56. 第3章|1943年・クラクフ

 イツハクは指先でニコの唇をこじ開けると、戯れるように差し込んだ長く節くれだった指で口内を犯しはじめた。

「まあこんなクソ寒い場所で未経験者の狭い尻相手に格闘なんかしたら、こっちのあそこがもげちまいそうだな。俺は残念だが、ニコ、おまえは運がいいよ」

「ん……」

 口に手を入れられたままでは言葉を発することができず、ニコは呻き声で返事をする。とりあえず尻を使った行為が回避されたらしいことには内心ホッとした。しばらくの間グリグリと口の中をいじり倒していた指が突然ぐっと喉奥に突き入れられ、ニコは激しい嘔吐感にえづき思わずイツハクの手に歯を立てた。

「……っ」

「おい、噛むなよ」

 イツハクがあわてたようにニコの口から指を引き抜くと、ニコは身を屈めてげほげほと激しく咳き込んだ。別に傷つけるつもりはなかった。ただ、突然喉を押されたから驚いたのだ。

「ご、ごめんなさ……」

「ニコ、おまえ何にもできないんだな」

 その言葉は明らかな失望を含んでいてニコを動揺させる。自分は、このわずかなチャンスすら活かせない役立たずなのだろうか――悔しくて情けなくて涙が滲みそうになる。

「今のは急だったから、驚いて。ごめんなさい、何だってやります」

 呆れたような視線に晒されてニコは焦った。ここでイツハクに見捨てられてしまってはすべての希望が完全に潰えてしまう。つかみかからんばかりの勢いで訴えると、イツハクはニコの唾液で濡れた指をペロリと舐めた。湧きあがる不快感も追い詰められた思いの前にはあっけなく消える。

 イツハクはニコの手をとり無言で自分の股間に導いた。手を貸すだけでもいい、と言われた記憶が蘇る。いくら奥手なニコだって今自分が何を求められているのかはわかった。

 柔らかいそこは、そろそろと撫でているとみるみる硬く大きくなりズボンの布地を押し上げた。もう長いこと性的興奮とも勃起とも無縁の日々を送っていたニコにとって、それはまるで未知の生き物か何かのように思えた。

「ファスナーを開けて、取り出せ」

「はい」

 大丈夫、大丈夫。前にもこれならやったことがある。ユリウスに触れたあのときと一緒だ。ニコは自分にそう言い聞かせながら震える指でファスナーを開ける。すっかり硬くなったイツハクの陰茎はほとんどニコの手伝いも必要とせず、勢いよく飛び出してきた。

「……っ」

 赤黒くそそり立つペニスに、ニコは一瞬触れるのを躊躇した。正直それを醜悪で気持ち悪いと思った。いつか見たユリウスの幼い勃起より遥かに大きく硬くグロテスクな形をしている。

 これは全然違う、ユリウスとは全然違う。わかっていたことではあるが、いざとなると怯んでしまうニコをイツハクは焦れたように促した。

「どうした。触れよ。自分でやるときと同じように擦るだけでいいから」

「は、はい」

 しかし自慰行為すら長らく縁のないニコの手の動きはひたすら不器用で、必死に茎や先端を撫でさすってはみるもののイツハクは満足のいく快感が得られないようだった。じき我慢できずニコの頭を手荒くつかんでくる。

「ダメだ。こんなんじゃ一晩やってもいけない」

 そう言って男はニコを床に座らせると、指で口をこじ開けそこにペニスの切っ先を差し入れた。

 ――嘘、嘘、嘘。

 口の中に大きなものが侵入してくる。苦いようなしょっぱいような生ぐさいような味が広がるが、これを噛んだり吐いたりすれば母とレーナの希望が消える。ニコは必死で耐えた。

「歯は立てるな。口全体を使って、前後して、そうだ。そう……」

「ん、んんっ……」

 イツハクはがっしりとニコの頭をつかんだ上で、口を使った愛撫の方法を指示した。言われるがままに唇を使い、舌を使い、ニコは必死に奉仕した。口の端からはみっともなく唾液が垂れ、息苦しさで両目からは涙が流れた。

 最後、イツハクはニコの口の中に吐精した。ペニスを抜かれた後、青臭く苦い液体をどうしたらいいかわからずうろたえるニコは「吐くな」と一言告げられ、毒を飲むような気持ちで口の中のものを飲みこんだ。

