともかく、労働力にもならない妹は理屈をつけるのが難しいだろうな」

 そう言いながらイツハクは右腕を伸ばし、指先をニコの襟に差し入れるとつうっと首筋をなぞった。ぞくりと寒気にも似た感覚が背筋を走る。やはりイツハクはかつてニコを誘ったことを忘れていないし、今日ニコがどういう覚悟を持ってやってきたのかも理解している。

「食い物や酒の話ならともかく、移送者リストの件は俺に権限があるわけじゃないから約束はできない。できるのは親父に話してみることくらいだ。それでもいいのか」

 耳元に近づけられた唇からささやかれた言葉は、あまりに心許ないものだった。

 ――確約はされない。ただ、ニコ自身はもちろんその言葉を口にするイツハクも今の状態でニコがすがることのできる希望が他に何もないことを理解している。むしろここで安請け合いしないだけでも、イツハクに誠意を感じてしまうくらいだ。

「……それでも構いません。ほんのわずかでも母と妹を助けられる可能性があるなら」

 ニコはそう言ってぐっと唇を噛んだ。イツハクはニコのうなじを撫でていた指先をそのままスライドさせて、固く噛み締められた唇に触れる。

「何ができる? 経験はあるのか?」

「け、経験って……」

「男と尻でやったことがあるのかってことだよ」

「ありません、そんなの」

 ニコはあわてて否定する。男色行為で尻を使うこと自体は、工場の休憩時間に年長の労働者たちが交わすわい談の中で耳にしたことがあったが、まさか経験を聞かれるなどとは思ってもみなかった。

 男の視線が改めてニコの貧相な体を行き来する。一体何を求められるのか、死刑台に上げられたような気持ちでニコは次に与えられる言葉を待った。