58. 第4章|1943年・アウシュヴィッツ

「ダミアン……?」

 震えながら絞り出すように謝罪を口にする、それはユリウスの知るダミアンとは別人のように見えた。あれだけ熱烈に親衛隊員になることを夢見ていたダミアンに一体何が起きてしまったのか。そして、なぜユリウスがダミアンを恨むなどと言うのか。

 ユリウスは混乱したが、それ以上にダミアンの動揺は大きいようだった。若さと自信に満ちあふれていた青い目が今では暗くよどんでいる。

「ダミアン、仕事は?」

「体調が悪くて抜けてきたんだ……」

 もしかして、ふらついているのも震えているのも体調不良のせいなのだろうか。心配になって額に触れてみるとそこはむしろ冷たく、風邪や発熱の類ではないようだ。ユリウスはとりあえずダミアンの腕を取り、すぐ近くにある自分の部屋に連れて行くことにした。

 辛いなら横になるかと聞くが首を振って断るので、寝台に座らせる。並んで座るのも気が引けて、椅子を引いて向かい合った。改めてまじまじと眺めると、ぱさついて光沢のない金色の髪に荒れた肌、こけた頬。ダミアンはひどく消耗しているようだった。

「一体何があったんですか。あんなに希望を持って親衛隊を目指していたあなたが。良い国を作るんだって言っていたのに」

「……子どもだったんだ」

 ユリウスの言葉に、ダミアンは膝の上の拳を震わせた。

「きれいごとや欺瞞を真に受けてとんでもないばかだった。僕はナチがどういう奴らなのかも、戦争がどんなものなのかもろくに知りもしないくせに憧れて。しかもそれを偉そうに語って聞かせ、幼い君をこんな場所に引きずり込むきっかけを作ってしまったんだ」

 そこまで言ってはっと顔を上げると、ダミアンは窓とドアを気にした。党への批判じみたことを口にしてしまったので、誰かに聞かれていないか不安になったのだろう。

 ユリウスはいったん立ち上がり、廊下を確認した上で念のため部屋の扉に鍵をかけ窓の外も目視した。それから座り直し再びダミアンに向かって口を開く。

「ダミアン、それじゃわかりません。俺はあなたに感謝はしているけど恨んでなんていません。ずいぶんやつれているみたいだし……親衛隊に入隊してから何があったんですか?」

「僕は、殺した」

「……戦争なんだから、人が死ぬのは仕方ないことです」

 もちろん穏やかな話ではないが、親衛隊員になった以上、戦場で人を殺める可能性はユリウスだって織り込み済みだ。

 だがダミアンはユリウスの言葉に噛みつくように反論する。

? わかったようなことを言うな。僕が殺したのは兵士なんかじゃない。無抵抗な丸腰の一般市民を――女や子どもまでも撃ち殺したんだぞ」

 突然の告白に、ユリウスは絶句した。

 開戦以降あちこちで市街戦が起きていることは知っている。そこで一般市民が犠牲になることがあるというのも想像がつく。ポーランド侵攻のときは、ニコがどこかで戦闘に巻き込まれやしないか心配したものだ。

 しかしそれでもユリウス自身がナポラで軍事訓練を受け、いざ武装親衛隊の一員になるにあたって思い描いた戦争――戦闘とは軍人対軍人の間で行われるもので、自分が一般市民を殺すというようなイメージを持ったことはない。こんな風に目の前にいる知り合いから抵抗もできない女子どもを撃ち殺したという話を聞くとさすがに平静ではいられない。

 ダミアンはうつむいたまま、ぽつぽつと話しはじめた。

 入隊後訓練の後、特別行動部隊アインザッツグルッペンに配置され、ソ連への侵攻に参加することになったこと。国防軍や警察大隊とともに前線へ行ったが、そこで任された仕事は占領を終えた都市においてパルチザンやユダヤ人、共産党員などの反乱分子を集めて皆殺しにすることだったこと。

「何も知らない怯えた市民を森まで連行するんだ。そこにはあらかじめ大きな穴が掘ってある。言うまでもないが墓穴だよ。ひとりひとつなんてものでなく、まとめて死体を埋めるための」

 ダミアンはその続きを話すための勇気を絞り出すように、一度そこで小さくため息をついた。

「彼らを穴の縁に並んで立たせてひとりずつ後ろから撃つんだ。体はそのまま傾いて落ちるから、わざわざ遺体を墓穴に運ぶ必要もない。数が多いときは、穴の中にあらかじめ積み重なって横たわらせて上から一気に機銃掃射したこともある。全員が死んだら次のグループに、その上に横たわるよう命じる」