 帰り道、耐えきれず道端で嘔吐した。顔を洗い口をゆすぎ、それでも自分がひどい顔をしていることはわかっていたので部屋に入ってすでに母とレーナが眠っているのを確認してほっとした。

 ベッドの脇にぺたりと座り込んで、安らかな顔で寝息を立てる妹の顔をしばらく眺めていた。レーナ、可愛いレーナ、愛しいレーナ。大切な妹を守るためならなんだってできる。そう思いながらもなぜだか涙が止まらなかった。

 翌月、三月十三日と十四日の二日間にわたってクラクフゲットーから収容所への大規模移送が行われた。

「荷物をまとめろ。最低限のものだけだ。三時には広場で点呼を取る」

 冷酷に告げられた瞬間、ニコの目の前は真っ暗になった。確かにイツハクは「確約はできない」とは言った。しかし見返りを差し出した以上ニコは心のどこかで期待していた。自分たち一家は、少なくとも母親とレーナだけは移送を免れるのだと信じていた。

 しかも事態は最悪の想定よりさらに悪く、ニコは近隣のプワシュフ収容所、母とレーナは六十キロほど離れた場所にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を行き先に指定された。

「嫌よ、お兄ちゃんと離ればなれなんて」

 レーナは泣き叫びニコにすがりついた。レオだって、父だって、一度離れた家族とは二度と会えないことを妹はすでに学んでいた。ニコがぎゅっとレーナを抱き返すと、その二人を丸ごと包み込むように抱きしめた母が嗚咽を漏らした。

 いざ集合場所についたところで、集まった人々の点呼を行なっているイツハクを見つけてニコは詰め寄った。

「イツハク、話が違うじゃないか!」

「落ち着けニコ。ここで暴れたら即射殺だぞ」

 ささやかれ固めた拳を下ろすが悔しさで震えが止まらない。信じていたのに。あんなことまでしたのに。なのに、どうして……。するとイツハクはなだめるようにニコの背中をポンポンと叩いて、周囲をよく見るように言った。

「この人の数を見ろ。ニコ――今回はリストの除外者はいないんだ」

「どういうこと?」

「クラクフゲットーは、今回の移送を持って解体される」

 ゲットー解体。それはゲットーに暮らすユダヤ人全員が収容所に送られることを意味していた。いくらリスト除外を画策したところで、なんの意味もなかったというのだ。

 呆然とするニコにイツハクは、評議会やユダヤ人警察のメンバー以外は全て今回の移送の対象でありニコの一家に対してしてやれることは何もなかったのだと謝った。

「ゲットー解体処理のためにしばらくここに残されるが、俺たちユダヤ人警察も評議会も、すぐに後を追うことになる。そういうことだよ」

 目の前が真っ暗になり倒れそうになるニコの肩をイツハクは支え、立たせる。

「おいニコ、しっかりしろ。ここから先は弱っている素振りを見せたらそれだけで死ぬ。抵抗しても死ぬ。わかるな」

 ニコは力なくゆるゆると首を振り、イツハクの手を振り払おうとした。

「あなたの言葉を、僕はもう信じられない」

「悪かったよ。あのときは何も知らなかったから期待をさせた。こんなことになるとは思わず軽い気持ちで……」

 その声は真剣で、嘘をついているようには感じられなかった。しかし、今のニコにはイツハクが嘘つきであろうがあるまいが、どうでもいいことだった。でも――彼がニコに対して良心の呵責を感じているのであれば、まだほんの少しだけ利用価値があるかもしれない。

 広場の人々は二つに分かれて点呼を受けている。人数が少なくて若い男が多い方がプワシュフ行きのグループ。人数がやや多くて、女子どもや年寄りが多い方がアウシュヴィッツ=ビルケナウ行きのグループだ。

 ニコは遠巻きに自分とイツハクのやり取りを心配そうに眺める母とレーナにちらりと目をやると、視線を目の前の男に戻しささやいた。

「あなたが嘘つきじゃないと言うなら、証拠を見せて」

「証拠? そんなもの……」

 ニコは、イツハクが点呼に使っていたリストをそっと指し示す。

「これだけ人がいるんだから、ひとりくらい手違いが起きたって不思議はない。僕は何としてでも母と妹と同じ場所に行きたいんだ。僕の名前をアウシュヴィッツ行きのリストに載せ替えてください」