57. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

 きんと冷えた空気が澄み渡る冬晴れの日に、ユリウスは長いこと熱望した旧ポーランドの地に足を踏み入れた。

 後生大事にしているニコからの真っ白なハガキに押された消印の地クラクフとはいかないが、そこからはほんの六十キロほどしか離れていないアウシュヴィッツへ。武装親衛隊のジープが荒れた道を走り続ける、普通なら退屈で不快であるはずの時間すらユリウスにとっては喜びだった。

 道端に打ち倒され朽ちかかったポーランド語の標識が見える。旧ポーランドの多くの都市に今では新しいドイツ語名が与えられており、これから向かうアウシュヴィッツも元々はオシフィエンチムという場所だったのだという。

「シュナイダー准尉は、つい最近までベルリンにいらしたのですか?」

「ええ、ベルリンのナポラに。まだ卒業はしていませんが、リーゼンフェルト中……大尉からお声がけいただいて入隊を決意しました」

「准尉、私にそんな丁寧な言葉遣いは無用ですよ」

 迎えの運転手もユリウスとそう年齢の変わらない若い男で、ユーゲント上がりなのだと言った。親衛隊員としては男の方が先輩であるものの、ナポラ出身で入隊と同時に准尉の肩書きを与えられたユリウスの方が階級としては上になる。

 ハンドルを握る彼の顔にはナポラの同級生たちに色濃く残っていたようなあどけなさは感じられない。入隊してしまえば環境心境ともに学生とは大きく違ってしまうのだろうと思いながら、ユリウスはその横顔を眺めた。

「リーゼンフェルト大尉は管理調達部門である幕僚ばくりょう部を統括しておられるから、おそらくあなたもそちらに配属されるかと。もしかしたら事務方なんて退屈だと思われるかもしれませんが」

「いや、気にしない」

 男の言葉に甘えてユリウスは言葉使いをくだけたものにする。内心では自分に看守や警備の仕事が与えられた場合に上手くやれるか不安に思っていた。事務方に配置されるという話が本当ならば、ユリウスにとっては大歓迎だ。

「そうですね、収容所にはいろいろな仕事がありますから……。私も事務方は現場管理に比べるとよっぽど良い仕事だと思います。とはいえ状況に応じて担当外の仕事もやらされることがあるでしょうから、そのときは」

 妙に歯切れの悪い男の話を聞き流す。

 同じ武装親衛隊への新規所属者でも前線に向かう者には数ヶ月の訓練期間が与えられるが、ユリウスのようないわゆる内勤者にはほとんど何の事前訓練も行われていない。健康診断や入隊審査を終えるとナポラを出て、辞令をもらい、武装親衛隊員としての心構えについての簡単なオリエンテーションを受けただけでここに送られてきた。

 以前のユリウスと異なるのは親衛隊の制服と階級章、そして左脇に入れられた血液型の刺青。これは戦場などで負傷した際に速やかに輸血できるようすべての親衛隊員に入れられているのだという。真新しい刺青の跡はまだ少し痛むし「准尉」と呼ばれることに慣れるにもしばらく時間がかかりそうだ。

「准尉はアウシュヴィッツについてどの程度の話を聞いていますか?」

「収容所についての一般的な話は聞いているつもりだが、個別の話は現場に着いてからだと言われている」

 正確には、誰もが語りたがらないような不穏な空気を感じてもいた。犯罪者、社会的逸脱者、そして劣等民族であふれかえる収容所。その中でも最大規模を誇るアウシュヴィッツに配属されると聞くと誰もが言葉少なに「頑張れよ」と言うだけだった。ナポラの同室者のラルフなど、ベルリンの本部や華々しい武勲が挙げられるかもしれない前線と違い地味な所属先を受け入れたユリウスを止めようとしたくらいだ。

 しかし、そもそも収容所などという場所が明るいはずがないのだ。厳しい統制や規則を破った者への懲罰など、楽しくない仕事が山積みであることは想像できる。それでもユリウスがここに来ることを望んだのは、それ以上の目的があるからに過ぎない。