 聞いているだけで気分が悪くなってきた。誇り高き軍人になることはドイツ男子としてのひとつの理想だとさんざんナポラで聞かされ、いつのまにかユリウスも頭の中で多少は自分の国や軍人というものを理想化していたようだ。何よりナポラでは、ドイツが占領区域で一般市民をそんな目にあわせているなどとは一度も聞かされたことがなかった。

 穴を掘るのが間に合わない場合は連れてきた市民に自らの墓穴を掘らせることすらあったと聞くに至って、ユリウスは喉の奥に酸っぱい胃液があがってくるのを感じた。

「そんなやり方……誰も何も言わなかったんですか?」

「残酷だからやめろって? 前線で誰がそんなこと言える。それに、あの異常な状況の中では何人か殺しているうちに心が麻痺してくるんだ。中には何人連続で一発でしとめたか競争するようなやつもいたよ。僕は戦争やこの国を甘く見ていた。強い奴は環境に適応し弱い僕は離脱した。配置換えの結果送られたのが……よりによって、ここだ」

 そう言ってダミアンは少しだけ笑った。今日初めて見る笑顔だが、もちろん昔の彼の輝くような笑顔ではなく、口の端をかすかに動かすだけの自嘲じみたものだった。

 ユリウスはダミアンが疲れて傷ついていることを理解した。戦場で一般市民を殺戮する片棒を担ぎ、耐えきれず戻ってきた。国や党、親衛隊への理想は崩れ去っただろうし、殺人の罪悪感も消えず苦しんでいるのだろう。

 聞かされた話はもちろんユリウスにとっても衝撃的なものだが、今は自国が他国で行なっているという蛮行よりも、目の前の旧知の男を落ち着かせることに集中しなければならない。

「辛い思いをしたんですね。でも、ここは前線ではないからせめて少しゆっくり……」

 しかしダミアンは、ユリウスの言葉を遮って身を乗り出し、顔を寄せてきた。

「ユリウス、おまえは着いたばかりでまだ何も見ても聞いてもいないんだな」

 そして突然話題を変える。

「なあユリウス。ここ、変なにおいがすると思わないか?」

「ええ。外に出ると今まで嗅いだことのない奇妙な……」

「あれは人間を焼いているにおいだ」

 ユリウスは再び言葉を失う。

 到着して車を降りたときから感じている異臭、あれが人間を焼くにおいだと?

「それだけじゃない。まだ燃やしていない人間の死体、焼かれた灰、被収容者の糞尿なんかがまざってこんな異様なにおいが漂っているんだ。敷地内の煙突は見ただろう。あそこからのぼるのは人間を燃やす煙だ」

 アウシュヴィッツにはここのところ毎日ヨーロッパ中から鉄道で大量の人間が移送されてきている。そのほとんどがユダヤ人であり、その数はいくらこの収容所が広大でいくら工場で働く人間が必要だとしてもとても収容しきれる数ではないのだとダミアンは言った。

「死んだ人を焼くという意味ではなく?」

「焼くのは死んだ人間だ。生きたまま焼くのは効率が悪いからな。ここでは労働に適していない人間はまとめて部屋に詰め込んで、毒ガスで一気に殺してそのまま焼くんだ。さながら死体工場だよ」

 話しているうちに興奮してきたようでダミアンの声は大きくなった。目は奇妙にらんらんと輝き、つばを飛ばして残酷な話をまくしたてる。

 ユリウスは、ダミアンは前線で頭がおかしくなってしまったのだと思った。市街戦で一般市民を殺したのは本当なのだろう。そして、そのときのショックで精神のバランスを崩してしまったのだ。あの奇妙なにおいの原因など話自体は現実と符合しているが、まさか人間をわざわざ集めてガスで殺すなど、そんなばかなことが――。

「落ち着いてダミアン。あなたは具合が悪いんだ、休まなきゃ」

 腕を取り立ち上がらせて、ユリウスはダミアンを部屋から連れ出した。部屋に戻りたいと言うのをなだめつつ診療室の場所を聞き連れていく。

 軍医はダミアンを見ると「またか」と言いたげな表情でベッドに寝かせ、鎮静剤を打った。

「故郷の知り合いなんですけど、まるで別人のようになっていて。前線でたいへんな思いをしたようです」

 眠るダミアンを眺めながらユリウスがつぶやくと、軍医は険しい顔で「ドイツ人男子にはあるまじき軟弱な精神だな」と吐き捨てた。ユリウスはそれ以上何も言えなくなり、居心地悪く窓に目をやった。

 窓の外には遠く収容所敷地内の煙突が見える。そこからはさっきと同様、細く白い煙が流れ続けていた。