「ここでの仕事にあまり驚かれなければいいのですが。まあ、皆すぐに慣れますが」

 運転手はしつこく奥歯に物がはさまったような物言いを続けた。言いたいことがあるならば言え、言いたくないならほのめかすな、という気持ちにもなるが、問い詰めるのも面倒でユリウスは黙ったまま窓の外を眺めていた。

 やがて「もう着きます」と男が言い、収容所の門が見えてくる。ゲートの上部はよく見ると金属が細工され何やら文句が書かれている。収容所名かと思い背景に馴染んだ文字に目をこらす。〈働けば自由になるArbeit macht frei〉――これが収容所のスローガンなのだろうか。

 ここの被収容者たちのうち働ける者は皆、近隣の道路工事や鉄道工事、また工場などでの労働を義務づけられているのだというのは事前に得た数少ない知識のうちひとつだ。実際、道中多くの工場やプラントを見かけ、中には名だたる大企業のものもあった。あれだけの工場に人夫を派遣するのであれば確かに相当な人数が必要だろうし、だとすれば収容所の規模が巨大になるのも当然だ。

 働けば自由になる、というのはここに連れてこられた被収容者にとっては夢のある文句だろう。実際に子どもの頃のユリウスが考えていた収容所とは、労働奉仕や思想教育を経て国の言うところの「真人間」になれば出てくることのできる、そんな場所だった。

 しかし今では収容所の主な目的が変質していることはわかっている。国は不要な人間をここに押しこめて、死ぬのを待つか、生き残った分はそのうち極東の地へ送り込もうとしているのだ。彼らが望む形で自由になることは限りなく難しい。

「ここはアウシュヴィッツ第一収容所。大きなものとしては近くにビルケナウ……第二収容所があり、さらに現在モノヴィッツ村にも新たな施設を作っているところです。そちらについては追々案内があるかと。今日はまずこちらの管理棟にご案内するよう言われています」

 運転手は車を停め、トランクからユリウスの荷物を降ろした。

 車を降りた瞬間、奇妙なにおいが鼻をついた。どこから漂ってくるのかわからない、これまで経験したことのないタイプの異臭にユリウスは顔をしかめて周囲を見回す。それは何かが燃えるようなにおいや何かが腐ったようなにおい、そして動物の排泄物のにおいが入り混じったような――とにかく不快だった。

 少し離れた場所にある煙突から細い煙が上がっているのが見えたが、異臭の原因がそれなのかはわからない。収容棟の衛生状態はおそらく良くないだろうし、化学プラントなども多い場所柄、妙なにおいがするのは仕方のないことなのだろうか。ユリウスはハンカチで鼻を覆いたかったが運転手が平然としているのを見て我慢した。

 気をそらすため少し遠くまで目をやると、敷地内の有刺鉄線に囲まれた区画に同じ形をした平屋の建物が規則正しくいくつも並んでいる。ところどころでひどく汚れた揃いの縦縞の服を着た坊主頭の男たちが何やら作業をしているのが見える。やたら痩せていて、緩慢に動く幽霊のような姿にユリウスはぎょっとした。しかしよくよく考えると今は昼間だ。健康で働くことのできる被収容者たちは工場や現場に行っており、彼らは特に弱った病人か何かなのだろう、そう自分を納得させた。

 管理棟に入るとすぐにリーゼンフェルト大尉の部屋に案内された。一足早く着任していたリーゼンフェルトは両手を差し出しユリウスの到着を歓迎した。

「シュナイダー。ああ、もう准尉なんだな。どうだ遠かっただろう。疲れているんじゃないか」

「遠かったですが、俺はただ座っているだけでしたから。ナポラの訓練よりはよっぽど楽でしたよ」

「それはそうだな。まずはヘス所長に挨拶といきたいところだが残念ながら今日は視察で外している。所長室にはまた後日案内しよう」

 大尉はユリウスに椅子を勧めると、後で宿舎の部屋を案内するから今日はとりあえずゆっくり休むよう言った。仕事は明日からで基本的には地味な書類仕事が中心になる。しかし移送人数が爆発的に増える中で現場の人間が圧倒的に足りておらず、実際は必要に応じて移送者の振り分けや被収容者の管理などもやってもらうことになるのだという。

「何でもやります。大尉と仕事ができるなんて光栄です」

 忠誠心や愛国心とは縁遠いユリウスだが、その言葉はまったくの嘘というわけではない。自分に目をかけ希望を叶えてくれた男に対してユリウスは親しみと尊敬を感じていた。ナポラで軍事訓練を受ける中で目にした他の教員と比べてもリーゼンフェルトは圧倒的な統率力や判断力を持つ。たとえそれがユリウスにとって関心のない能力であろうとも憧れに近い感情を抱いてしまうのは、男の本能のようなものなのかもしれない。

 だからこそ、いくら階級的には昇進であるとはいえ軍事部門でなく内勤部署に大尉が配置されるのかは不思議でもあった。まあ、そのおかげでユリウスもこに来る機会を得られたのだが。

「慣れない環境で戸惑うこと、疲れることも多いだろうから、せめて今日だけは少し体を休めてくれ」

「ありがとうございます。収容所はやはり今までに見てきた場所とは違っているようです。病人ですか? 痩せ細った男たちを見かけました。それになんだか変なにおいも……」

 するとリーゼンフェルトは少し視線を落とし、運転手の男同様に歯切れの悪い言葉を口にした。

「明日以降いろいろなことがわかる。そう焦るな」

 その言葉はユリウスの心に漠然とした影を落とした。

 大尉の部屋を出てから宿舎の部屋を案内された。二人部屋だが今はちょうど空きが出ていてユリウスひとりなのだという。運が良いと思う反面、数年間の集団生活に慣れきった身には広すぎる部屋が奇妙に寂しく感じられる。

 荷物の整理をし終えて、少し外の様子を見ようと部屋を出たところで、廊下を歩いてきた人影と肩がぶつかった。相手は長身のユリウスよりさらに背が高いが、俯いているせいで金色の髪に覆い隠された顔は見ることができない。

「すみません」

 正直前を見ずふらふら歩いていた相手の方が悪いのだが、反射的に謝った。新入りなので相手が上官なのか格下なのか瞬時にはわからない。下手に目をつけられれば面倒なことになる。

 だが、ふらつきながら顔を上げた相手の顔にユリウスは見覚えがあった。じっと眺め、それが旧知の男であることを確信する。

「ダミアン? あなた、ダミアンじゃないですか」

「……ユリウス? なぜ君がここに」

 目の前にいるのはなんと、故郷ハンブルクのヒトラー・ユーゲントでかつてユリウスの相談に乗ってくれた先輩隊員のダミアンだった。ユリウスが現在の道を選ぶ決意をするきっかけを作った人物でもある。

 まさかこんなところで再会できるとは。ユリウスの心は一気に明るくなった。

「ダミアン。俺、三年前にハンブルクに帰ったときにあなたに会いにいったけど、親衛隊に入って訓練に行ってしまったと聞いて残念で……。あれからあなたに言われた通り勉強も訓練も頑張ってきました。最近親衛隊に入隊して、今日からここに配属されたんです」

 喜びのあまり一気にまくし立てたところで、ふと気づく。いつも凜々しく輝いていたダミアンの表情は暗く、以前に比べて痩せたように見えた。ユリウスとの再会にも喜ぶどころかショックを受けたような顔をしている。こんなダミアンはハンブルクでは一度も見たことがなかった。

「ダミアン、もしかして具合でも?」

 ダミアンはユリウスを直視しない。視線をそらしてしばらく何も言わず黙っていたが、やがて絞り出すように言った。

「まさか、君がここに来るなんて」

 暗い声に、ユリウスはダミアンが自分との再会をまったく喜んでいないことに気づいた。かつてあんなに親切にしてくれたのに一体なぜ――。

 驚き、どう返事をすれば良いのかわからずにいるユリウスの視線を受けダミアンは小さく震え出した。そしてユリウスの肩をつかむと、周囲に人影がないことを確認してから小さな声でつぶやいた。

「ユリウスすまない。君をこんなところに連れてきてしまったのは僕の責任だ。君は僕を恨むだろう」

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